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第6話 ~哲人side~ 言葉になる前

 それは小学校を卒業した春休みだった。


 僕たち家族はガボンにいた。


 父は地図を指しながら、


 「カメルーンの南だ」


 と説明した。


 僕は頷いた。


 実際にはよくわかっていなかった。


 日本を出てから何度も飛行機を乗り継いだ。


 窓の外の景色が変わるたび、世界は思っていたよりずっと広いのだと知った。


 旅行の名目は中学受験の合格祝いだった。


 けれど本当は、家族それぞれの願いを少しずつ混ぜた旅だったのだと思う。


 学人は動物を見たがっていた。


 母は覚えたばかりの(父の使えない)フランス語を使いたがっていた。


 父はそんな二人を眺めるのが好きだった。


 そして僕は、ただ遠くへ行きたかった。


 理由はなかった。


 遠くへ行けば何かがあるような気がしていた。


 ガボンの空気は重かった。


 飛行機を降りた瞬間、湿った熱が肺の奥まで入り込んできた。


 息を吸うたび、身体の内側にまで緑が染み込んでくるようだった。


 一日目は移動日。


 二日目はその休養日。


 三日目。


 ようやくサファリが始まった。


 車は森の中を進んだ。


 揺れた。


 ひたすら揺れた。


 木々の隙間から動物が現れては消える。


 ゴリラ。


 バッファロー。


 色鮮やかな鳥。


 名前のわからない生き物たち。


 学人はそのたびに歓声を上げた。


 やがて車を降りた。


 森の中へ入る。


 湿気が肌にまとわりつく。


 土の匂いが濃かった。


 落ち葉が腐り、また土へ戻っていく匂いだった。


 三十分ほど歩いたところで休憩になった。


 水場があった。


 ガイドが足を止める。


 何かを見ている。


 そして小さく呟いた。


 「ミラクル……」


 その声につられて顔を上げた。


 最初は岩だと思った。


 白かったからだ。


 だが、その岩は動いた。


 耳が揺れた。


 水が跳ねた。


 巨大な鼻が持ち上がる。


 ゾウだった。


 白いゾウだった。


 森の奥から差し込む夕陽が、その身体を照らしていた。


 周囲の緑だけが沈み、


 そこだけ光が残っていた。


 現実感がなかった。


 夢の中でしか見られない景色のようだった。


 学人が慌ててカメラを構える。


 その瞬間、


 「ノー!」


 ガイドが叫んだ。


 鋭い声だった。


 学人は反射的に手を止める。


 誰も動かなかった。


 風もなかった。


 聞こえるのは水音だけだった。


 白いゾウはゆっくり鼻を持ち上げた。


 その動作ひとつで空気が変わる。


 まるで森そのものが息を潜めているようだった。


 父も黙っていた。


 母も黙っていた。


 学人も黙っていた。


 僕も黙っていた。


 ただ見ていた。


 目を離せなかった。


 美しいと思った。


 だが、それだけでは足りなかった。


 珍しいとも思った。


 それも違った。


 言葉にすると壊れてしまう何かが、そこにあった。


 白い巨体は夕暮れの森の中に立っていた。


 光を浴びながら。


 静かに。


 圧倒的に。


 帰国して何年も経ったあとでも、その姿だけは忘れなかった。


 なぜ忘れなかったのか。


 今なら少しだけわかる。


 あの日の僕は、初めて理解したのだ。


 世界には、説明より先に畏れが訪れるものがあるのだと。

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