第10話 ~哲人side~ 見ていた
「いじめられていたの」
栞がそう言ったとき、僕は返事ができなかった。
理解できなかったからだ。
いや。
正確には違う。
その事実を知らなかったわけではなかった。
ただ、一度も名前をつけていなかった。
僕は昔から勉強ができた。
運動も、それなりに。
教師の説明は一度で頭に入ったし、試験の点数で困ったこともなかった。
けれど、人の気持ちだけは驚くほどわからなかった。
誰が傷ついているのか。
誰が笑えなくなっているのか。
そういうことに気づかなくても、成績は下がらない。
だから困らなかった。
栞は同じ中高一貫校の特進コースにいた。
綺麗な人だった。
文化祭では目立った。
体育祭でも目立った。
本来なら教室の中心にいるような人だった。
ただ、成績だけが振るわなかった。
いつも最下位だった。
しかも二番目とは少し差があった。
試験返却の日になると、教室には独特の空気が流れた。
誰も順位を口にしない。
けれど全員が知っている。
休み時間になる。
机が動く。
輪ができる。
栞はその外側にいる。
そんな光景を何度も見た。
見ていた。
本当に見ていた。
けれど僕は、それを何とも思わなかった。
栞が特進コースから進学コースへ移ると決まったときも同じだった。
生徒たちは陰でそれを「ドロップアウト」と呼んでいた。
誰が最初に言い始めたのかは知らない。
ただ、その言葉だけは教室に定着していた。
進学コースの生徒だって十分優秀だった。
それなのに、一度外れた人間には別の名前がつく。
僕はそれも見ていた。
そして何も感じなかった。
放課後だった。
「付き合ってください」
栞は下を向いたまま言った。
僕は返事に困った。
嫌いではなかった。
むしろ好感を持っていた。
けれど好きかと訊かれれば、自信はなかった。
ただ、その頃の僕は恋愛に憧れていた。
放課後に一緒に帰る男女。
休日に映画へ行ったという話。
そういうものを遠くから眺めていた。
だから少し考えて頷いた。
断る理由も見つからなかった。
栞は安心したように笑った。
その笑顔を見て、僕も少し安心した。
恋人になった。
そして最初の会話で、栞は言った。
「わたし、いじめられていたの」
僕は黙った。
何を言われているのかわからなかった。
いや。
言葉の意味はわかる。
わからなかったのは、その言葉と栞が結びつかなかったことだ。
だって僕は見ていた。
栞が輪の外に立っているところも。
誰も話しかけないところも。
教室の空気が彼女を避けて流れていくところも。
全部見ていた。
それなのに。
僕は一度も考えなかった。
あれが何だったのかを。
だから、そのときようやく気づいたのだ。
わかっていなかったのは、「いじめ」という言葉じゃない。
栞という人間だった。




