新世界
あのキスのあと、蘇明もアレーテも、そのことには一度も触れなかった。
アレーテはただうつむいたまま、黙って蘇明の手を引き、巨大な空洞の端へと歩いていく。少女の耳元には、まだ引ききらない赤みがほんのりと残っていた。
空気はますます淀んでいった。腐敗の臭いがまるで重さを持ったかのように、幾重にも蘇明の胸にのしかかってくる。足元の木屑も粘液にぐっしょりと浸かっていて、踏むたびにぐにゅりと沈み込み、ぐちゅぐちゅと音を立てた。足を上げれば、粘ついた細い糸が何本も引いた。
やがて、巨大な空洞を支える枯れ木の壁が、蘇明の目の前に現れた。
近くで見ると、果てが見えないほど高くそびえるその壁は、いっそうおぞましかった。枯れ果てた無数の枝や幹が固く絡み合い、隙間には黒ずんだ苔がびっしりと詰まっている。ときおり、爪ほどの大きさの灰白色の甲虫が、そこを出たり入ったりしていた。
「ここから……外に出られるのか?」
蘇明は怪訝そうに尋ねた。
アレーテは答えなかった。そっと蘇明の手を離して一歩前に出ると、右手を上げ、枯れ木の壁にそっと触れた。
少女が詠唱を始めた。
それは蘇明が一度も聞いたことのない旋律だった。アレーテの声は低く古めかしいものに変わり、一音一音が震えを帯びている。まるで何か偉大な存在が、このか細い少女の身体に宿ったかのようだった。
「大地のタイタン、ガイアノスよ。汝が子、ここに祈りを捧ぐ」
「朽ちたる木の壁よ、祖父の意志に従え」
「巨神の偉大なる御手をもって、汝ら矮小なる眷属を統べん。道を開けよ」
低い祈りの声に合わせて、空気が震え始めた。
目に見えない意志が、はるか地の底からアレーテの掌へとつながり、それを媒介にして、朽ちた聖樹へと伝わっていく。
壁が下から上へとゆっくり裂けていき、狭く奥深い小径が姿を現した。
蘇明は信じられない思いで目を見開いた。アレーテが奇跡を起こすのはこれまでにも見てきたが、これほど大規模な力が現実の世界に作用するのを目にするのは、初めてだった。
「これはエーテルの力」アレーテは淡々と説明した。「さっき呼び出した鏡や泉の水も、この力で作ったものなの」
「エー……テル?」
「この世界を形作っている、基本の物質だよ。地、水、風、火――知られている物理世界は、すべてエーテルでできているの。キミたちの世界でいう……分子みたいなもの、かな? スーミンくん、高校の化学の授業で分子のことを習ったよね。よく居眠りしてたけど、それくらいは分かるでしょ?」
「……それは物理の授業だ」蘇明は反射的に訂正し、それからはっとした。「待てよ……なんで俺が物理の授業で寝てたって知ってるんだ?」
物理の授業中にアレーテが来ていた記憶なんて、まったくないのに。
アレーテはただ小さく微笑むだけで、何も答えなかった。
「でも、エーテルと分子には、いちばん大きな違いが一つあるの」アレーテは説明を続けた。「エーテルは魂と共鳴できる。魂の力が十分に強ければ、人の意識はエーテルでできたこの世界に直接作用できるの。たとえば、目の前の壁を開くみたいにね」
蘇明は新しく開かれた小径をじっと見つめたまま、無意識のうちに、つないでいたアレーテの手を離しかけていた。
こんな状態になっても、アレーテはまだこれほど強いのか……。
蘇明は自分の置かれた立場を、改めて思い知った。
「魂が強いほど、動かせるエーテルも多くなる」アレーテは一拍置いた。「そしてスーミンくんの魂は、わたしにこれだけ長いあいだ引っ張られ、移され続けてきたから、もうこの世界のほとんどの生き物より強くなってる。たぶん今はもう、英雄級の壁を越えているはず」
そこまで言って、アレーテの表情がかすかに強張った。少女の銀灰色の瞳に、一瞬だけ何かがよぎる。寂しさと、罪悪感だった。
「英雄級?」蘇明は気づかないふりをして、話の続きを促した。
「わたしたちの世界で、力の大きさを測る基準だよ」アレーテはうなずき、どこかほっとしたようだった。「下から順に、凡人級、超凡級、霊級、英雄級、半神級、そして神級」
アレーテは等級を一つ言うたびに、指を一本ずつ立てていった。神級のところで、彼女は少し得意げに、もう片方の手の親指で自分を指さした。
「普通の兵士なら、一生かかっても凡人級止まり。でも英雄級なら、たった一人で一万の敵と渡り合えるの」
一人で一万……?
蘇明の胸に、かすかな高揚が湧き上がった。自分に超能力があると知れば、まともな人間なら誰でもそうなるだろう。
「この六つの等級の中で、神級だけはほかの五つと本質的に違うの。神級は、法則の力を掌握しているから」
「それが、姉さんが苦痛と戦いの神って呼ばれる理由なのか?」
「正解」アレーテは感心したようにうなずいた。「でも話すと長くなるから、またあとでゆっくり教えてあげるね」
アレーテはつま先立ちになって、蘇明の頭をそっと撫でた。
……懐かしい感覚だ。
「はいはい、それじゃあ」アレーテは咳払いをして、軽やかな口調に戻った。「まずは安全な隠れ家に案内するね。この木はもう腐りきってるから、空洞に長くいると毒にやられちゃうの」
……
小径はとても狭く、両側の木の壁が肩をこするほどだった。アレーテが前を歩き、蘇明の手を引いて、一歩ずつ奥へと進んでいく。
歩いているうちに、蘇明はまわりの様子が変わってきたことに気づいた。
吐き気を催すあの臭いが少しずつ薄れ、足元の木屑も乾いてきた。両側の壁の色は焦げたような黒から濃い褐色へ、さらに濃い褐色から、しっとりとした生命力にあふれる茶色へと移り変わっていく。ときには、壁の隙間に小さな若芽の緑さえ見つけることができた。
どうやらこの木は、まだ完全には死んでいないらしい。
「アレーテ……姉さん」
「俺はまだ、あんたを許せない」
アレーテの華奢な身体が、かすかに震えたように見えた。
小径は、たちまち静まり返った。
「分かってる……。わたしに、許しを乞う資格なんてない……」
アレーテは振り返らなかったが、その声には涙がにじんでいた。
蘇明はしばらく黙っていたが、やがて言葉を継いだ。大きな声ではなかったが、そこにはこの上ない決意がこもっていた。
「でも、俺を鍛えるときは、手加減しないでくれ」
「これは姉さんの世界のためで」蘇明は少女の背中を見つめた。「俺が家に帰るためでもある。だから、やるべきことはきっちりやってくれ。情けをかける必要はない」
「何年もうつ病に耐えてきたんだ。どんな苦痛だって、乗り越えられると思う」
アレーテが小さく返事をした。後ろを歩く蘇明には、彼女が今どんな表情をしているのか見えない。ただ、自分の手を握る力が、少しだけ強くなった気がした。
「うん……分かった」
どれくらい歩いただろう。前方に小さな木の扉が現れた。二人が扉を押して中に入ると、蘇明の目に飛び込んできたのは、こぢんまりとした独立した部屋だった。
広さは十数平方メートルほど。前世で使っていた蘇明の小さな寝室と同じくらいだ。四方の壁は青々とした蔓でできていて、掌ほどのハート形の葉が茂り、その上を淡い緑色の光が流れていた。
天井には白く光る鉱石がいくつか埋め込まれていて、それがこの部屋の明かりになっている。
部屋の家具は、すべて蔓で編まれていた。低いシングルベッドには、乾いた柔らかい布団が一枚敷かれている。机が一つと、いびつな椅子が二脚。そのうち一脚は肘掛けが片方しか編まれておらず、作った人が途中で根気をなくしたように見えた。
蘇明はその椅子をちらりと見た。
「この家具、全部姉さんが作ったのか?」
「……うん。封印されてたこの何年か、他にすることもなかったから」アレーテはぎこちなく天井に目をそらした。「……あんまり上手じゃなくて、ごめんね」
蘇明はかすかに笑った。
「ここは、聖樹の中で生命の力が満ちている最後の場所なの」アレーテは柔らかな眼差しで蘇明に言った。「わたしの力で、ひとまずここを守ってる。キミの訓練が終わるまで、ここで暮らそう」
「ああ」
……
蘇明は、ほとんど倒れ込むようにベッドに身を投げ出した。
疲れきっていた。
わずか一時間ほどのあいだに、あまりにも多くのことが起きた。たった一人の友達は女神で、そして自分を殺した張本人でもあった。
それに、あのキス。
蘇明はまだ、それらを完全には飲み込めていなかった。張り詰めていた神経がようやく緩むと、一気に疲労が押し寄せてくる。蘇明は目を閉じた。今はただ、少しだけ眠りたかった。
アレーテはベッドのそばに立ち、静かに蘇明を見つめていた。
その視線は蘇明の疲れきった横顔に注がれ、何かをためらっているようだった。しばらくして、少女は意を決したらしい。その頬を、さっと赤みがかすめた。
アレーテは自分を奮い立たせるように深く息を吸うと、肘掛けが片方しかない蔓の椅子を運んできて、ベッドのそばに腰を下ろした。
「勇者様……」
アレーテがおずおずと口を開いた。とても柔らかな声なのに、どこか気づかれにくい緊張がにじんでいる。
「ずいぶん、お疲れのご様子ですね……」
蘇明は目を開けた。
「勇者……様?」
アレーテがこんなふうに、敬語で蘇明を呼ぶのは初めてだった。その口調はまるで彼女らしくなく、前もって練習した台詞を暗唱しているようだった。
蘇明が考えをまとめるより早く、アレーテは手を伸ばしていた。そっと、けれど有無を言わせずに蘇明の後頭部を持ち上げると、その頭を自分の太ももの上にのせた。
蘇明の頭が真っ白になった。
柔らかくて、温かい……。
薄く、ところどころ破れた白い長衣越しに、少女の太ももの曲線が蘇明の頬にぴたりと触れている。ほのかに少女の香りがした。魂だけの存在のはずなのに、蘇明はアレーテから、確かに肌の感触を感じていた。
蘇明の顔は、一瞬で真っ赤になった。
「ア、アレーテ! やめてくれ……」蘇明はあたふたと身体を起こそうとした。
この世界に来てから、アレーテがずっと意図的に自分に近づこうとしていることに、蘇明は気づいていた。手をつなぎ、触れて、あのキス……そして今は、膝枕までしている。
蘇明はもう子どもではない。こうして触れてくることの裏に、何か別のものが隠れている気がしていた。
蘇明はかつて、アレーテのことが好きだった。とても、好きだった。
好きだったからこそ、アレーテにこんなことはしてほしくなかった。
アレーテと過ごしたあの日々は、蘇明の人生で最も大切な思い出だ。うつ病に記憶を少しずつ蝕まれていったあの数年間、多くのことがぼやけ、色あせていった。それでも、アレーテとの思い出だけは、今も心に深く刻まれている。
その思い出を、何ものにも汚されたくなかった。
たとえ得をするのは自分のほうだとしても。たとえ自分の身体も、それを強く求めているとしても……。
一時の欲望がどれほど強くても、あの大切な思い出には代えられない。
アレーテは、蘇明を離さなかった。
彼女は蘇明を見下ろしていた。銀灰色の瞳はいつもどおり澄んでいるが、その顔にはもう隠しきれない赤みが差している。アレーテは両手でそっと蘇明の顎を包み込み、彼が自分と目を合わせるしかないようにした。
「難しく考えないで……」アレーテはささやいた。「今のわたしには、これくらいしか、キミを楽にしてあげる方法がないの……」
「この世界はキミにとって残酷すぎる。わたしだって……。だから、何かしてあげなきゃいけないの。たとえ、ほんのささいなことでも……」
「だから、お願い。受け取って」
蘇明は呆然と彼女を見つめた。
アレーテは目を伏せ、両手で蘇明の顎をそっと撫でながら、話を続けた。
「神々の英霊殿では、わたしの姉妹たちも、みんな似たようなことをしているの」
「勇者を喜ばせるのは、もともとわたしのような下位神の務めの一つなの。勇者っていうのは、秩序と神々のために戦う、強い力を持った者たちのこと」
「いちばん原始的な欲望こそが、いちばん人の心をつかむ」アレーテはできるだけ平静な声を保とうとしていたが、それでも物悲しさがにじみ出ていた。「勇者の使命は、秩序と神々の刃となること。下位神に導かれて戦い、殺し、比類なき功を立てる……そして最後には神々の王から褒賞を賜り、ずっとそばで導いてきた戦女神を手に入れて、英霊殿に迎えられる。そこでは勇者は老いることもなく、ただ思うままに宴を楽しむの。次に神々が彼らを必要とする、そのときまで」
蘇明には意味が分かった。だが現代の教育を受けてきた彼は、ただ胸が悪くなるのを感じただけだった。
「じゃあ、さっきの『勇者様』っていうのは……」
「……姉妹たちの言い方なの」アレーテの頬の赤みは、耳まで広がっていた。「あの子たちの真似をすれば、少しは……それらしくなるかなって思って」
「でも、全然姉さんらしくなかったぞ」
「……わたしも、そう思う」
アレーテは小さな声で認めると、ばつが悪そうに笑った。
「本当はね、こういうこと、すごく苦手なの」アレーテは言った。「わたし、小さいころからみんなに甘やかされて育ったから、わがままなんだ。冒険が好きで、見たことのないものを見るのが好きで。戦女神の務めなんて一度も果たしたことがないし、英霊殿の宴にも一度も出たことがないの」
それを聞いて、蘇明はなぜか、ひそかにほっとしていた。
「わ、わたし、どうするのが正しいのか分からない。ただ……キミのために、何かしてあげたかったの」
アレーテはうつむき、ぎこちない手つきで蘇明の黒い短髪を指で梳きながら、一生懸命に頭をマッサージし始めた。
その手つきはずいぶん不慣れで、指の力も強くなったり弱くなったりした。何度かうっかり蘇明の髪を数本引き抜いてしまい、そのたびに慌てて手を止めては、蘇明が眉をひそめていないのを確かめてから、またおそるおそる続けた。
少女の気持ちが伝わってきて、蘇明はもう抵抗しなかった。
本当に……すごく気持ちよくて、安心する。
温かな感触が少しずつ肌にしみこみ、疲れが潮のように、ゆっくりと引いていった。
やがて、少女の気配に包まれながら、蘇明は深い眠りに落ちていった。
……
どれくらい経っただろう。蘇明は、そっと揺り起こされた。
聖樹の空洞には日の光が届かず、昼も夜もない。どれだけ眠ったのか、蘇明には分からなかった。ずいぶん長く眠っていたようでもあり、ほんの少し目を閉じただけのようでもある。
だが、頭ははっきりしていた。
前世のように目覚まし時計で無理やり起こされ、頭は重く足元はふらつき、数分たってようやく自分が誰なのかを思い出す――そんな目覚めではない。自然で、驚くほど心地よい目覚めだった。
ミラタラに来てから初めての眠りであり、この何年ものあいだで、ぼんやりせずに目覚めたのは、これが初めてだった。
「起きて」
アレーテの声は、まだ頭の上から聞こえてくる。かすかに笑いを含んだ声だった。
蘇明はゆっくりと目を開け、思考が現実に戻ってくると、自分がまだアレーテの膝に頭をのせたままだと気づいた。
いつの間にか、アレーテは身をかがめていた。片手を蘇明の耳のそばについて、もう片方の手で彼の額にかかった乱れた前髪をそっと払っている。銀灰色の瞳が、注意深く、気づかうように蘇明を見つめていた。
二人の距離は、少し近すぎた。
アレーテが息をするたびに、胸がかすかに上下するのが感じられるほどに……。
魂だけの存在のはずなのに……。
蘇明の鼓動が、思わず速くなる。
アレーテは何かを察したらしく、耳元にほんのりと赤みが差した。それでもすぐには離れず、蘇明を見下ろしたままでいる。その瞳には、抑えてはいるものの、今にもあふれ出しそうな優しさが揺れていた。
「よく眠れた?」アレーテがそっと尋ねた。
「……ああ」蘇明は答えた。「ここ何年かで、いちばんよく眠れた」
アレーテはそれでようやく、ゆっくりと身体を起こした。二人とも、しばらく何を言えばいいのか分からなかった。
少しして、先に沈黙を破ったのはアレーテだった。
「それじゃあ、大事なことを教えるね」
「大事なこと?」
「魂を導いて、エーテルとつながること」アレーテは真剣に答えた。「ミラタラに生きる者たちが戦う力を手に入れるための第一歩で、いちばん大切な一歩なの」
蘇明はアレーテに言われたとおり、ベッドの上であぐらをかいて座り、目を閉じた。
「普通はね」正面からアレーテの声がした。「魂とエーテルをつなげるには、何か月も、ときには何年もかかるの。それも、できれば子どものうちから始めたほうがいい。エーテルと初めてつながること――それが凡人級の出発点なの」
「でも、わたしたちにはそんな時間はない」
「だから、わたしのやり方で手伝うね」
アレーテが一歩近づく気配がした。目を閉じていても、新しい身体の鋭い感覚が、アレーテの視線が自分に注がれているのを捉えていた。
その視線には、どこか重いものがこもっていた。
「この過程は、すごく痛いよ」アレーテは言った。「準備はいい? わたしの勇者」
「ふう……」
蘇明は深く息を吸い、胸の奥の恐怖を必死に押さえつけた。
正直に言えば、今でも少し現実感がなかった。突然「蘇くん、起きて。お薬の時間ですよ」という声が聞こえて、あの硬い病院のベッドで目を覚まし、すべては今まで見たこともないほどリアルな夢にすぎなかった――そうなるのが怖かった。
だが、百歩譲ってこれが夢だとしても、今の自分が頼れるのはアレーテしかいない。
彼女の言うことを聞く以外に、自分に何ができるというのだろう。
蘇明はふと気づいた。どうやら、ずっとこうだったらしい。
十歳のあの年から、自分の人生はずっとアレーテに導かれてきた。人生の大切な瞬間は、ほとんどすべてアレーテを中心に回っていた。
アレーテは蘇明の人生に、決して消えることのない烙印を刻みつけたのだ。
それは祝福なのか、それとも呪いなのか。
こんな自分は、まだ自由だと言えるのだろうか。
蘇明には答えが分からなかった。
分かっているのはただ一つ。少なくとも今は、アレーテの指示に従うしかないということだけだった。
「自分の魂を思い浮かべて」アレーテの声が、蘇明の耳元で響いた。「止まっていて変わらないものとしてじゃなく、キミの身体からあふれ出していくところを想像するの……」
蘇明は言われたとおりにした。だが何も見えず、何も起こらなかった。
あるのは闇と、自分の鼓動の音だけ。
一回、二回、三回……。
ずいぶん長く待って、こんなことに意味があるのかと疑い始めたころ――
アレーテの詠唱が聞こえてきた。かすれて歪んだ声だった。どの音節にも、アレーテ本来の優雅さや澄んだ響きはかけらもなく、むき出しの悪意に満ちていた。
「ステュガオン――冥神にして冥河の渡し守、すべての死者の王、わが叔父よ」
「汝の力と権能を、我に貸し与えたまえ」
「異界より来たりし異邦人を支配せよ――奪魂」
その詠唱が、何度も何度も繰り返される。
蘇明はたまらず、そっと目を開けた。アレーテは目の前に立ち、両手を胸の前で交差させていた。そしてその銀灰色の瞳は――
真っ黒に染まっていた。瞳孔だけでなく、白目までもが。まるで、すべてを呑み込む二つの深淵のように。
蘇明は緊張のあまり、息をするのも忘れかけた。
『秩序の刃』と呼ばれる彼女が、どうしてこんな声を?
考える暇もなかった。
九度目の詠唱の、最後の一音が落ちた瞬間――
魂の奥底で激痛が炸裂した。まるで身体を真っ二つに引き裂かれるようだった。
生臭い黒い霧が、蘇明の顔の穴という穴から狂ったように噴き出してきた。目から、鼻から、耳から、そして意思に反して大きく開いた口から――まるで生き物のようにもがきながら、外へ逃げ出そうとしている。
黒い霧の中には、半透明でかすかに光るものが幾筋も混じっていた。蘇明の魂だった。
蘇明の目の前に、何千、何万という鏡が現れた。どの鏡にも蘇明が映っている。鏡の中のさまざまな自分が歪み、崩れ、溶けていく。ある鏡の中の自分などは、顔から目も鼻も消え、ただ叫ぶ口だけが残っていた。
無数の砕けた思念、悪意に満ちた言葉。恐怖、羞恥、絶望、自己嫌悪、疑念――蘇明がこれまでの人生で抱いてきたあらゆる負の感情が実体を持ち、彼の頭の中で金切り声を上げていた。
「お前はクズだ」
「お前は狂ってる」
「誰もお前なんか好きにならない」
「彼女だって、お前のことなんか好きじゃない」
……
「彼女は偽物だ!!!!!」
痛い。
ただの痛みではない。魂を血肉から生きたまま引き剥がされるような痛みだった。
蘇明の全身が激しく痙攣した。彼は虚しく手を伸ばし、めちゃくちゃに宙をかきむしった。自分の魂をつかみ戻して、押し込もうとした。だが、何ひとつつかめない。
「あ……」
叫ぼうとして、何か言おうとして口を開いても、かすれたうめき声しか出てこなかった。
「耐えて!」
突然、アレーテの切迫した声が耳元に響き渡った。
「魂を散らしちゃだめ! 今耐えられなかったら、キミは完全に終わりだよ!」
「意志で魂を制御するの! 『抑え込む』っていう概念を思い浮かべて!」
その声は無数の歪んだ鏡を突き抜け、頭の中を埋め尽くす悪意の叫びを突き抜けて、崩壊寸前の蘇明の理性へと、まっすぐに届いた。
蘇明は、ほとんど本能的に従った。
抑え込む。
効いている……! 蘇明は、絶えずあふれ出ていく魂を、わずかながら再び制御できるようになったのを感じた。
絶望と狂気の中で、かろうじて残った理性は「抑え込む」という言葉だけを考え続け、少しずつ、少しずつ、魂を身体の中へ押し戻そうとした。
空気中に、奇妙に甘ったるい血の匂いが漂い始めた。魂の血の匂いだった。
やめろ……。
砕けるな……。
どれほどの時間が過ぎたのか。混沌とした黒い霧がようやく晴れ始めた。そしてその瞬間、蘇明の精神は、ある臨界点を越えたようだった。
蘇明の魂が、まわりのエーテルとの共鳴に成功したのだ。
それは言葉にしがたい感覚だった。自分がまわりの環境とつながったように感じる。魂はもうあふれ出すこともなく、おとなしく蘇明の身体の中へ戻っていった。そして臨界点を越えた瞬間、あらゆる苦痛が跡形もなく消え去った。
蘇明は呆然と、そのすべてを感じていた。
さっきまでの、気が狂いそうなほどの痛み……あれは本当にあったのか?
続いて、不思議な感覚が蘇明の精神に流れ込んできた。彼はゆっくりと目を開けた。
蘇明の「意識」――あるいは、彼の「影響力」とでも呼ぶべきものが、身体から外へと広がっていく。それは一瞬で部屋全体を覆い、さらに広がり続け、最終的にはバスケットコート一面ほどの範囲にまで達した。
その範囲の中で起こることなら、蘇明がその気になれば何でも感じ取ることができた。空気中を漂う塵から、奥深い小径で小さな甲虫が苔の上を這っていく様子まで。しかも、大量の情報で頭が混乱するような不快感はまったくない。この感覚はいつでも閉じることができ、数ミリ秒で再び開くこともできた。
その力を試したあと、蘇明はまわりのエーテルとのつながりも試してみた。拳を握ると、その上の空気が蘇明の意識に従って圧縮され、回転し、鋭い唸りを上げて、リンゴほどの大きさの空気の球になった。
手を開くと、制御を失った空気の球は、ふっとかき消えた。
これが、蘇明が新たに手にした力だった。それはすでに潜在意識に完全に刻み込まれていて、呼吸と同じくらい簡単で自然に、考えるまでもなく発動できる。
……
蘇明の呼吸はまだ荒く、胸が激しく上下していた。額は冷や汗にまみれ、背中の服もぐっしょりと濡れている。
「さっきのは……めちゃくちゃ痛かった……」蘇明は大きく肩で息をした。「成功……したのか……?」
アレーテは驚きと喜びが入りまじった様子で、口元を手で押さえていた。その瞳はもう蘇明の見慣れた銀灰色に戻っていて、今は隠そうともしない喜びと誇らしさでいっぱいになっている。
「成功だよ……」その声は、もう興奮を抑えきれていなかった。「まさか、こんなに順調にいくなんて……」
アレーテは一歩前に出ると、腰をかがめて蘇明の顔をのぞき込んだ。「キミはもう、エーテルを使いこなせるようになった。まだ職業は選んでないけど、今この瞬間から、キミは正真正銘の英雄級だよ!」
言い終えるやいなや、少女はいきなり飛びついてきて、蘇明をぎゅっと抱きしめた。
力いっぱいの抱擁だった。アレーテの腕が蘇明の背中にしっかりと回され、その顔が彼の胸にうずめられる。華奢な身体が寄り添ってきたとき、そこには貪るような渇望と、隠そうともしない愛情がこもっていた。
少女の大胆な振る舞いに、蘇明はどきりとした。アレーテだけが持つ柔らかさが伝わってきて、さっきの胸が張り裂けるような痛みも、それほど恐ろしいものではなかった気がしてくる。
身体の横でぎこちなく固まっていた蘇明の手は、少しためらってから、そっとアレーテの背中に添えられた。
実体のない布地越しに、少女の身体が小さく震えているのが分かった。
「本当によく頑張ったね……」アレーテのささやきが、蘇明の耳元で響いた。「わたしが思っていたよりずっと早くて、何の問題もなかった……やっぱり、キミを選んで間違いなかった……」
話しながら、アレーテの手が蘇明の背中をゆっくりと滑り降りていき、やがて腰のあたりで止まった。そして少しだけ探るように、ほんのわずかに一線を越えるように、そっとそこを撫でた……。
蘇明の背筋が一瞬でこわばり、呼吸がわずかに荒くなった。
アレーテは明らかにそれに気づいていた。けれど彼女はいたずらっぽく笑っただけで、離れるどころか、蘇明をさらに強く抱きしめた。
しばらくして、彼女はようやくゆっくりと腕をほどき、身を引いた。
……
二人のあいだに、再び少し距離が開いた。蘇明の呼吸はまだ完全には落ち着いておらず、頬もうっすらと熱を帯びている。エーテルとつながったせいなのか、それとも別の何かのせいなのかは分からなかった。
アレーテは顔をそむけて咳払いをすると、片手を上げた。
その指先に翠緑の光がともった。空気中に残っていた生命のエーテルが、彼女の手に一筋また一筋と引き寄せられ、圧縮され、やがてその掌の上で、透き通った果実がいくつか結実した。どれもブドウの粒ほどの大きさで、皮は淡い緑色のガラス細工のよう。爽やかな甘い香りが漂っている。
「何か食べよっか」彼女は果実を差し出した。「これは生命の果実。いいことずくめなんだよ。魂の疲れをすぐに取ってくれるし、身体の傷も治してくれるし、人間が毎日必要な栄養もちゃんと摂れるの」
蘇明はそれを受け取り、少しだけ戸惑った。
「姉さんは食べないのか?」
アレーテは首を横に振り、肘掛けが片方しかない蔓の椅子に座り直した。
「封印されてたこの何年かで、ある術式を研究したの。封印そのものから、ほんの少しだけ力をくすねられるようになったんだ」彼女は言った。「でも、それで今のこの姿をなんとか保つのが精いっぱい。抜け出すには、まだまだ全然足りないの」
「それに、封印から取った力はキミに分けてあげられないから、この果物は……」アレーテは生命の果実のほうへ、くいっとあごをしゃくってみせた。「キミが食べて。すごく貴重なんだから、無駄にしちゃだめだよ」
そう言う彼女の口調は淡々としていて、まるで自分とはまったく関係のないことを話しているようだった。
だが、蘇明は気づいていた。
アレーテの視線が果実に落ちたとき、そこにほんの一瞬、疲れと、かすかな渇望がよぎったのを。
蘇明は手の中の果実を見下ろし、長いあいだ迷った。けれど身体の衰弱を感じて、結局一粒をつまみ、口に入れた。
果肉は爽やかに甘く、口の中でとろけた。温かな力が胃のあたりからゆっくりと広がり、全身へと流れていく。
アレーテがひとすくいの清水を呼び出し、蘇明の目の前の空中に浮かべた。蘇明はその水と一緒に、残りの果実を一粒ずつ、すべて平らげた。
アレーテは蘇明の向かいに座り、頬杖をついて、微笑みながら彼が食べるのを眺めていた。
「明日からは」蘇明が最後の一粒を飲み込むと、彼女はふと口を開いた。「職業を選んで、本格的な訓練を始めるよ。それでいい?」
蘇明はうなずいた。
「ああ、そうしよう」
……
それから数時間、蘇明はずっと、手に入れたばかりのこの力に慣れようとしていた。
葉っぱを一枚、傷つけずに浮かせようとしたが、結果は粉々に引き裂いてしまった。そばで見ていたアレーテは何度も噴き出しては、慌てて口を押さえ、咳をしているふりをした。
「何笑ってんだよ……」
「笑ってないよ~」
「絶対笑っただろ!」
「神は笑ったりしないの」アレーテは真面目くさった顔で言った。「神は、微笑むだけ」
数えきれないほど試して、蘇明はようやく葉っぱを空中にぴたりと浮かべ、自分の意志どおりに回転させられるようになった。
「そろそろ寝る時間だよ」アレーテが言った。「外の昼と夜の移り変わりは感じ取れるの。もう夜になってる」
蘇明は一瞬固まった。「じゃあ、さっきのあれは……」
「お昼寝だよ」
蘇明は再びベッドに横になり、布団を身体に引き寄せた。アレーテはベッドのそばに座り、柔らかな眼差しで彼を見つめている。
「おやすみ、スーミンくん」
「おやすみ、アレーテ……姉さん」
これまでの、数えきれない夜と同じように。
アレーテの身体が少しずつ薄れていき、やがて跡形もなく消えた。
神の魂でも、休息は必要なのだろう。
小さな部屋に、蘇明は一人残された。
目を閉じて、今日あったことをもう一度振り返る。
死、再生、女神、エーテル……。
今になっても、蘇明にはどこか夢のように思えた。
けれど――
意識をひと筋、身体の外へ伸ばし、空気中のエーテルにそっと触れてみる。
エーテルは蘇明に応えた。おとなしい小魚の群れのように、彼の指先のまわりをゆっくりと泳いでいる。
現実だ。
昼夜逆転もしていない。何年も蘇明を苦しめてきた、とっくに壊れていた体内時計は、もう一つの世界に置いてきた。かつての自分と一緒に、火葬されたのだ。
ほどなくして、蘇明は深い眠りに落ちた。
ミラタラで迎える、最初の夜だった。




