第六章 再会、不良老人
その様子を、スタンドから見守っている男が二人いた。一人は身の丈二メートルはあろうかという大男。頭はスキンヘッドにして、目は細く、その筋の人に見えなくもない。唇は固く閉ざされ、強い意志を感じさせる。
となりにいるのは甘いマスクの少年。初夏にふさわしいスカイブルーのジャケットを着込み、興味津々の目つきでコートを眺めている。隣の男に比べると小さいが、こちらも一九〇センチ近くあるだろう。大男は踵を返した。少年が声をかける。
「もう帰るんですか、相馬さん?」
相馬と呼ばれた男は少年に背を向けたまま、ドスの利いた声を出した。
「ああ、これ以上用はない。お前は好きにしろ。かつてのチームメイトと話したいこともあるだろうしな」
静かに言い残すと、相馬は足元のバッグを肩にかけ、去っていった。
コートでは大会の表彰式が行われていた。優勝の青雲、二位の横浜西、ベスト四の二校にも表彰状が送られ、温かい拍手が会場を包んだ。
続いて、神奈川のベスト五が選ばれる。幻舟、桑谷、鬼神、堀川、さつき。
そして、最大の栄誉であるMVPは幻舟が受賞した。
こうして、県大会は幕を閉じた。いよいよ、青雲にとって初の全国大会挑戦の道のりが始まる。
「おめでとう。あなたたちを誇りに思うわ」
真琴は感極まった声を出した。できれば一人ひとりを抱きしめてあげたい。そんな衝動を抑え、胸の前で両手を掴んでいる。
「水を差すようで悪いけど、幻ちゃん、脚は大丈夫?」
心配そうに見上げるのは由奈だ。幻舟は少女を安心させるよう、落ち着いた口調で語った。
「とりあえず、今日は問題ないよ。明日にでも喜多村先生に診てもらうつもりだ。とにかく、万全の状態で全国を戦いたい」
「うん」
鬼神、さつきも内心穏やかではない。司令塔にして精神的支柱の幻舟にもしものことがあったら。だが、一年生コンビの手前、口には出せない。様々な思惑が錯綜する中、ゆったりとした足取りで青雲の前に一人の人物が近寄ってきた。
「優勝おめでとうございます」
相馬の隣にいた少年が穏やかな微笑を浮かべながら軽く頭を下げた。幻舟が口を開けた。さつきと鬼神も目を大きく開き、固まっている。小太郎と雅和は三年生トリオの反応を見て、ささやきあった。
「誰じゃ、あの人?」
「わからないけど、大杉さんたちの知り合いかな」
そんな中、真琴一人だけは冷静さを失わず、少年に挨拶を返した。
「久しぶりね、亮一くん。いえ、北条選手と呼ぶべきかしら」
名前を聞いて、小太郎が手を叩いた。
「そうだ!あの人、どこかで見たと思ったら、藤森学院の北条亮一さんだよ!」
「藤森って言うと、全国大会で何回も優勝しているあの藤森か?」
雅和が応じると、ようやく幻舟が口を閉じ、静かに亮一に笑顔を向けた。
「驚いたよ。まさかお前がはるばる神奈川まで見に来ていたとはな。また背が伸びたんじゃないのか?」
「あなたと同じ一八八センチですよ」
「こいつ、ちゃんと調べていたな」
幻舟が苦笑しつつ、拳で軽く亮一の胸を叩く。その仕草は兄弟のような親しさで、二人がいかに深くつながり合っているかを物語っていた。
北条亮一は幻舟たちの一年後輩で、全中で優勝した時のメンバーでもある。当時はセンターにさつき、パワーフォワードに鬼神、スモールフォワードに亮一が並び、幻舟が三人を引っ張った。その後、亮一は高校バスケの頂点に君臨する山形県の藤森学院にスカウトされ、幻舟たちとは離れ離れになった。しかし、共に戦った記憶と感動は色褪せることはない。亮一は一年から名門のレギュラーを確保し、ドリブル、パス、シュート、リバウンド、ディフェンスとすべての技術を最高レベルで兼ね備えた天才へと成長した。現在二年生だが、既に藤森のエースであり、現在の高校バスケ界ナンバーワン選手の称号を得ている。
「お前が来ているってことは、俺たちと全国で当たると想定しているのか?」
鬼神が亮一に質した。口元は笑っているが、目はそうではない。亮一はいささかも動じなかった。
「そうですね。失礼ですけど青雲は暴力事件で活動停止だったので、正直こんなハイレベルの試合を見られるとは思っていませんでした。横浜西といえばインターハイの常連ですから」
亮一はちらっと小太郎と雅和に目を向けた。
「いい選手が揃ったようですね。僕らは当然優勝を狙いますが、全国で当たったらよろしくお願いします」
亮一の口調は礼儀正しいが、王者のプライドが滲んでいた。
「あと、相馬さんから伝言を預かっています」
「相馬が?そう言えば、あいつも藤森のレギュラーだよな」
鬼神が闘志をむき出しにする。全中の決勝で対戦した相手のセンターが相馬文明、今は亮一のチームメイトだ。高さとパワー、高度な技術を備えたナンバーワンセンターとの呼び声も高い。
「まず、青雲の皆さんへ。俺たちと当たるまで負けることは許さない。そして、天野さんへ。俺は同じ相手に二度は負けない。今度こそお前を倒し、屈辱を晴らす。以上です」
そのセリフを聞いて、さつきは苦笑した。
「いかにも相馬くんらしい言葉ですね。わかりました。亮一くん、相馬くんに伝えておいてください。僕らも高校最後の大会で優勝を狙うと。それで十分伝わると思うので」
「わかりました。それでは、そろそろ時間が来たので失礼します。全国でお会いしましょう」
亮一は頭を下げ、去っていった。小太郎と雅和が幻舟に近寄った。
「天才と言うから態度のでかい人かと思うたら、えらく腰の低い人ですな」
「ああ、あいつはちっとも変わっていない。昔から、謙虚で礼儀正しいやつだよ。だが、コートに入れば話は別だ。人格が変わる。まあ、実際に見なければわからないだろう」
幻舟はそう言うと全員に帰宅を促した。これからインターハイの準備をしなければならない。なにより、膝の状態が気になっていた。強気に振舞っていても、幻舟も高校生である。
(頼むぞ、あと少しなんだ。なんとかもってくれ……)
横浜西戦の翌日、幻舟は真琴と由奈に付き添われて、総合病院に行った。すぐに呼ばれ、診察室に入る。喜多村医師が助手に手伝ってもらって、幻舟を精密検査にかける。一時間後、結果が出て三人が喜多村医師と対面した。
「結論から言おう。大杉君、君の右足はいくつかの問題を抱えている」
荘厳な口調に、三人はつばを飲んだ。
「これを見てもらえるかな」
喜多村はモニターを長いペンでさした。レントゲンの写真が写っており、赤いマークで丸がいくつか付いている。
「まず、膝と足首に疲労骨折の疑いがある。それから、アキレス腱もかなり消耗している。おそらく、小学生時代からハードな運動を重ねて、知らず知らずのうちに疲れがたまっていたのだろう」
「じゃあ、幻舟、いえ、大杉君はインターハイは無理だと……」
真琴が身を乗り出した。喜多村医師は沈痛な面持ちで答えた。
「長谷川監督、彼が私にとって赤の他人だったら、あるいは並のバスケ選手だったら、ドクターストップで間違いないです。しかし……」
遠い目をして喜多村は続ける。
「由奈の兄がわりとして世話になり、しかも本人が選手生命をかけて高校最後の大会で優勝を狙うのなら、止める権利はありません」
形容し難い沈黙が流れた。由奈はに必死に涙をこらえている。真琴は天を仰いだ。幻舟はしばらく黙った後、自分の思いを告げた。
「先生、何が一番大事か、僕にはもう決まっています。決勝まで持つ保証はないでしょうが、この夏に全てをかけます」
幻舟の言葉に悲壮感はなかった。かえってそれが聴く者の胸を打つ。由奈はこらえきれず、嗚咽を漏らした。
「おい、由奈、お前が泣いたら大杉君が困るじゃないか。気持ちはわかるが、彼はお前のお兄さんだぞ。それに、マネージャーとして支えるお前が泣いてどうするんだ?」
「だって……」
喜多村親子のやりとりに、幻舟は困惑した。真琴は優しく由奈の肩を抱き、少女を慰めた。
「由奈ちゃん、あなたがいてこその青雲なのよ。幻舟だけじゃない。さつきも鬼神も小太郎も雅和も、あなたのサポートがあったからここまで来れたの。だから、ね?あなたが泣いたら勝てる試合も勝てないでしょう?」
「わかってます、でも……」
幻舟も由奈にいたわりの声をかけた。
「県大会で優勝できたのも、由奈ちゃんのおかげだ。それに、君に涙は似合わないよ。いつも元気な笑顔で、俺たちを支えてくれたじゃないか。大丈夫。みんなのためにも、必ず全国制覇するから」
若者たちの友情を見守っていた喜多村が、ひとつの提案を出した。
「大杉君の覚悟はわかった。それなら、信頼できる人物を紹介しよう」
「紹介、ですか?」
真琴が緊張した表情で問う。喜多村はデスクから一枚の書類を出した。
「わたしの師匠とも言える、白石先生を推薦する。本当はわたし自身がインターハイに同行したいところだが、この病院を空けるわけにいかない。白石先生はかなりの高齢だが、腕は確かだし、わたしがお願いすれば確実に協力してくれるだろう」
幻舟、真琴、由奈が一斉に顔を上げる。喜多村医師は聖職者のような笑顔で三人に言った。
「結果はどうあれ、悔いのないように頼むよ。大杉君、君に出会わなかったら、わたしの人生も変わったかもしれないな。由奈、お兄さんを困らせないよう、しっかりサポートしなさい」
「はい!」
父に叱咤され、由奈はいつもの笑顔で返事をした。ようやく幻舟と真琴も安堵の息をつく。三人は喜多村に挨拶し、病院をあとにした。
「首の皮一枚つながったというところですかね」
「そうね。でも、前にも言ったとおり、さつきたち最強の攻撃陣をどう操るか、すべての舵取りはあなたにかかっているわ。途中で潰れないようにね」
「大丈夫ですよ。白石先生がいれば鬼に金棒。頑固で短気なおじいちゃんですけど、お父さんに医者の心構えを教えてくれた人ですから。あの人がトレーナーとしてついてきてくれたら、ほかのメンバーも心強いと思います」
由奈が生まれ変わったように元気な声を出す。幻舟と真琴は微笑しながら、青雲の体育館に向かった。
体育館ではさつきたちが待っていた。真琴が手短に報告する。不安顔だったメンバーも、安堵の息をつき、明るい声を出した。
「良かったですね、幻舟」
「大杉さんさえ大丈夫なら全国でもやれますよ」
「わしも安心しました。全力でゴール下を守ります」
ただ一人、鬼神だけはむっつりと黙り込んでいた。ムードメーカーの異変に気づいた真琴が声をかける。
「どうしたの?あなたらしくないわよ」
鬼神はなおも答えない。しばらく沈黙が流れた後、鬼神は重々しく言った。
「お前ら、本当にそれでいいのか?」
「どういうことですか、鬼神?」
さつきが問いただす。鬼神は不機嫌そうに視線を逸らした。
「幻舟の脚を犠牲にしてまで、俺はインターハイで優勝したくないけどな」
犠牲、という言葉がさつきたちの肩にのしかかる。鬼神は頭を掻き回しながら淡々と語った。
「俺は成績が悪いから大学に行く気はない。母子家庭だし、早く働いておふくろを助けないとな。だけど、幻舟とさつきは違うだろ?」
鬼神が家庭の事情を話すことなど滅多にない。小太郎と雅和は陽気な鬼神が将来を真剣に考えているのを聞いて、何も言えなかった。
「幻舟とさつきほどの実力と実績があれば、名門大学に入れるはずだ。ゆくゆくはプロになるのだって夢じゃない。だが、今年で幻舟の脚が潰れちまったら、どうなる?」
真琴と由奈もうつむいた。鬼神の思いやりが、胸に突き刺さる。また静寂が流れた後、幻舟は鬼神を正面から見据えた。
「鬼神、お前の心遣いは本当にありがたい。昔から、そういうところは変わっていないよ」
幻舟は右手で鬼神の肩を抱き、しっかりとした口調で言った。
「だけど、俺にとって何よりこの夏が大切なんだ。小太郎と雅和が入ってくれなかったら、今頃どうしていただろう。そして、相馬と亮一が、俺たちを待っている。仮に右足が壊れても、悔いはない」
「幻ちゃん……」
由奈がふたりを見守っている。鬼神はふっと息を吐くと、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「わかったよ。お前がそこまで覚悟を決めているなら、もう言うことはない。みんな、悪かったな。せっかくのムードに水を差しちまって」
「ううん、そんなことないわよ。あなたがそこまで幻舟のことを考えていて、すごく胸に響いた。本当に優しいのね」
「やめてくださいよ、真琴さん。俺は幻舟とさつきに助けられてここまで来たんですから。それに、みんなが本気で優勝を狙うなら、俺も弱点のディフェンスを克服しないとね」
再び和やかな雰囲気になった頃、体育館に大勢の生徒が集まってきた。
「ん、なんだ?」
幻舟が首をひねる。失礼します、と言って先頭の男が真琴に挨拶した。
「長谷川監督ですね?僕は野球部主将の高橋といいます。はじめまして」
「ああ、こちらこそ」
真琴も慌てて頭を下げる。
「バレー部の船木です。僕らもバスケ部の応援にやってきました。ご迷惑でなかったら、インターハイで応援団を結成しようと思うんですが、いかがでしょう?」
二人だけではない。ハンドボール部、剣道部、柔道部、サッカー部。ほとんどの部員たちが集まって、中にはハチマキを巻いているものまでいる。幻舟は戸惑った。
「おい、気持ちは嬉しいが、受験生がそれでいいのか?」
「それなら心配しないでくれ。みんな、勉強はしっかりやると親に約束した上で話し合ったんだ。最後の夏、俺たちは予選で敗退した。でも、バスケ部は全国に行くだけでなく、本気で日本一を目指していると聞いて、なんとか力になりたくて。高校最後の思い出を、バスケ部のみんなと共有したい。もちろん、大杉たちがオーケーといえばの話だか」
「みんな……」
さつきと鬼神が目配せして、幻舟に声をかけた。
「幻舟、みなさんがせっかく時間を割いてくれるなら、好意に甘えましょう」
「ああ。みんな、本当にありがとう。これだけの人数が応援してくれるなら、百人力だ。期待を裏切らないよう、優勝してみせる」
「その意気だぜ、大杉」
高橋がニヤリと笑った。そこへ、大柄な男が五人、群衆をかき分けるように入ってきた。面構えはやくざでも臆する程の迫力があり、眼光は野獣のようだ。
「久しぶりだな、大杉」
「関本先輩……」
幻舟が驚愕の表情を浮かべた。鬼神に匹敵する長身の男が、四人の仲間を従えて青雲のメンバーと対峙する。いずれも一八〇センチを超える体格で、高橋たちは後ずさった。
「清水たちが暴力事件を起こしてバスケ部は終わったと思っていたんだが、まさかインターハイ出場とはな。しかも五人だけで。横浜西の試合、俺も見せてもらったぜ」
関本和馬は幻舟の二年先輩で、将来を期待されていた選手だ。一学年下の清水という男が仲間を巻き込んで他校の生徒と殴り合いになり、警察が介入した。事態を重く見た委員会は青雲バスケ部に活動停止処分を下した。関本たちに何の罪もないが、後輩のせいで彼らの高校バスケは終わり、その悔しさは想像に難くない。
しばらく無言で幻舟と向き合ってから、関本は上着を脱いだ。
「俺たちは全員就職して、もともとお前らのような実績もない。しかし、クラブチームで休みの日にはボールを触っている。インターハイで優勝を狙うなら、練習相手が必要だろう?」
「つまり、先輩たちがその相手を務めて下さるというわけですか」
「当たり前だ。大体、清水たちがあんな事件を起こした責任は俺たちにもある。せめてもの罪滅ぼしの意味も込めて、俺たちが練習相手になる。ついでに、他校の偵察もな」
関本は足元のバッグから一台のノートパソコンを取り出した。
「こいつに、お前らが当たりそうな強豪校のデータと映像が入っている。生かすも殺すも、お前ら次第だ」
「先輩……」
幻舟は胸が熱くなった。今まで七人だけでやってきた戦いに、ほかの部のメンバーが応援団、かつての先輩が練習相手として協力してくれる。幻舟は頭を深く下げ、大声で礼を言った。
「ありがとうございます!先輩たちの努力を無駄にしないよう、必ずインターハイで優勝します!」
「おう、期待してるぜ。だがな、忘れるな。お前らのチームメイトだった北条亮一、あいつはもはや高校のレベルを超えている。まだ二年だってのに、もう有名大学から目をかけられているからな。そして、天野のライバルだった相馬。このふたりを擁する藤森学院が、最後に立ちはだかるだろう。まずは初戦突破を目指し、大会中に一年のレベルを上げていくしかない。早速五対五をやるぞ」
既に関本たちは準備万端といった表情だ。応援団は体育館の客席に上がり、ハンドボールの部員が審判を務めることになった。
幻舟たちのように毎日練習していないとはいえ、クラブチームで活動している関本たちのレベルはかなり高い。特に高校生は体が出来上がっていないので、二年の差は大きかった。圧倒的なフィジカルを誇る幻舟でさえ、関本に全力で当たられるとぐらついた。
「どうした!俺たちに手こずっているようでは、全国制覇などおとぎ話だぞ!殺す気で来い!」
何度も怒鳴られているうちに、さつきたちの目の色も変わってきた。鬼神のダンク、さつきのフック、小太郎のスリー、雅和のリバウンド。それらをまとめる幻舟のパスワークに、関本たちも舌を巻いた。
(さすがに全中を制しただけはある。一年二人もすごいスピードで成長しているな。こいつらなら、あるいは……)
応援団も大きな声で五人のモチベーションを刺激する。既に本体会を想定して、女子は横断幕を作り、男子はハチマキを巻いて熱い声を出した。
「よーし、ナイスだ、大杉!関本さんたちも負けるな!」
「岩倉!攻撃だけじゃなく守備もしっかりしろよ!」
「岸川くん、すごい!どんどん遠くから決めていこう!」
「西園寺、ナイスリバン!頼りになるぜ!」
体育館が揺れるほどの歓声に、真琴も興奮した。
「信じられる、由奈ちゃん?あの子たちのためにこんなに大勢の人が……」
「はい、みんなが五人の背中を押してくれれば、奇跡だって起こせると思います」
四〇分形式の練習試合は八三対七七で幻舟たちが勝利を収めた。だが、全員がクタクタに疲れきっている。関本は爽やかな表情で幻舟の肩を叩いた。
「負けたぜ。だが、これで満足するな。来週、またこのメンバーで試合をする。自分たちに何が足りないか、しっかり話し合え」
「ありがとうございました」
「礼は優勝してからでいい。本音を言えば、お前らと一緒にやりたかったよ。しかし、時間は戻らない。俺たちはできる限り協力して、お前らが栄冠を掴むのを見るだけだ。じゃあな」
関本たちは着替え、去っていった。
二階席から高橋たちが降りてきた。幻舟たちに劣らず、汗でぐっしょりだ。関本たちの後ろ姿を見送りながら、そっとつぶやく。
「いい先輩たちだな」
「ああ。仕事で疲れているだろうに、バスケに対する愛情が強いんだろう。俺たちは先輩とお前たちのためにも、必ず優勝してみせる」
「頼もしいぜ。だが……」
高橋はそっと幻舟の耳元で囁いた。
「右足は大丈夫なのか?噂に聞いたんだが、大杉の足はかなり消耗しているということらしいが」
「それなら心配いらない。凄腕の医者がトレーナーとしてついてくれることになっている。しっかり診てもらって、メンテナンスするさ」
「そうか。じゃあ、俺たちもあがるよ。何かあったら連絡してくれ。応援しかできないが、俺たちなりに有終の美を飾りたい」
「ありがとう。本大会まで時間があるから、お互いに最善を尽くそう」
高橋たちは真琴に挨拶して帰っていった。
金曜日、部活が終わると幻舟と真琴は白石のもとを訪れた。由奈は後から来るという。なんでも作戦があるらしいのだが、二人にはよくわからなかった。
喜多村から渡された地図をたどって、裏通りを行く。ほどなくして、古びた看板が目についた。今にも壊れそうなぼろぼろの白い木造の看板に、白石診療所と書いてある。二人は内心、一歩引いた。
「真琴さん、どう思います?」
「どうって……正直、胡散臭いけど、喜多村先生の師匠でしょ?ここまで来たら、腹をくくるしかないわ」
幻舟は深呼吸して、カビの生えそうな扉を開き、挨拶した。
「ごめんください」
返事はない。中をうかがうと、暗く、人の気配はほとんどない。ここは本当に診療所なのか?疑心暗鬼にとらわれながら、もう一度、幻舟は声を出した。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか」
「大きな声を出さなくたって聞こえてるよ」
いかにもだるそうなガラガラ声がした。ぎしぎしと音を立てて、一人の男が受付にやってきた。年のころは八〇代半ばといったところか。背は低く、太ってはいるががっしりとした体つきで、薄汚れた白衣を着ている。白い髪は半ば禿げており、一重瞼の両目だけがギラギラと光っていた。
この人が喜多村の師匠、白石健二なのか。幻舟と真琴は半信半疑のまま、とりあえず自己紹介した。
「はじめまして。青雲高校、バスケ部キャプテンの大杉です」
「監督の長谷川です。今日は大船総合病院の喜多村先生から紹介状を持ってきました」
「喜多村?ああ、あいつか。まあ、座れ。見ての通り、うちはおんぼろの診療所さ。いつ潰れるかわかりゃしねえ。もっとも、跡取りなんざいねえから、俺が死んだら終わりだがな」
そう言ってから、白石は二人の許可も取らずに煙草を取り出し、うまそうにふかした。幻舟と真琴が目くばせする。この人を信用していいものか。いくら喜多村の推薦とはいえ、かなりの高齢だし、人生をあきらめている。医者としてどうのという以前に、人間としてかなり疑わしい人物に見えた。
「詳しいことは紹介状を見ないとわからんが……大杉といったな?お前、今でも右膝が痛むのか?」
「いえ。でも、どうしてそれがお分かりです?」
「そりゃあ、俺だってだてに五十年も医者をやってねえよ。手当という言葉があるな?人間、誰しも悪いところに手を当てるんだよ。心臓の悪い奴は胸に、腹の痛む奴は腹に、お前みたいに膝を故障している奴は膝に。無意識に手を当てて、患部を保護するのさ。さあ、このベッドでうつぶせになりな。長谷川、あんたは大杉と親しいんだろ?こいつがズボンを脱いでも平気だな」
「はい、それは構いません」
「じゃあ、さっそく診察に入るぞ。とは言ってもうちにはレントゲンなんてない。すべては俺が触診、つまり触って診察する。もっとも、痛みなんてないから安心しな」
白石はてきぱきと両手を動かし、幻舟の足回りを触診した。真琴の前で、白石の人格が変貌したかのように、ただの老人から百戦錬磨の名医に変わってゆく。白石は目を閉ざし、ひたすら指先に神経を集中させていた。
「……なるほどな」
ひとり呟き、白石は顔を上げ、深い息をついた。わずか二、三分だが全神経を使い、かなり疲れたようだ。やかんからコップに水を注ぎ、飲み干してから白石は幻舟と真琴に診断結果を知らせた。
「こいつの右足はスポーツでかなり消耗している。だが、あいにく外科の管轄じゃねえ。外科に限らず、現代の西洋医学は圧倒的に対処療法が多い。俺の得意とする東洋医学は、未病、つまり病気になる前に鍼や漢方薬で体を調整するのさ。喜多村が何と言ったか知らねえが、どんな名医でもここまで骨や関節、靭帯がすり減ってりゃお手上げだろうよ」
真琴がごくりと唾をのむ。白石の言葉は死刑宣告にも聞こえた。しかし、不敵な笑みをたたえながら白石は幻舟の膝をたたいてこう言った。
「喜多村がなぜ俺を紹介したかわかるか?今の若い医者で不可能な治療も、ガキの頃から東洋医学をおやじから叩き込まれた俺なら可能だとふんだんだろう。ま、バスケットのことは詳しくないが、確かお前らはインターハイで優勝を目指しているんだったな?」
「はい、及ばずながらわたしが監督を務め、なんとか全国への出場権を獲得しました」
「俺は見ての通り、おいぼれさ。アルコールとタバコで体はボロボロ。医者の不養生ってやつだな。だが、喜多村の借りを返す絶好の機会だ」
「借り?白石先生が?」
「ああ、まだ喜多村が医者になりたてのころ、あいつの妹さんが原因不明の喀血で倒れたんだよ。温厚な喜多村が、血相を変えて治療に当たり、自分では無理とわかると全国の医者に連絡して、名のある医者に診てもらった。それでも容体は悪化し、最後に俺が診察した」
白石は淡々と語ったが、幻舟と真琴にとっては衝撃の事実だ。再び煙草をふかし、白石は遠い目をした。
「丸々三日、俺は寝ないで妹さんの治療に当たった。親父は死んでいたから、片っ端から医学書をめくり、やれるだけのことはやった。それでも、妹さんは助からなかった。でもなあ、あの人はこう言ってくれたよ。もう自分の命が尽きると知ったんだろう、途切れ途切れに、白石先生、本当にありがとうございましたって……」
そこまで言うと、白石の両目から涙がこぼれた。幻舟と真琴は何と言っていいかわからない。ただ、やけくそに生きているように見える白石の体に、見えない医者としての情熱が宿っていることだけは理解できた。
「わりい、若いもんに愚痴をこぼしちまったな。そういうわけだ。喜多村は俺の期待通り、いや、それ以上の医者になってくれたよ。たぶん、もう妹さんの悲劇を繰り返したくないんだろう。俺は大会が終わるまでお前らに付き添い、喜多村の思いにこたえるとしよう。長谷川、それでいいな?」
「ありがとうございます。あなたのような助っ人がついてくれればほかの部員も心強いかと。わたしの実家が八百屋を営んでいますので、謝礼はそこから支払いますが、よろしいですか?」
「いや、そんなものはいらん。もともと患者の少ない診療所だしな。俺も、たいして長生きできないだろう。お前らを見ていると、喜多村の若いころを思い出すよ。まっすぐで、純粋ないい目をしている」
白石は煙草をもみ消しながら、照れ笑いを浮かべた。真琴は確信した。強固なチームワーク、他の部員の応援、関本たちの協力。それに白石の腕が加われば、たった五人でも全国制覇は成し遂げられると。
「では先生、一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「ああ、なんだ?」
「わたし、今年で二十歳になったんです。ぜひ、人生の酸いも甘いもかみ分けた大人の男性とお酒を飲んでみたいんですが」
老境の医者は目をぱちくりさせた。しばらく真琴と視線を合わせていたが、苦笑しながら頭をかいた。
「あんたも物好きだな。いくらでもいい男がいるだろうに」
「いえ、先生がどんな人生を歩んできたのか、とても興味があります。ただし、条件はインターハイ優勝。負けてやけ酒を飲む気はありませんから」
白石は哄笑した。六十歳以上の年齢差が、一気に縮まった。そこへ、一人の少女が顔を出した。
「お邪魔しまーす」
明るい声をあげて、あらわれたのは由真だった。その姿を見て、白石の表情が一変した。
「由真!おお、久しぶりだな!元気だったか!」
近寄ってきた由真を、白石は赤ん坊のように軽々と抱き上げた。幻舟と真琴は唖然としている。
「もう、おじいちゃん、わたしは高校生なのよ。いつまでも子ども扱いはやめてくれる?」
「すまんすまん。しかし、随分背が伸びたな。お前、いくつになった?」
「十五歳よ。ああ、幻ちゃん、真琴さん、診察は終わったの?」
「ええ、白石先生がインターハイに同行してくれることになったけど……」
「よかった。おじいちゃん、わたしたちが優勝するにはおじいちゃんのケアが欠かせないんだからね。お酒ばかり飲んでないで、ちゃんと仕事してよ」
「ああ、わかっているさ。しかし、大人っぽくなったな。制服も似合っているし、女はわからんものだ」
ついさっきまでしんみりしていた空気が一変した。幻舟は真琴にそっとささやいた。
「あの先生、随分気まぐれというか、感情の起伏が激しい人みたいですね……」
「そうね。わたしたちはいいけど、鬼神や雅和とぶつからないか、不安だわ」
「同感です。まあ、由真ちゃんを溺愛しているようですから、彼女に期待しましょう」
二人がうなずいているのに気付かず、白石は由真を迎え、実の孫を前にした祖父のように、屈託なく笑っている。おそらく、身内のいない白石にとって、由真は目に入れても痛くないほどの存在なのだろう。幻舟は、由真の言う作戦の意味が分かった。最初から自分が出向いたら白石は診察どころではなくなる。二人だけで話をすすめさせ、頃合を見計らって自分が出て、白石の機嫌を取ろうとする計算だ。まさか由真がそんな策略を巡らせていたとは、真琴と幻舟はまんまと一杯喰わされた形である。
「あの、仲睦まじくしているところ悪いんですけど」
幻舟は遠慮がちに言った。由真を半ば抱きかかえながら延々としゃべっていた白石は我に返った。
「おう、すまん。お前の治療がまだだったな。長谷川、よく見ておけ。五千年の歴史を持つ、東洋医学の神髄を見せてやろう」
白石の目つきが鋭くなった。ベッドであおむけになっている幻舟の右足に、数十本の鍼を打ち込んでゆく。おそらく、一ミリの狂いもなく、痛めているツボをとらえているのだろう。数分置くと、白石はすべての鍼をとった。
「大杉、起きて足を動かしてみろ」
幻舟は言われるまま、ベッドに腰掛け、右足をぶらぶらさせた。
(軽い!)
さっきまで重だるかった足が、実に軽快に動く。幻舟はベッドから降り、床を踏んだ。アキレス腱の痛みが全くない。あまりの効果に、幻舟は体が打ち震える思いだった。
「先生、まるで魔法をかけられたみたいです。治療を受けるまでかばっていた足が……」
「そう、これが東洋の神秘さ。西洋医学では、抗生物質や手術でしか病気を治せないうえに、範囲は限られている。だが、東洋医学に境界線はない。すべては、血と気、水の流れを治すことによって体全体の不調を改善させる。だが、俺の仕事はこれだけじゃない。これを飲んでみろ」
白石は引き出しを開け、薄汚れた紙袋を出した。封を切ると、コップに注がれていた水に溶かす。土色の液体は、いかにもまずそうだ。幻舟は勇気を出して液体を飲み干した。
「味はどうだ?」
「正直、おいしくはないです」
「そりゃそうだ。今お前が飲んだのは、自然治癒力と心肺機能を高める漢方さ。一日くらいでどうということはないが、二週間も飲み続ければはっきりと効果が出る。長谷川、この薬を五人分用意するから、大会が終わるまで全員に飲ませろ。それから、試合が終わったらすぐに風呂に入れ。シャワーじゃ疲れが取れないから必ず湯船につかれ。そのあと、俺がマッサージをする。ここまでやれば、次の朝には疲れなんて残らないだろうよ」
真琴は瞠目した。白石が一癖も二癖もある老人であることに変わりはないが、医者としての腕と見識は一流だろう。あらためて、この人物を紹介してくれた喜多村に感謝した。同時に、ますます優勝への意欲が高まってくる自分を抑えられない。
幻舟の治療が終わると、二人は白石に礼を言って診療所を後にした。由真は残っている。祖父を亡くした彼女にとっても、白石は替えのきかない存在なのだろう。ゆっくりと肩を並べて歩きながら、真琴は幻舟に笑って言った。
「白石先生、アクの強い人みたいだけど、腕は確かね。ただ、由真ちゃんがいると人が変わるから、わたしたちがコントロールしないと」
「そうですね。でも、気持ちはわかりますよ。由真ちゃんは僕にとっても妹みたいなものですから、高齢の先生ならなおさらでしょう」
言いながら、幻舟はあの日のことを思い出した。由真が告白し、お互いに初めてのキスを交わした出来事。自制心の強い幻舟も、思春期の少年である。白石のおかげで膝の心配がなくなると、胸がもやもやとしてきた。
「どうしたの?目がうつろになってるわよ」
「ああ、大丈夫です。昨日はあまり寝ていないんで、疲れが出たんでしょう。すぐに回復しますよ」
ごまかしつつ、幻舟は真琴がすべてを見通しているのではないかと感じていた。思えば、二人の付き合いはずいぶん長くなる。二十歳とはいえ、高校生から見れば真琴は大人だ。実家の手伝いをしているせいもあって、実年齢よりずっとしっかりしている。彼女が監督になりたてのころ、鬼神がこんな話題を持ち出した。
「お前ら、真琴さんをどう思う?あれだけ綺麗でスタイルもいい人なら、男がいるんじゃないか」
いやらしい笑みを浮かべて、体育館で鬼神が言い出した。
「鬼神、仮にも独身の女性に失礼ですよ。大体、真琴さんは僕らの監督でしょう。仕事もあるし、男性とお付き合いする暇なんてないと思いますけど」
さつきが優等生らしい返事をした。だが、鬼神は納得しない。
「いや、俺は男がいると思うな。今は忙しいが、高校時代から告白されまくっていると聞いた。そもそも、まだ二十歳なのに、あんなに大人びているのは、男の味を知っているからだ。幻舟もそう思うだろ?」
鬼神の言う意味が分からず、幻舟は質した。
「男の味って、まさか……」
「ああ、たぶんベッドの上で可愛がられていたんだよ。だから大人のフェロモンを感じるんだ。でなけりゃ、あそこまでしっかりしていない。それに、男より女のほうが経験するのは早いからな」
「鬼神、言い過ぎですよ。本人にばれたら殴られるくらいじゃ済みませんからね。もう少し配慮しないと……」
「そこで何を話してるの?」
三人はぎょっとした。由真がひょっこり顔を出し、猥談に興じる男どもに疑惑の視線を向ける。
「なんでもないよ。小太郎と雅和が早く馴染んでくれればいいと話していたんだ。由真ちゃんこそ、もう遅いのに帰らないのか?」
幻舟が慌てて嘘をついた。さつきと鬼神も動揺している。由真は目を細めて大男たちをにらんだ。
「なんだかあやしいな。まあ、わたしには関係ないけど。真琴さんに失礼なことを言ったら黙っていないからね。いい?」
温厚な由真が脅し文句を突き付けてきて、幻舟たちは冷や汗をかきながら帰宅したのだった。そのことを思い出している幻舟に、真琴は軽く肘でつついた。
「また遠い目をしてる。幻舟、無理しないでよ。言ったわよね、自分で背負い込むなって。あなたにもしものことがあったら、チーム全体に影響するんだから、まずは自分を大切にして。わかった?」
「ええ、承知しました。真琴さんこそ、実家は大丈夫ですか?」
「親も兄も、わたしを信じてるから問題ないわ。小さい店だしね。あ、この角を曲がるとバス停よ」
幻舟は頭を振った。仮に由真がいなかったら、この人を好きになっていたのだろうか。埒もない妄想にふけりながら、真琴と一緒にバスに乗り込んだ。




