第二話 鉄と泥の匂い
帝立ルシド剣術学校の門は、錆と苔にまみれていた。
坂の上の白い尖塔とは別の国だ。あちらが空へ伸びるなら、ここは泥へ沈んでいる。けれど僕が来たかったのは、こちらだった。
「新入り。ぼさっとするな。荷物を置いたらすぐ訓練場だ」
門の内で待っていた上級生が、僕の胸に木札を放って寄こした。番号だけが刻まれている。名前ではない。ここではまず番号で呼ばれ、剣を認められて初めて名を呼んでもらえるらしい。裏を返せば、名を呼ばれないまま消えていく者も大勢いるということだ。
寮は六人詰めの相部屋だった。藁を固めた寝台が壁に並び、隅にはなぜか土の匂いが染みついている。窓は小さく、昼でも薄暗い。あとで知ったが、新入生は最初のひと月、訓練場の泥を掘り返す作業からやらされる。剣を握らせてもらえるのは、そのあとだ。掘って、運んで、ならして、また掘る。剣士というより土工の見習いだった。
「魔法学校に落ちた口か」
いちばん奥のやつが声をかけてきた。がっしりした体つきの、僕より頭ひとつ大きい少年だ。日に焼けた腕には、もう剣だこができ始めている。
「落ちたわけじゃない。自分で選んだ」
「へえ」
そいつは鼻で笑った。悪意というより、面白がるような笑い方だった。
「変わってんな。ここを自分で選ぶやつなんて初めて見た。俺はガロ。北の農村の出だ。おまえは」
「シオン」
「シオンか。ま、三日で泥に慣れるか、三日で逃げ出すかのどっちかだ。せいぜい前者でいてくれよ。逃げたやつの寝台を片づけるのは、いつも残ったやつの仕事なんでな」
軽い口ぶりの底に、もう何人も見送ってきた者の乾いた響きがあった。この部屋の六つの寝台のうち、二つは主を失って久しいという。
訓練場に出ると、噂どおりだった。
広い泥の平地のまんなかに、大男がひとり、腕を組んで立っている。四十手前だろうか。灰色の短い髪、日に焼けた首、そして左の頬から顎へ走る古い刀傷。ひと目で、本物の戦場を知っている人間だとわかった。頭を覗くまでもない。立ち姿だけで、生き死にの間合いを体で覚えた者の匂いがした。
「新入りは前へ出ろ」
怒鳴ってもいないのに、腹の底に響く低い声だ。
「俺はバルガス。貴様らに剣を教える。いや、正しくは剣じゃない。死なない体の作り方を教える。ここへ来た時点で、貴様らはもう国の消耗品だ。魔法学校の連中が唱える立派な呪文の、盾になって死ぬのが仕事だ」
誰も声を上げなかった。冗談で言っていないと、その場の全員がわかっていた。坂を下るあいだに残っていたわずかな希望が、新入生の顔から、みるみる抜け落ちていく。
その口ぶりに、脅しの気配はなかった。ただ事実を並べているだけだ。だからこそ、重い。ひとりの新入生が、ぽつりとその場にしゃがみこんだ。膝が抜けたのだ。バルガスはそれを、責めも笑いもしなかった。ただ、じっと待っていた。
「だが――」
バルガスがゆっくり歩き出す。泥がぶちゅりと鳴った。
「消耗品にも意地がある。俺は貴様らを、簡単には死なない消耗品に育てる。何度でも立ち上がる、しぶとくて厄介なやつにな。気に食わんなら、いま門を出ろ。止めはせん」
誰も動かない。動けるだけの金も家もない者ばかりだからだ。バルガスはそれを見届けると、ふん、と鼻を鳴らして背を向けた。
その日から、地獄が始まった。
夜明け前に泥を掘る。手のひらが破れたら素振り。規定に届かなければ夕食はない。日が暮れるころには、足も腕も自分のものではなかった。
僕はもともと体が弱い。三日目には熱を出して寝台から起きられなくなった。関節が軋み、指の先まで脈打つように熱い。おまけに、寝こんでいるあいだも頭のノイズは消えない。同室の連中が眠りながら見る夢の断片が、熱にうかされた頭へなだれこんでくる。誰かは故郷の畑の夢を見ていた。誰かは死んだ妹の夢を見ていた。他人の夢に溺れて、僕は自分がどこにいるのかもわからなくなった。
「情けねえな」
ガロが水を運んできてくれた。荒っぽいわりに、こういうところは面倒見がいい。濡らした布を、ぽんと額に乗せてくれる。
「無理すんな。おまえ、体の作りが剣士じゃねえだろ。魔法学校のほうが、まだ生きられたんじゃねえのか」
「……それじゃ、駄目なんだ」
「あ?」
「魔法じゃ守れないものがある。だから、ここにいる」
ガロは怪訝な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。ここには事情を抱えたやつばかり集まっている。深く詮索しないのが暗黙の掟なのだと、僕もだんだんわかってきた。誰もが口にできない何かを泥の下へ埋めて、ここに立っている。
「俺には妹がいてな」
ふと、ガロがぽつりと言った。聞いてもいないのに。
「畑が不作で、去年の冬は飯が足りなかった。俺がここで手当をもらえば、その分だけ家に送れる。だから意地でも生き延びて卒業する。おまえも死ぬなよ。理由があってここにいるなら、なおさらだ」
熱で朦朧とした頭に、その言葉がじんわり染みた。ありがとう、とうまく言えなくて、僕はただ小さくうなずいた。
同じ部屋には、ほかにも癖のある連中がいた。いつも聖典をぶつぶつ唱えている痩せたトビィ。口数は少ないが飯だけは誰より食う大男のドーラン。それぞれが坂の下へ流れ着くだけの事情を抱えている。夜になると、誰かの寝息にまじって、押し殺したすすり泣きが聞こえることもあった。故郷を思ってか、失った者を思ってか。僕は聞こえないふりで、天井の梁の染みを数えた。ここでは涙を見て見ぬふりするのが優しさなのだと、いつのまにか覚えた。
朝がくれば、また泥だ。掘って、運んで、素振りをして、飯を奪い合うように食べて、泥のように眠る。その繰り返しのなかで、手のひらの豆はいくつも潰れ、そのたびに新しい皮が張った。まだ何も斬れない。それでも体は、確かに変わり始めていた。
一度、同期のひとりに突っかかられたことがある。訓練の列で肩がぶつかった、それだけの理由だ。相手はいきなり木剣を振り上げてきた。周りが息を呑む。僕はとっさに半歩さがって、その一撃を空に泳がせた。当てられなかった相手は、かえって顔を真っ赤にして、何度も打ちかかってくる。当たらない。ひとつも当たらない。やがて息を切らして立ち止まった相手を、僕はただ黙って見ていた。勝ったわけではない。ただ、当てさせなかっただけだ。
「……気味の悪いやつ」
そう吐き捨てて、相手は去った。遠くでバルガスが、腕を組んだまま、こちらを見ていた。
熱が下がってから、僕は妙なことに気づいた。
素振りも走りこみも、僕は同期の誰より下手くそだ。力もない。持久力もない。それなのに組み手になると、なぜか相手の動きの先が読める。相手が右へ踏みこもうとする、その一歩前の、まだ筋肉が動く前の「意志」が、後頭部にうっすら流れこんでくるのだ。
剣を握る相手の意志にも、僕の力はわずかに触れた。だから先に避けられる。
ただ、避けた先で打ち返す体がない。息を切らして泥へ膝をつく僕を、バルガスは一度だけ黙って見ていた。
その視線の意味を、僕はまだ知らなかった。ただ、傷だらけの顔の奥に、何か見透かすような光がよぎったのを、泥まみれの視界の端で確かに感じた。
その夜、寝台で遠い尖塔の明かりを思った。あの光の下で、エレナは今ごろ何を思っているだろう。僕を薄情な男だと恨んでいるだろうか。それでいい。恨んでくれたほうが、あの子はきっと前を向ける。
鉄と泥の匂いの染みた手のひらを、そっと握りしめる。まだ何ひとつ守れてなどいない。ここは始まりの泥ですらない、その手前だ。それでも坂の下から見上げる尖塔は、あの日より少しだけ近くに見えた気がした。
隣で、ガロがもう寝息を立てている。荒っぽいくせに、寝顔だけは子どもみたいに無防備だ。こいつには妹がいて、帰る村がある。僕の帰る場所はどこだろう。強いて言えば、エレナが笑っていられる世界。それが僕の帰りたい場所なのかもしれない。たとえその世界に、僕自身の居場所が残っていなくても。
外で夜風が鳴っていた。明日もきっと、泥を掘る朝が来る。僕は毛布を引き上げ、そっと目を閉じた。
名を呼ばれるより先に、泥に消えていく者がいる。
それでも坂の下から見上げる尖塔は、昨日より少し近い。
――まだ、始まりの泥ですらない。




