歪みの始まり
蘇明が目を覚ましたとき、アレーテの歌声が聞こえていた。歌詞のない、素朴な小さな旋律が、狭い部屋の中をのんびりと漂っている。
目を開けて、ひとつ伸びをする。アレーテは蘇明の目の前の、あのいびつな蔓の椅子に腰かけていた。膝の上には黒い麻布が広げられ、針と糸が上へ下へと布を縫っている。何かを仕立てているらしい。
蘇明は声をかけて邪魔をすることはせず、ただ寝返りを打って横向きになり、針を運ぶ少女の姿を静かに眺め、その美しい歌声に耳を傾けた。何もかもが当たり前で、温かくて、まるでありふれた家庭の、ごく普通の朝のようだった。
アレーテと、家庭を築く……?
そんな考えがふと頭に浮かび、蘇明は思わずぼうっとしてしまった。
蘇明の視線に気づいたのか、アレーテが顔を上げ、二人の目が合った。
彼女は立ち上がると、その麻布を丁寧に椅子の上に掛け、それから小さなシングルベッドに潜り込んで、蘇明の隣に横向きに寝そべった。
もともと小さなベッドだ。二人の距離は、一気に縮まった。
アレーテの白い長衣の襟元が片側にずれ、肩から少し滑り落ちて、きめ細やかな白い肌がのぞいていた。あの癒えることのない傷痕が、少女の首筋に沿って下へと伸び、半ば隠れ、半ばあらわになった雪のような白さの中へと消えている。
蘇明の視線は思わず下へ吸い寄せられ、それから慌ててそらされた。仕方なく、ぎこちなく天井を見つめる。
アレーテは明らかに気づいていた。けれど服を直そうともせず、ただにこにこと蘇明を見つめている。まるで、これがごく当たり前のことであるかのように。
「おはよう、スーミンくん」
朝の挨拶をしながら、アレーテが顔を寄せてきた。蘇明の胸がどきりと跳ねる。だが彼が反応するより早く、アレーテは蘇明の額に口づけを落とし、それからさらに下へ、素早く唇にも口づけた。
?!
「ア、アレーテ!?」
「ん?」アレーテは小首をかしげ、蘇明の前髪をひと房、指先で何気なくもてあそんだ。彼が何を慌てているのか分からない、といった様子だ。「どうしたの?」
「いや、その……」
蘇明は口ごもり、しばらくまともな言葉ひとつ出てこなかった。
「そうだ、ちょうどいいから、服の寸法を測らせて~」
「ああ……何で測るんだ?」蘇明は反射的に尋ねた。この部屋には物差しのようなものはなさそうだ。もっとも、アレーテならエーテルで一本作るくらいわけないだろうが。
「もちろん、わたしの手でだよ」アレーテは当然のように言った。「腕、上げて」
え?
蘇明がぼんやりと腕を上げると、アレーテはすぐさま布団の中に潜り込んだ。しなやかな白い腕が蘇明の胸に回され、身体がぴたりと押しつけられる。薄い布地越しに、少女の胸の柔らかさが蘇明の胸板に重なった。
蘇明は一瞬、呼吸を忘れた。
アレーテの掌が蘇明の背中に当てられ、ひと手幅ずつ、下へと移っていく。
「いち……に……あれ? 動いちゃだめだってば。また数え間違えちゃった」
「う、動いてない……」
「じゃあ、なんで震えてるのかな……?」アレーテは手を止めて顔を上げ、蘇明を見上げた。その目には、隠しきれないいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。「そんなにずっと震えてたら、ちゃんと測れないよ?」
「だったら、まず離れてくれ……」
「やだ」アレーテはむしろ、蘇明の腕の中にさらに身を寄せてきた。「寸法を測ってるだけなのに、スーミンくんは何を考えてるのかな?」
……
アレーテはようやく、のんびりと数え終えた。それでも離れようとはせず、蘇明に身体を預けたままでいる。
蘇明の両手は、ずっと宙に上げたまま固まっていた。アレーテはちらりと振り向いてその不自然な格好を見ると、くすっと笑った。
「抱きしめたいなら、抱きしめていいんだよ……大丈夫。わたしが許可してあげる」
「……ほ、本当に?」
「スーミンくん」アレーテは少し顔を上げ、蘇明の頬を軽く甘噛みした。「これ以上聞いたら、怒っちゃうよ?」
それでようやく、蘇明の手がゆっくりと下りてきた。少しためらってから、少女の身体をすっぽりと腕の中に抱きしめる。アレーテの脇腹に添えた手のひらに、その魅惑的な曲線が伝わってきた。細い腰から上へ、少しずつすぼまり、それからふくよかに膨らんでいく。
アレーテは小さく甘い声を漏らし、片脚を蘇明の腰に絡めた。わざとなのか、そうでないのか、その膝が蘇明の太ももの外側をこすっている。
「スーミン……」
アレーテの声は、とろけるように柔らかかった。
蘇明が答えるより早く、アレーテは身体を起こし、蘇明の腰の上にまたがった。
彼女は蘇明を見下ろした。銀灰色の瞳が、うっすらと潤んでいる。
「動いちゃ、だめ……」
アレーテが唇を重ねてきた。今度は、触れてすぐに離れるようなものではなかった。
最初はとてもゆっくりだった。確かめるように、そっと触れるだけ。けれどその我慢もすぐに尽きた。彼女は蘇明の顎をつかむと、強引にその唇をこじ開け、舌を何度も絡ませ、求めてきた。
蘇明の頭はくらくらしていた。こんなふうにキスをされるのは初めてだった。経験もなければ、受け止める余裕もない。ただ、アレーテにされるがままに奪われるしかなかった。
蘇明はとっくに息をするのを忘れていた。本能的に顔をそらして息を継ごうとしたが、アレーテに頬を両手で包まれ、またすぐに引き戻されてしまう。
蘇明は、抵抗するのをやめた。
やがて、アレーテの呼吸も乱れてきた。そして蘇明は、ついに応えようとした。ぎこちなく少しだけ身体を起こし、アレーテの顎を手で包んで、わずかでも主導権を取り戻そうとする。
ひどく不器用な応え方だった。それでもアレーテの身体ははっきりと震え、喉の奥から小さな吐息がこぼれた。
……
……
二人がようやくベッドから身体を起こしたのは、しばらく経ってからのことだった。
アレーテは椅子に座り、何事もなかったかのように長衣を整えている。
蘇明はベッドの端に腰かけ、自分の膝を見つめたまま、なかなか気持ちが落ち着かなかった。やがてその視線が、アレーテが縫いかけていた麻布に留まった。何か話さなければと、蘇明は口を開いた。
「それ……俺の新しい服を作ってくれてるのか?」
「そうだよ。今のキミには、着てるその一着しかないでしょ。それ、わたしが最初のころに作ったものだから、あんまり丈夫じゃなさそうなんだよね」
「十分いいと思うけどな。汚れたら洗えばいいし、今のところ新しいのはいらないよ」
アレーテは答えなかった。ただ微笑んで、さっき乱れた蘇明の襟元を、手を伸ばして直してくれた。
……
朝食は今日も生命の果実だった。今回アレーテが差し出したのは赤い実だった。蘇明は少しためらったが、結局受け取って口に入れた。
甘い! あまりの甘さに、蘇明は危うく甘ったるさで死ぬかと思った。
「これはね、今日の新発明」アレーテは笑いをこらえながら言った。「本に書いてあったの。人間の子どもは、甘いものが好きなんだって!」
甘さに顔をしかめる蘇明を見て、アレーテはとうとう声を立てて笑った。それから指を伸ばして蘇明の口元についた果汁をぬぐい、ごく自然に自分の唇へ運んで、そっと口に含んだ。
「うーん……ちょっと甘すぎたかも」
これは……。
アレーテは続けて、いつもの緑の果実をいくつか蘇明に手渡した。「たくさん食べてね。今日の訓練は、すごく疲れるから」
いったい、どうなってるんだ?
今日のアレーテは、ちょっと自分に親密すぎないか? 昨日も忘れられない瞬間はたくさんあったが……今日のアレーテは、明らかにずっと大胆だ。
これは普通のことなのだろうか。多くのものを背負い、しかも自分自身が封印されている者の心境とは、とても思えない。
どこがおかしいのか、蘇明にはうまく言えなかった。けれど少なくとも、こんな朝は少しも嫌いではなかった。
蘇明が食事をしているあいだも、アレーテは新しい服を縫い続けていた。それは黒くてゆったりとした長いローブで、顔まで隠せるフードがついている。蘇明が食べ終えるころには黒いローブは仕上がり、アレーテはそれをきちんと四角く畳んで、蘇明の枕元に置いた。
「アレーテ、その服、今着てみたほうがいいか?」
「急がなくていいよ。今日の訓練は、古いほうを着ていって。夜に帰ってきたら着替えよう」
「え? なんでだよ。けっこう着てみたかったのに」
「新しい服をいきなり汚しちゃったら、嫌でしょ」アレーテはぱちりとまばたきをした。「古いほうがもう着られなくなるまで着てから、新しいのに替えよう。こっちは丈夫だから、これから破れても、わたしが繕ってあげられるし」
蘇明は返事をしただけで、深くは考えなかった。
出かける前、アレーテはつま先立ちになって、もう一度、蘇明にそっと口づけた。
「これから毎朝、こうしようね。いい?」
「……ああ」
……
二人は小径をたどって、聖樹の空洞の中心へと戻ってきた。
道すがら、蘇明はアレーテから職業についての話を聞いた。
簡単に言えば、ミラタラの人間は十歳前後で自分の職業を選ぶ。剣士、レンジャー、魔法使い、聖騎士……。ただしそれはあくまで慣習にすぎず、剣を学んだら魔法を学んではいけない、などという決まりは一切ない。ただ普通の人間には限られた気力しかなく、凡人級の普通の人間が一つの職業を極めようとすれば、だいたい二、三十年はかかるのだという。
「でもキミの魂はもう英雄級に達してるから、学ぶ力も凡人級とは比べものにならないくらい高いの」アレーテは言った。「だからわたしのおすすめは、魔法戦士になること。近接戦闘と遠距離の魔法を両方修めれば、隙のない戦い方ができるから」
「わたし自身もこの職業だから、そのぶん色々教えてあげられるしね」
……
アレーテは地面に奇妙な魔法陣を描き、これまで集めてきた武器をいくつか呼び出して、蘇明に選ばせた。
片手剣、大剣、長刀、長槍――がちゃがちゃと音を立てて、地面いっぱいに並べられる。
蘇明は一つずつ手に取ってみたが、どれもしっくりこなかった。そんなとき、魔法陣の端に、あまり目立たないが、どこか見覚えのある一振りの剣を見つけた。
蘇明はそれを拾い上げ、じっくりと眺めた。飾り気のない真っ黒な鞘。柄頭には素朴な輪がひとつついている。鍔は漢字の「一」のように細く狭い。手首を守るためのものではなく、使っているときに手が柄から滑って刃で切ってしまうのを防ぐためのものだ。同時にこの形は、斬りつけたときの手応えを最大限に残してくれる。
蘇明が親指で鞘を押し上げると、刀身が三寸ほどのぞいた。古い鏡のように光を映す刃には、傷ひとつ、錆ひとつない。
これは環首剣だ(古代中国の剣の形式。柄頭に環――輪がついているのが最大の特徴で、日本の古墳時代の環頭大刀などにも、その影響が見られる)。
「アレーテ、どうしてここに、俺の故郷のものがあるんだ……?」蘇明は不思議そうに尋ねた。
「地球とミラタラは、双子の世界だからだよ。二つの世界の人間は、似たような環境で、似たような敵に立ち向かうと、似たような武器を手に取ることが多いの」アレーテは蘇明の疑問に答えた。「ずっと昔、ミラタラにも古代の唐土によく似た王朝があったの。国号は『啓』」
「そうだったのか……じゃあ、この剣の名前は?」
「白虹」
故郷の剣によく似たこの剣を、蘇明はすっかり気に入った。
「じゃあ、これにするよ」
「うん……この剣は、古い友人からもらったものなの。キミにもよく合うと思う……」
「でも今日は、この剣は使わないで」アレーテは優しく言った。「この剣を、つらい思い出と結びつけてほしくないから」
つらい思い出……?
どういう意味だ?
蘇明は深く考えず、白虹を脇に置くと、長さと重心が近い長剣を適当に一本選んだ。
アレーテも別の長剣を選び、残りの武器を片づけると、十歩離れた場所に立った。
「まずは、いちばん基本のレッスンからね」アレーテは笑って言った。「さあ、打ち込んできて」
「いきなり始めるのか? 剣の握り方とか、教えてくれないのか?」
「凡人級なら必要かもしれないけど、キミの魂はもう英雄級だから、飲み込みがすごく早いはず。だから、ちょっと無茶だけど、いきなり実戦からいくね」アレーテは剣を高く掲げた。「戦いの中で、すべてをつかみ取って!」
「わたしは昔はすごく強かったけど、今はただの魂の欠片。スーミンくんはまだ肉体を鍛えてないけど、魂はもう英雄級だもの。もしかしたら、キミが勝っちゃうかもね」
「だから、全力でかかってきて。わたしは、こんな武器じゃ死なないから」
蘇明の胸の中で、熱い血が沸き立った。剣の柄を固く握りしめて戦闘態勢に入り、魂の感知を余すところなく解き放つ。戦意がみなぎっていた。
この超常の力を戦いの中で操るのは、これが初めてだ!
もしかしたら……本当に勝てるかもしれない!
「じゃあ、いくぞ!」
蘇明は力強く一歩踏み込み、両手で剣を握って、渾身の力で上から斬り下ろした。
キィン!
二本の剣がぶつかり合い、火花が散った。アレーテは柄を持ち上げ、刀身の根元でその一撃を受け止めたが、それでも半歩後ろへ下がらざるを得なかった。
蘇明は、最初の一撃でアレーテを押し下げたのだ!
幸先のいいスタートだった。
アレーテの目は称賛に満ちていた。手首を軽く振りながら、蘇明に微笑みかける。「なかなかの力だね。身体の強さも、霊級くらいまで届いてるかも」
その言葉が終わらないうちに、アレーテは不意に右手を離した。左手だけで柄の後ろ半分を握ると、奇妙な角度から剣を振り出すように突き込んでくる。毒蛇が舌を閃かせるように、狙いはまっすぐ蘇明の手首だった。
!!!
手首に迫る危険を、蘇明は一瞬で察知した。条件反射のように重心を後ろ足へ移し、その動きで腕を斜め後ろへ引く。アレーテの切っ先は空を突いた。
だが蘇明が体勢を立て直すより早く、アレーテの切っ先は軌道を変えた。今度は下から上への斬り上げだ。蘇明はその勢いのまま後ろへのけぞって地面に倒れ込み、その一撃をかわした。そしてすぐさま左手をついて立ち上がる。右手の剣は、ずっとアレーテに向けたままだった。
アレーテはいったん攻撃の手を止め、鋭い眼差しで蘇明を見つめた。
「反応も速いね。戦いのセンスも悪くないよ」
蘇明は大きく息を切らしながら、たった今のきわどい攻防を何度も頭の中で反芻していた。
これが、戦いの感覚なのか。俺は、アレーテについていけている!
勝てる!
それから数合、二人の打ち合いは一進一退だった。蘇明は防御と回避を中心に立ち回りながら、アレーテの剣技を絶えず学んでいった。一度など、アレーテの技のつなぎ目の隙を突き、かつて彼女が使った片手突きで手首を狙った。当たりはしなかったが、白い長衣の端を切り裂いた。
アレーテは長衣の新しい裂け目を見下ろすと、いっそう嬉しそうに笑った。
「やるじゃない、スーミンくん!」
空洞の中に、鉄と鉄がぶつかり合う音と、戦意に満ちた少年の雄叫びが響き渡る。蘇明の身体にも細かな傷がいくつかできていたが、彼はそれでも興奮しきっていた。この新しい力は、それほどまでに素晴らしかった。
蘇明は再び突っ込んでいった。だが今回、アレーテは剣を身体の横に下ろしたまま、受けようともしなかった。
ついに気が緩んだのか、アレーテ……。
もらった!
蘇明は剣を頭上に振りかぶり、アレーテの顔面めがけて斬り下ろした。
――違う!
蘇明は突然、かすかな危険の気配を感じ取った。無理やり攻撃を止め、後ろへのけぞる。
アレーテの切っ先が、蘇明の胸の前をかすめていった。
かわせた……よな。
危なかった。どうやらさっき、アレーテが正中線をがら空きにして見せた構えは、ただの罠だったらしい。
見破ってやったぞとアレーテに自慢しようとした、そのとき――蘇明は胸が焼けるように熱いことに気づいた。
見下ろすと、服が裂けていた。一本の赤い線が、脇腹の下から胸を斜めに横切っている。
数秒後、その赤い線はファスナーを開くように幅を広げ、血がどっとあふれ出した。
「え……?」
蘇明は呆然と自分の胸を見つめていた。数秒遅れて、ようやく痛みが神経に届いた。
「あ……あ、ああ……」
信じられない思いで傷口を押さえる。剣が手から落ちた。
アレーテが、本当に、俺を傷つけた……?
顔を上げると、アレーテの顔は死人のように青ざめていた。それでも彼女は必死に笑っていた。まるで、仮面をかぶっているかのように。
「キミの回避は、後ろへのけぞる動きに頼ってることが多いの。だからさっきの一太刀は、振るときに半歩だけ前に踏み込んでおいたんだ」
「敵に自分の動きの癖を知られちゃだめだよ、スーミンくん」
そう言うと、アレーテはゆっくりと剣を構え直した。
「前に言ったよね。キミが戦いの中で苦痛を受ければ受けるほど、わたしの法則の力がキミを強くするって。それだけじゃない。法則の力は、キミの傷も治してくれるの」
「わたしたちには、ゆっくり訓練している時間はないの」
「だから、少しだけ我慢して」
……
そういうことだったのか。
あの言葉は覚えていた。けれど、本気にはしていなかった。ずっと先の話だと思っていた……あるいはあのとき、実感がなかったのだ。保険みたいなチート能力くらいにしか考えていなかった。
実際に剣が自分の身体を斬り裂き、耐えがたい痛みを味わって初めて、蘇明は法則というものの意味を本当に理解した。
……
傷口はすでにふさがり始めていた。湯気を立てながら、新しい小さな肉芽が盛り上がってくる。それまでの細かな傷も、とっくにかさぶたになっていた。全身がより強く、より引き締まっていくのも感じられる。肉体の密度そのものが変わっていくようだった。
だが、本当に痛い。
それでも蘇明は、弱い役立たずにはなりたくなかった。昨日アレーテに言ったことを思い出す。手加減しなくていい、情けをかける必要はない、と。
男なら、約束は守るものだ。そうだろう?
蘇明は歯を食いしばり、刃に斬られた激痛に耐えながら、身をかがめて剣を拾い上げた。
「……来いよ」
蘇明は震える手で剣を構えた。
意地を張る蘇明を見て、アレーテのこわばった笑顔の仮面に、ほんの少しひびが入ったように見えた。だが彼女は何も言わず、剣を手に突進してきた。
二つの影が、再び刃を交え始めた。
あとになって、蘇明はようやく理解した。アレーテは最初から手加減などしていなかったのだ。魂の欠片にすぎない彼女が出せる力や速さは、蘇明とそれほど変わらない。だが、彼女には比類のない戦闘経験があった。最初の数合、アレーテはずっと、蘇明の戦い方の癖と規則性を探っていたのだ。
そして今、彼女はそれを見つけた。
アレーテの剣技は、狡猾で意表を突くものに変わった。剣を高く振りかぶる構えを見て、蘇明は本能的に剣を上げて頭を守ろうとした。だがアレーテは片手で剣を中段へと振り抜き、蘇明の腹に浅くない傷を刻んだ。
蘇明は低くうめいたが、叫び声だけは必死にこらえた。素早く後ろへ跳んで距離を取ると、拳の前に空気の球を圧縮し、アレーテめがけて思い切り叩きつけた。
アレーテの目には何の揺らぎもなかった。ただ剣をひと振りする。鋭い音とともに空気の球は真っ二つに斬られ、脇の地面にぶつかって、深さ一メートル以上の大きな穴を二つ穿った。
「遅すぎる」アレーテは言った。「それに、殺意が足りない」
言い終えると同時に、アレーテの切っ先が再び迫り、蘇明の左腕に新しい傷が刻まれた。
「……もう一回だ!」
蘇明は吠えるように叫んでまた突っ込み、両手で剣を振り回して、力ずくでアレーテの守りを崩そうとした。
アレーテは半身になって、蘇明の攻撃を何度も何度もかわした。そして蘇明が斬りかかった一瞬の隙に、自ら蘇明の懐へ飛び込むと、剣の柄で彼の頭を思い切り殴りつけた。目がくらんだところへ、太ももにまた一筋の傷を刻む。
「ぐっ……」
蘇明は地面に膝をつき、身を貫くような痛みに耐えた。傷がわずかにふさがり、動くのに支障がなくなると、彼はまた立ち上がった。
「……もう一回」
……
……
自分の身体にいくつ傷があるのか、蘇明にはもう数えられなかった。古い傷がふさがったと思えば、また新しい傷が斬り開かれる。灰色の服はとっくにぼろ布と化し、血で身体に貼りついていた。
今度は、蘇明の脇腹が斬り裂かれた。
「ぐ、あああああああ……」
ずっと持ちこたえてきた気力が、その悲鳴とともに、跡形もなく消え去った。
蘇明は身体を丸め、脇腹の傷を必死に押さえた。指の隙間から、血がとめどなくあふれ出てくる。
アレーテは自分の剣を放り捨てると、膝をついて座り込み、蘇明を強く抱きしめた。少女の手に翠緑の淡い光がともり、それを傷口に当てると、傷はいっそう速くふさがっていった。
「いい子だね……」アレーテは声を詰まらせた。「もう少しだけ、頑張って……」
アレーテの仮面は、完全に砕け散っていた。とうとう涙があふれ出し、一粒、また一粒と地面に落ちては、形をなくして消えていく。
傷が、すっかりふさがった。
アレーテはそっと蘇明を離すと、背を向けて、自分の長剣を拾いに行った。
「ま……待って」
「少し休ませてくれ。少しだけでいいから、頼む……」
アレーテは剣を手に、ただ静かにそこに立っていた。何も答えない。
「アレーテ、今日は……今日はもう十分だろ?」
「明日また練習しよう、な? 明日はちゃんとやるから、約束する……」
アレーテは声もなく泣いていた。それでも、彼女は剣を構えた。
「立って、スーミン」
「嫌だ……」
「立ちなさいって言ってるの!!」
ほとんど泣き叫ぶような声だった。
蘇明は立ち上がらなかった。膝をついたまま二歩這い進み、アレーテの長衣の裾をつかんだ。
「姉さん……アレーテ姉さん、お願いだ……」
「痛いんだ、本当に痛いんだよ……もう、耐えられない……」
アレーテは蘇明を見下ろしていた。その涙が、蘇明の身体に落ちた。
「ごめんなさい……」
彼女は泣きながら言った。
「ごめんね、スーミンくん……」
剣が、また振り下ろされた。
……
長い時間が過ぎた。
アレーテに斬られるのがこれで何度目なのか、蘇明にはもう分からなかった。
ただ今回、彼の頭の中で、何かが決定的に壊れた。
蘇明は剣を投げ捨て、背を向けて逃げ出した。
悲鳴を上げ、泣き叫びながら走った。全身がふさがった古傷と、斬られたばかりの新しい傷だらけだった。昨日口にした威勢のいい言葉も、今朝の意気込みも、すべて頭から吹き飛んでいた。
「来るな、来るなああ!!!」
今の蘇明は、ただ苦痛から少しでも遠ざかりたかった。
蘇明は空洞の果てまで走った。目の前には、あの黒い枯れ木の壁がそびえている。もう、逃げる場所はどこにもなかった。
振り返ると、アレーテがこちらへ漂うように近づいてくる。もう一度、アレーテに懇願するしかなかった。
どれほど卑屈に、這いつくばってでも。
だが、アレーテの剣はすでに振り下ろされていた。今度は左肩だった。骨が見えるほど深く斬り裂かれ、蘇明は虚しく傷口を押さえて、苦痛の悲鳴を上げた。
「も……もう、大丈夫」その一撃を振り下ろしたあと、アレーテはすべての力を失ったかのように剣を取り落とし、虚ろな目でつぶやいた。「今日は……ここまで……ここまで、だから」
アレーテは膝をつき、それでも蘇明の傷を治そうとした。
「手伝わせて、スーミン。わたしに治させて……」
「触るな!!」
蘇明はかすれた声で叫んだ。右手で壁を支えにして身体をまっすぐに起こす。左腕はだらりと垂れ下がっていた。アレーテを見るその目には、もう他の感情は何も残っていなかった。あるのは、ただ純粋な恐怖だけだった。
アレーテは呆然と膝をついたままだった。蘇明はその脇をすり抜け、あの奥深い小径へと駆け込んだ。
小径の先には隠れ家がある。蘇明は中に飛び込むと、後ろ手に扉を叩きつけるように閉めた。
扉に背を預け、ずるずると床に座り込む。視線の先には自分のベッドがあった。あの新しい服がきちんと四角く畳まれて、枕元に置かれている。そして自分が着ている古い服は、もう血でぐっしょりと濡れ、ぼろぼろになって肌に貼りついていた。
『古いほうがもう着られなくなるまで着てから、新しいのに替えよう』
あいつは、最初から計画していたんだ。今日の「訓練」を……。
服のことだけじゃない。蘇明は今朝のぬくもりを、昨日のさまざまな触れ合いを思い出した。
そうだ、いつもそうだった。アレーテは蘇明に苦痛を与える前には、必ず先に甘い思いをさせる。あるいは、苦痛を与えたあとで、その埋め合わせをする。
『いちばん原始的な欲望こそが、いちばん人の心をつかむ』
彼女自身が、そう言っていたじゃないか。
今朝、アレーテが自分にあんなに優しかったのは、今日、これまでで最大の苦痛を自分に与えることを知っていたからだ。
だとしたら、あの触れ合いも、あの優しさも、どこまでが本心で、どこからがただの埋め合わせだったのか?
それとも、あれは自分が自暴自棄になって、狂ってしまわないための保険だったのか?
そこまで考えて、蘇明はふと思った。今朝、自分に家庭のぬくもりを感じさせてくれたあの少女のほうが、さっき剣を手に自分を追い回していた悪鬼よりも、ずっと恐ろしい、と。
あまりにも、歪んでいる。
扉の外から、アレーテの声が聞こえてきた。
「スーミン……」
「消えろ!」
蘇明はヒステリックに叫んだ。
「消えろ! さっさと消えろ!! 来るな、来るなああ!!」
扉の外は静かになった。蘇明は膝を抱え、血まみれの腕に顔をうずめて、とうとう何もかもさらけ出すように声を上げて泣いた。
しばらくすると、扉の外からも泣き声が聞こえてきた。最初はとても小さく、口を押さえて必死にこらえているようだった。けれどほどなくして、それももう抑えきれなくなった。
神と呼ばれる少女は、扉一枚を隔てたすぐそこで、同じように声を上げて泣いていた。




