第三話 振れない剣
泥掘りのひと月が終わり、ようやく木剣が配られた。
配られた、というより投げ渡された、と言うほうが近い。バルガスは新入生を一列に並ばせ、ひとりずつの手に古びた木剣を叩きつけるように握らせていく。柄はすり減り、刃には無数の打ち傷が刻まれていた。何十人もの先輩が握り、そして去っていった剣だ。僕の番で、教官はほんの一瞬だけ手を止めた。
「おまえ、名前は」
「シオンです」
「番号じゃなく名前を聞いたのは、おまえで二人目だな」
薄く笑う。褒められたと思うほど、僕は単純ではなかった。この人が名前を覚えるのは、見込みのあるやつか、早死にしそうなやつのどちらかだ。たぶん僕は後者だろう。渡された木剣は、思ったよりずっと重かった。
組み手が始まると、それはすぐに証明された。
僕は弱い。ガロと打ち合えば三合ももたず、走れば最後尾。怒鳴られない日はなかった。
それでも、ひとつだけ他人と違うところがある。
相手の剣が来る前に、それがどこへ来るかがわかる。相手の頭で「右へ打ちこむ」という意志が固まる、その半瞬前の気配が、後頭部にちりちり流れこんでくるのだ。魔法の詠唱を読むのと同じ力が、剣を握った人間の殺意にも反応する。だから僕は、来ると決まった一撃を、来る前に体をずらしてかわせた。
問題はその先だ。読めても、返す力がない。避け続けて息が切れ、いつも泥に膝をつく。ガロが呆れ半分に言った。
「おまえ、避けるのだけは天才だな。なのに一発も当てられねえの、逆にすごいわ」
「……返す言葉もないよ」
顔を見合わせて、少しだけ笑う。こういうやり取りが、泥だらけの毎日のなかの、ささやかな救いだった。笑えるうちは、まだ大丈夫だ。そう思うことにしていた。ガロは強い。まっすぐで、迷いがない。そのまっすぐさが、ときどき眩しくて、少しだけ胸が痛んだ。僕には、あんなふうに迷いなく生きる道は、もう残されていない。
けれど、避けてばかりの戦い方には、代償があった。
相手の意志を読むたび、頭のノイズが濃くなる。そしてその夜には決まって、体のどこかの感覚が薄くなるのだ。ある夜は右手の指先が鈍り、ある夜は遠くの物音がくぐもって聞こえた。使うほど、僕はすり減っていく。わかっていて、やめられない。避けなければ、今日にも頭を割られて終わりなのだ。
ある日の午後、バルガスが僕を名指しで前に呼んだ。
「シオン。俺と打ち合え」
訓練場が静まり返った。教官が新入生と直接打ち合うのは珍しい。ましてや、いちばん弱い僕を選ぶなど。ガロが「おい、大丈夫かよ」と小声で言ったが、断れる空気ではなかった。
木剣を構えたバルガスは、山のようだった。構えただけで喉の奥がひやりとする。本気を出してもいないのに、この威圧感か。僕は足の震えを必死にこらえた。頭を覗こうとしても、この人の思考の芯はうまく読めない。長年戦場を渡ってきた人間は、剣を握るときの意志が研ぎ澄まされすぎて、かえって気配が薄いのだ。
「来い」
来い、と言われて来られる相手ではない。だから僕は動かなかった。ただ、いつも以上に深く、相手の頭へ神経を集中させる。
――来る。
意志が、ほんのわずかに固まった。左足に体重が乗り、剣は上段から右肩へ。読んだ瞬間、僕は半歩だけ体を落とした。木剣が耳のすぐ横をかすめ、風がびゅっと鳴る。紙一重。当たっていれば意識を刈られていた一撃を、ぎりぎりでよけた。
「ほう」
バルガスの目が細くなる。すぐに二撃目、今度は下から。読んで跳ぶ。三撃、四撃。速い。読めても体がついていかず、四撃目は肩をかすめて焼けるように痛んだ。それでも、致命の一撃だけはすべてかわしていた。呼吸はもう限界で、心臓が胸を突き破りそうに鳴っている。
やがてバルガスが剣を下ろした。
「おまえ、剣の腕はまるで駄目だ」
「……はい」
「だが、目がいい。いや、目じゃねえな。おまえは相手の動きを目で追ってねえ。もっと別のもんで、来る前に読んでる」
背筋が冷えた。この人は、たった数合で僕の秘密の入り口に触れていた。
「昔、そういうやつをひとりだけ見た。戦場でな。理屈じゃなく、敵の殺気を先に食らうやつだ。ああいうのは、たいてい長生きしねえ。人の殺意を先に浴び続けるってのは、そのぶん自分の何かを削るってことだからな」
じっと僕の顔を覗きこむ。傷だらけの目の奥に、ふと痛ましげな色が差した。この人の目に、僕はどう映っているのだろう。痩せて線ばかりの体、汗で額に張りついた黒い髪、落ちくぼんで隈の濃い、暗い色の目。剣士にはとうてい見えない、坂の下の泥犬の姿だ。
「おまえ、目の奥に妙な影がある。死にたがりの影だ。戦場で嫌ってほど見てきた。守りたいもんのために、自分を安く見積もるやつの目だ。そういうのはたいてい、守りたいもんを守り切る前に、自分から先に壊れて逝っちまう」
言葉が出なかった。図星だった。この人は剣の腕より先に、僕の心の底を見抜いていた。
「剣は教えてやる。おまえの体じゃ、正面から打ち合っても勝てん。だが、避けて隙を突く。おまえにはそれが向いてる。ただし、ひとつだけ約束しろ。おまえの命は、おまえが思ってるより高い。安売りするな」
僕は答えられなかった。ただ泥の上に立ち尽くし、木剣の柄を握りしめていた。安売りするな、と言われても、僕はもう、自分の命を担保に入れることでしか進めない場所に立っている。それでも、この不器用な教官が本気で身を案じてくれているのは、痛いほど伝わってきた。
その日を境に、バルガスの指導は変わった。
ほかの新入生には、力の乗せ方や踏みこみの速さを叩きこむ。けれど僕にだけは、別のことを教え始めた。相手の呼吸を読む間合い。かわしたあと、いちばん脆い一点に最小の力で刃を通す角度。倒すためではなく、生き延びて、たった一度の隙を確実にものにするための剣だ。
「おまえは百回打ち合って百回勝つ必要はねえ。一回、相手が固まった刹那に急所へ一本通せればいい。剣士ってより暗殺者の考え方だがな。おまえには、それが性に合ってる」
暗殺者、という言葉に、遠くでガロが顔をしかめた。けれど僕には、その教えが妙にしっくりきた。相手の思考が乱れて動きが止まる、あの一瞬。僕の力が作り出せる静寂と、バルガスの剣術は、恐ろしいほど噛み合っていた。まるで、このためにこの人と出会ったみたいに。
もちろん、体はまだついてこない。教わったとおりに踏みこもうとしても、足がもつれて泥に転ぶ。何度も転んで、何度も立ち上がった。豆が潰れ、膝が擦り切れ、それでも木剣を握り直す。ここで折れるわけにはいかない。坂の下で足踏みしているあいだにも、あの尖塔では、生贄の刻がじりじり近づいているのだから。
「筋がいいとは言わねえ」
稽古のあと、バルガスがぽつりと言った。
「だが、しつこい。おまえのそれは、才能じゃなく、執念だ。……執念で剣を握るやつを、俺は嫌いじゃねえ。ただな、執念ってのは、体より先に心を焼き切る。おまえ、燃やしすぎるなよ」
答えず、僕は頭を下げた。燃やしすぎるな。その忠告が、正しいのはわかっていた。わかっていて、僕には止められない。焼き切れるまで燃やすつもりで、僕はここへ来たのだから。
その夜、寝台で右の手首をさすった。今日、力に近いものを使うたび、手首がじんと痺れた。そして夕食の味が、少し薄い。塩をきかせた芋の煮物なのに、舌の上でぼんやりぼやけている。
味覚が、わずかに欠け始めている。
まだ誰にも言えない。言えば、僕がここにいる理由まで話さなければならなくなる。ただ、夜のなかでひとり、削れていく感覚を静かに数えた。焦りはない。遠い尖塔の明かりだけが、やけに眩しく見えた。
翌朝、食堂で出た粥を、僕はわざと味わって食べた。塩の味が、昨日より少し遠い。それでもまだ「しょっぱい」とわかる。よかった、と思ってしまう自分がいて、その安堵の浅ましさに、少しだけ笑えた。人はこんなふうに、失っていくものの残量を数えて生きるのかもしれない。
向かいの席で、ガロが不思議そうに僕を見ていた。
「おまえ、なんでそんな真剣に粥食ってんだ」
「……うまいから」
「こんな薄い粥が? おまえ、舌おかしいんじゃねえの」
おかしいんだよ、本当に。心のなかだけで答えて、僕はもう一口すくった。この何気ないやり取りを、いつまで交わせるだろう。聴覚が欠ければ、ガロの憎まれ口も、いつか遠くなる。そう思うと、いまのくだらない会話のひとつひとつが、やけに愛おしかった。粥は薄い。それでも、温かい。その温かさだけは、まだ、ちゃんとわかった。
「おまえの命は、おまえが思ってるより高い。安売りするな」
そう言われて、答えられなかった。
粥の味が、昨日より少し遠い。




