第一話 泥犬の選択
光の側の話は、きっと誰かが書く。
これは、泥の側の話だ。
僕の幼なじみは、いずれ生きたまま焼かれる。この国を守る結界の、燃料として。
それを知っているのは、たぶん世界でただ一人、僕だけだ。そして、その運命を覆せる力を持っているのも。
頭の奥では、知らない誰かの詠唱が、いつも軋んでいる。言葉になる前の魔法だ。細い針金を引きちぎるような音が、後頭部の裏でずっと鳴る。ひどい日は、知らない人間の殺意まで流れこんでくる。他人が組み上げる詠唱の芯が、僕には透けて見える。そして触れれば、壊せる。便利な力ではない。使うたびに何かを失う、呪いだ。
だから今日、僕はいちばん眩しい道を、自分の手で捨ててきた。
桜の下で、僕を見上げるエレナが、どんなに必死に言葉をさがしているかも、痛いほど伝わってくる。
「シオン、どうして……?」
白銀の桜が風に散る。合格証を胸に抱いた彼女の声は、あきらかに震えていた。風にほどけた亜麻色の髪を片手で押さえ、若葉色の大きな瞳が、不安げに僕を見上げている。帝立ソリス魔法学校。選ばれた者だけが門をくぐれる、この国でいちばん眩しい場所だ。
その前で、僕は自分の書類を四つに折ってポケットの奥へ押しこんだ。墨みたいに黒いインクで刷られた文字を、彼女には見せたくなかった。
『帝立ルシド剣術学校』。
魔力の低い者、家柄のない者。要するに、使い捨てにされる側の人間が流れ着く場所である。十六の春の適性審査で、行き先はすべて決まる。片や光の塔、片や泥の地面。この国では、その二つのあいだに橋はかかっていない。
「シオンの魔力が高くないのは、わたしだって知ってる。でもね、特待生の推薦枠があるの。わたしの従卒になってくれれば、あなたも一緒に――」
「エレナ」
彼女の言葉を、僕はそっとさえぎった。うまく笑えているといい。そう祈りながら、口の端を持ち上げる。
「僕は剣のほうが性に合ってるんだ。杖を構えて長ったらしい呪文を並べるより、ずっとね」
嘘だった。
剣なんて、素振りを十回もすれば手の皮がめくれる。鉄の匂いは吐き気がするし、少し走れば肺の奥が焼ける。もともと丈夫な体じゃない。剣士に向いた人間なんかじゃ、まるでない。
僕とエレナは同じ孤児院で育った。親の顔を知らない子どもばかりが身を寄せ合う、貧しい家だった。冬になると隙間風でみんな鼻を赤くして、一枚の毛布を取り合って眠った。そのなかでエレナだけが、なぜか特別に光っていた。小さな手のひらから、ふわりと暖かな光をこぼす。凍えた僕の指を、彼女はいつもその光であたためてくれた。
「シオンは手が冷たいね」と彼女は笑った。「わたしがあっためてあげる。ずっと」
ずっと。あのころの僕は、その言葉を本気で信じていた。
けれど大人たちは、その光をただ美しいものとしては見なかった。エレナの聖魔力が並外れて高いと知れわたった日、僕は院長と役人の話を、例の力でうっかり拾ってしまった。帝都の大結界。それを維持する炉。くべられる、生きた薪。
彼女はいずれ、この国の魔術師どもに選ばれる。帝都をぐるりと囲む結界の炉へ放りこまれる「生きた電池」として、光の塔の最奥に閉じこめられる。僕はそれを、ずっと前から知っていた。そして、その檻の鍵を握る連中が頭のなかで紡ぐ呪文を、内側から引き裂けるのは、たぶんこの世界で僕だけだということも。
魔法使いどうしで杖を構え、呪文の速さを競っているうちは、あの巨大な仕組みには勝てない。相手の思考を一瞬だけ狂わせ、生まれた静寂に、確実に喉笛へ刃を通す。この国の理に抗えるやり方は、それしかなかった。
だから僕は、光の塔ではなく、泥の地面をえらぶ。誰にも褒められない選択だ。それでいい。褒められるために選ぶのではない。エレナが生きてくれるなら、それで。
「……信じられない」
エレナの大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ずっと一緒だって言ったのに。大人になっても二人で同じ空を見るって、あなた言ったのに……っ」
背を向けて駆けていく彼女を、僕はただ見送った。追いかけようと伸ばしかけた右手が、手首のあたりでチリッと痺れる。能力の代償だ。他人の思考に触れるたび、僕の体はどこかを少しずつ失っていく。気持ちが乱れれば、その痺れはなおさら強い。
駆けていく背中から、心がひと欠片だけこぼれて、僕に届いた。それは怒りではなかった。
どうして、わたしを置いていったの。
怒ってくれたら、まだ受け止めようがあった。けれど届いたのは、まだ解けきらない悲しみだった。そのほうが、よほど僕にはこたえた。
ごめんね、エレナ。君が光の塔のてっぺんで美しい呪文を唱えているあいだ、僕は地の底で泥水をすすりながら、君を縛る鎖という鎖を叩き斬る泥犬になる。憎まれてもいい。君が生きてくれるなら、それでいい。
散る桜の下に、僕はひとり取り残された。花びらが一枚、握ったままの拳の甲に落ちて、すぐに風にさらわれていった。
帰り道でも、頭のノイズは止まらなかった。すれ違う人々の頭で、詠唱の芯が生まれては消えていく。火を熾すおばさんの術。荷車を軽くする男の術。どれも暮らしのための、なんてことない魔法だ。それでも僕の脳は勝手にそれを拾い、ここを一文字書き換えれば暴発する、という壊し方まで弾き出してしまう。この力さえなければ、と何度思ったかしれない。
家に着くと、母が味噌の匂いのする鍋をかき混ぜていた。血のつながった母ではない。孤児院を出た僕を引き取ってくれた、養母だ。
「進路、決めたの」
背中を向けたまま、母が言う。
「うん。剣術のほう」
母は振り向かなかった。ただ、鍋をかき混ぜる手が一瞬止まった。それだけで、この人はきっと全部わかっているのだと思った。
「立派な剣士におなり」
声は静かで、どこかに諦めのようなものがにじんでいた。
「あんたは昔から、痛いのをひとりで抱えこむ子だったからね」
湯気の向こうで、母がぽつりと言う。
「泣かないんだよ、あんたは。転んでも、熱を出しても、じっと歯を食いしばってる。それがあたしには、いっとうつらかった」
胸の奥がちくりとした。この人は、僕が思うよりずっと僕を見ていた。それでも、本当のことは言えない。言えば、この人まで巻きこんでしまう。
「ごめん」とだけ、僕は言った。
「謝るくらいなら、たまには手紙をよこしな。生きてるってわかるように」
うん、とだけ返して、僕は自分の部屋に入った。閉めた襖の裏で、母がまた鍋をかき混ぜる音が聞こえた。ことこと。ことこと。いつもの音だ。僕はしばらく、その音を聞いていた。
机の引き出しの奥から、古い木刀を引っぱり出す。子どものころ、近所の退役兵にもらったものだ。戦争で片脚を失ったその老人は、縁側でよく僕に剣の話をしてくれた。
「剣ってのはな、坊主。相手を斬る道具じゃねえ。守りたいもんと相手のあいだに、自分の体を置く道具だ」
しわだらけの手が、僕の握りをそっと直してくれる。あのころは意味がわからなかった。今なら、少しはわかる気がする。
握ると、手のひらの豆の跡が鈍く痛んだ。そこで僕は、はたと気づく。あの老人の名前が、出てこない。
去年、僕は初めて本気でこの力を使った。
裏路地でならず者がエレナに絡んだ。男の手が短杖にかかり、頭のなかで火の術式が組み上がっていくのが見えた。三画。四画。あと一画で撃てる。まずい、と思うより先に、僕の意識はもう男の思考の内側へ潜っていた。組み上がりかけた図形の、いちばん奥の一文字。そこへ指を差しこむように触れて、ぐしゃりと握りつぶす。
出るはずだった火は、行き場を失って男自身の掌のなかで爆ぜた。悲鳴も上げず、白目をむいて崩れ落ちる。焦げた肉の匂いがして、エレナが小さく息を呑んだ。彼女は無事だった。ただ、そのかわり――
代償は、その夜に来た。僕の頭から、いくつかの記憶がすっぽり抜け落ちていた。あの優しい退役兵の名も、たぶんそのとき、どこかへ流れていってしまったのだ。指のあいだから、砂がこぼれるみたいに。
力を使えば、僕は何かを失う。味を、音を、色を、そしていつか、大切な記憶までも。それがこの力の値段だ。安くはない。けれど、エレナひとりの命と引き換えなら、僕の記憶なんて、いくらでもくれてやる。
窓の外では、まだ桜が散っている。
明日から僕は泥に潜る。本当のことは誰にも言えないまま、自分の脳と体を削り、あの子を照らす光を守る影になる。正しいのかどうかは、わからない。ただ、彼女を失うことだけは、どうしても選べなかった。
木刀を胸に抱いて、目を閉じる。まぶたの裏に、駆けていくエレナの背中がまだ焼きついていた。あの涙を、いつか止めてやれる日が来るだろうか。来ないかもしれない。それでも進むしかない。立ち止まれば、あの子は薪になる。それだけは、どうあっても許せなかった。
「ずっと一緒」と、信じていた頃が彼にもあった。
その"ずっと"が、今日から一文字ずつ削れていく。
次回、泥の訓練場。




