痛みに愛された少年
……
…………
困惑。
混沌。
断絶。
「う……」
心臓がひとつ脈打ち、肺が大きく空気を吸い込んで――
蘇明は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、巨大で暗いドーム状の天井だった。ここがどこなのか考えるより先に、吸い込んだ息とともに腐った臭いが一気に肺へなだれ込んでくる。湿気を吸って朽ちた木材の、ひどく濃い臭いだった。
胃がひっくり返るような感覚に襲われ、蘇明はたまらず顔を横に向けてえずいた。どうにか吐き気をこらえ、少し落ち着いてから、ようやく周囲の様子を見回す。
ここは……巨木の内部?
だが、木にしては大きすぎた。今いる場所はむしろ巨大な洞窟に近く、高さは数十メートルはあるだろう。無数の巨大な蔓と根が四方八方から寄り集まって天井を支え、この空間そのものを形作っていた。
悪臭の元は、その巨大な蔓と根だった。どれも真っ黒で、ひび割れた表皮からは暗緑色の粘液がじわじわと滲み出していて、ところどころで光る鉱石に照らされたそれは、いっそう気味悪くぬらついて見えた。
蘇明が横たわっていたのは中央に近い場所で、身体の下には湿った木屑が分厚く積もっていた。
……
何がどうなっているのかはまだ分からない。だがそのとき、蘇明はふと気づいた――頭が、はっきりしている。四年間ずっと彼を苦しめてきた脳の霧が、跡形もなく消えていた。
待てよ、自分はたしか死んだはずだ。この空間に来る直前、彼は第三者の視点から、精神病院の職員が自分の遺体を片づけるのを見ていたのだから。
「マジかよ……」
蘇明は地面に手をついて上半身を起こした。
「ここはどこだ? 幻覚か? また症状が出たのか?」
パンッ。
蘇明は迷わず手を上げ、自分の頬を思い切り張った。
痛い……
幻覚じゃない。
「ようこそ、わたしの世界へ」
少女のささやき――蘇明が一生忘れることのできない声が、背後のすぐ近くから聞こえた。
「わたしの戦士、わたしの勇者……」
それは、彼のたった一人の友達、アレーテの声だった。
蘇明の全身が凍りついた。
その言葉は中国語ではなかった。一度も聞いたことのない言語なのに、なぜか単語のひとつひとつまで理解できる。
信じられない思いで振り返ると、アレーテは彼のすぐ後ろに立っていた。
記憶の中と変わらない姿……のように見えた。すらりとした長身に軽やかな佇まい、腰まで届く黒髪、清楚で上品な顔立ちには――
その顔だけが、記憶と違っていた。
額から左頬を通り、ぼろぼろになった長衣に覆われた身体を伝って、その裾でも隠しきれない足首まで、無残な傷痕が一筋走っていた。めくれ上がった皮膚は、まるで永遠に塞がることがないかのようだった。
もう記憶の中のアレーテではない。それでも、彼女のいちばん美しいところ――その瞳だけは、何も変わっていなかった。
銀灰色の瞳は、澄んだ光をたたえていた。
……
アレーテは、蘇明が十歳の年に出会った友達で、彼の人生でただ一人の親友でもあった。
あるいは医者に言わせれば――蘇明が十歳のときに「空想した」友達。
二人が初めて出会ったのは、蒸し暑い七月の夕暮れだった。
当時、蘇明の家は一九九〇年代に建てられた古い団地にあった。灰色にくすんだフルシチョフカ風の集合住宅が数棟、お決まりの中庭を囲んでいて、その隅にある砂場には、タバコの吸い殻やガラスの破片が混じっていた。
何人かの悪ガキが、レンガを二つ置いてゴールに見立て、砂場でサッカーをしていた。
小さいころから優しく、けれど気が弱く臆病だった蘇明の役は、ゴールキーパーだった。
といっても、キーパーとは名ばかりで、子どもたちは蘇明をゴールの前に立たせ、代わる代わる思い切りボールを彼の身体に蹴りつけるだけだった。
その遊びは二十分続いた。その間ずっと、蘇明は媚びるような笑顔を浮かべ、なんとか輪に入れてもらおうと、自分を卑下し続けていた。
いじめっ子たちはだんだん飽きてきた。泣き声が聞きたい、抵抗するところが見たい、そのほうが面白いからだ。
リーダー格の太った少年が蘇明のほうへ歩いてきた。もう帰るのだろうと思った蘇明は、反射的に引きつった笑顔を作った。
次の瞬間、蘇明は突き飛ばされていた。頭を砂場の縁にぶつけ、あまりの痛さに悲鳴を上げたせいで、口の中に砂が入り込み、ざらざらと乾いた味が広がった。
耳元で嘲笑が弾け、クソガキどもはあっという間に走り去っていった。
痛みがようやく引いても、蘇明はしばらく砂場に座り込んでいた。ぼんやりと座ったまま空が暗くなるのを待ち、いじめっ子たちがもう戻ってこないと確かめてから、やっと安心して大声で泣き出した。泣きながら、少し腫れた頭をさすった。
「あらあら」
不意に、優しい少女の声が耳元で響いた。
どうして?
近くには誰もいないって、ちゃんと確かめたのに。
蘇明が顔を上げると、
十八、九歳くらいの少女が砂場のふちにしゃがみ込み、小首をかしげて蘇明を見ていた。
その口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいる。
沈みかけた夕日が少女の背後から斜めに差し込み、その輪郭を淡い金色で縁取っていた。逆光のせいで顔ははっきり見えないが、うっすらと分かる輪郭から、きっとすごく綺麗な人なのだろうと思えた。少女の黒髪はとても、とても長く、細い腰のあたりまで流れ落ちていて、高校の校則ならまず許されない長さだった。身にまとっているのは真っ白なロングドレスで、デパートで売っているようなワンピースとは違う。蘇明がテレビの映画チャンネルで流れる古いソ連映画の中でしか見たことのない、上質な生地にフリルのついた、ゆったりとしたドレスだった。
ドレスの裾は埃だらけのコンクリートに垂れているのに、少しも汚れていなかった。
彼女の中でいちばん特別で、いちばん美しいのは、その瞳だった。湖面に落ちた月の光と同じ、銀灰色の瞳。
少女は手を伸ばして砂まみれの蘇明の小さな手を握ると、軽く引っ張っただけで彼を砂場から引き上げた。それから袖口――あんなにも真っ白な袖口で、蘇明の顔の砂と、涙をぬぐってくれた。
十歳の蘇明が鼻をすすると、間の悪いことに、鼻提灯がぱちんと弾けた。
顔がかっと熱くなり、蘇明は慌てて手の甲でごしごしとこすった。
「うっ……あ、ありがとう、お姉さん」蘇明は泣き声の残る声で、つっかえながら言った。「あ、あの、一緒に遊んでもいい? 僕、友達がすごく欲しくて……僕、蘇明っていうんだ。お姉さんの名前は……? お姉さん、すごく綺麗だね」
少女はぷっと噴き出した。
「友達選びを間違えていじめられたばかりなのに、今度はわたしと友達になりたいの?」
「キミねえ、もうちょっと人を警戒しなきゃだめだよ。わかった?」
少女は二本の指で蘇明の頬をつまみ、軽く外側へ引っ張った。
むにっ。
ちょっと痛い、でも嫌じゃなかった。
「でもまあ、友達になってあげてもいいよ。わたしはアレーテ(Arete)」
「ア……レーテ?」
「そう。ア、レー、テ」
「ちゃんと覚えてね」
少女は一音一音、とても真剣に名前を教えてくれた。どうやら、自分の名前をずいぶん誇りに思っているらしい。
名前を言い終えると、少女は笑みを引っ込め、真剣な、気づかうような目で蘇明を見つめた。
「ねえ、坊や。わたし、さっきからずっと見てたんだけど、あんなにいじめられてるのに、どうして笑ってあの子たちと遊ぼうとしたの? どうして友達になろうとしたの?」
……
蘇明は黙ったまま、何も答えなかった。
「これからは、絶対に、絶対にそんなことしちゃだめだよ」アレーテは赤くなった蘇明の頬から手を放し、彼の頭をそっと撫でた。
とたんに蘇明は不思議な感覚に包まれた。転んでできたばかりのたんこぶが、まったく痛くないのだ。
いや、たんこぶが……消えた?
「媚びたって、本当の友達は手に入らないの」アレーテは真剣に言った。「本当の友達っていうのはね、相手が転んだとき、しゃがんで手を引いて起こしてくれる人のこと」
「それから、相手がどうしようもなく困っているとき、すべてを懸けて、できる限りのことをして助けてくれる人のこと」
蘇明はぽかんとしたまま聞いていたが、恥ずかしくなってうつむき、アレーテの真剣な目を見ることができずに、薄汚れた自分のスニーカーをじっと見つめた。
「……わかったよ、お姉さん」蘇明は小さな声で言った。「僕、ただ……ママが言ってたんだ。人に優しくしてれば、自分がちょっと損しても、みんな本気で仲良くしてくれるって。友達だと思ってくれるって……」
それを聞いたアレーテは、ただ微笑んで首を横に振った。
「ママの言うことが、誰にでも当てはまるとは限らないんだよ」
「でもね、坊や、お姉さんと約束して。ママのことを恨んじゃだめ。人間なら誰だって間違えるし、失敗もする。それはどうしようもないことで、ママだって例外じゃないの」
「だけど、わたしにはわかる。ママはきっとキミのことを愛してるし、本当に悪いのは、キミをいじめた子たちのほう」
「ママはただ、キミのために、穏便に済む道を選んであげただけなんだよ」
蘇明はよく分からないまま、こくりとうなずいた。なんとなく、意味は伝わった気がした。
「それと、キミをいじめた子たちのことだけど……お姉さんが約束してあげる、あの子たちはもう二度と同じことはしないよ」
「だから、安心してね」
そう言ったとき、アレーテの微笑みが、どこか背筋の寒くなるようなものに見えた。
けれど、それはほんの一瞬のことだった。
しばらくもじもじしたあと、蘇明は顔を赤くして、小さな声で尋ねた。
「お姉さん、ほんとにすっごく綺麗だけど……名前、このへんじゃ珍しいよね。新疆のほうから来たの? それとも……外国の人?」
蘇明が「すっごく綺麗」と言ったとき、少女が明らかに得意げな顔をしたのを、彼は見逃さなかった。
「どっちも違うよ……わたしは炎帝と黄帝の子孫じゃない……つまり、キミたちの国の人じゃないってこと! でも、外国人でもないの」
「わたしの正体はまだ教えられないな。いつか機会があったら、教えてあげる」
アレーテは立ち上がり、ドレスの裾をぱんぱんと払った。埃なんて一粒もついていないのに。
「今はね、通りすがりの親切な人だと思っておいて。たまたま同情心があふれちゃって、気まぐれに、砂場でおバカみたいに泣いてる子の世話を焼いただけ」
「僕、バカじゃないもん!」
「はいはい、バカじゃない、バカじゃない」アレーテは適当にうなずくと、腰をかがめ、にこにこしながら蘇明に言った。
「どうせ最近ヒマだし、キミのお願い、聞いてあげる。これからはわたしがキミの友達になって、いろんなところに遊びに連れていってあげるよ」
「ほんと!?」
「ほんと」アレーテは小指を差し出した。「指切りしよ」
蘇明は慌てて小さな手を伸ばし、アレーテのひんやりとした細い小指に、自分の小指をからめた。
「それにね」アレーテは絡めた小指を軽く揺らし、どこか秘密めかして言った。
「キミの魂はとっても特別なの。わたしも、キミと友達になりたいなって思ってたんだ」
「もしかしたら、いつかキミがわたしを助けてくれるかもしれないしね……」
……
そのころの蘇明はまだ何も分かっていなかった。ただ一つ分かっていたのは、今日ついに、人生で初めての友達ができたということ――しかも、綺麗な年上のお姉さんだ。
それから、アレーテと蘇明はいろいろな場所へ旅をした。ただし、ある不思議な方法で――空想によって。
蘇明は空想が得意だった。かつて彼をいじめた子たちは蘇明のことを鈍いと言っていたが、本当は自分の頭の中で自由に想像を羽ばたかせ、読んだ小説を思い返したり、新しい物語を考えたりしていただけなのだ。
旅の方法は、アレーテが教えてくれた。まず目を閉じて深呼吸をし、雑念は追い払おうとせず、浮かぶままにしておく。
そうして心を静め、何も考えずに雑念が消えていくのを待ち、心が空っぽになったら、頭の中にアレーテの姿を思い描く。
五分たって目を開ければ、アレーテは必ず蘇明の前に現れる。
あとは、最初に目に入った扉を開けるだけ。そうすれば二人は、アレーテの行きたいどんな場所へでも行けた。中には、この世界ではない場所さえあった。
空を覆い隠すほど深い森の奥でエルフたちが歌い継ぐ聖歌を聞き、凍てつく風が吹きすさぶ雪原を必死に進んで、霜の巨人たちの足跡を探したこともあった。
「キミを危ない目には遭わせない。安心して、スーミンくん」
アレーテの約束は嘘ではなかった。異世界にいるあいだの蘇明は、まるでVRゲームをしているようなもので、どれほど危険な環境でも、彼に害が及ぶことはなかった。
異世界旅行のほかにも、蘇明が呼んでいないのに、アレーテがふらりと現れることがあった。『龍族II』が刊行されたばかりのころには、本屋で一緒に午後いっぱい本を読んで過ごした。
彼女もその小説が大好きだった。
学校の春の遠足のことも、蘇明はよく覚えている。その機会に、蘇明はアレーテと一緒に地元の有名な観光名所「天下第一関」を巡ったのだ。長城のレンガなどとっくに何百年も前のものではないのだろうし、観光地としても少々商業化しすぎていたが、それでもアレーテは、あちこちを興奮した様子で見て回っていた。
「アレーテ姉さん、僕たち、もっと景色のいいところにたくさん行ったよね。どうしてここがそんなに気に入ったの?」
蘇明は不思議そうに尋ねた。
「物事は表面だけで見ちゃだめだよ、スーミンくん」アレーテは頬をぷくっと膨らませ、ちょっと怒ったふりをした。
「わたしがここに興味があるのは、ここがキミたち唐土の古戦場だからだよ。どれだけ激しい戦いがここで繰り広げられて、どれだけの英雄が大切なものを守るために、ここで命を落としたと思う?」
「わたしには、彼らの苦しみと無念が感じられるの」アレーテはどこか悲しげに言った。「彼らの来世に、ここでの苦しみを思い出させてあげたい。その苦しみを力に変えて、偉業を成し遂げる手助けをしてあげたいの」
「でも残念、こっちの世界ではそれができないんだ」
アレーテは空を見つめ、静かに言った。
「唐土において、わたしにはその権限がないから」
その瞬間、蘇明にはアレーテがどこか知らない人のように思えた。いつも一緒にはしゃいでいる少女ではなく、もっと高い次元にいる何者かのように。
でも……ちょっと知らない人みたいだけど、すごくかっこいいな……
?
蘇明の視線に気づいたのか、アレーテが振り返った。その顔には、またいつもの温かい微笑みが戻っていた。
「あらら、ちょっと中二病っぽかったかな……」
……
のちに病気になったせいで、蘇明はもう覚えていない。自分と友達になってくれて、異世界旅行に連れていってくれるお姉さんがこの世界に存在する――どうしてあのころの自分は、そんなことをあっさり受け入れてしまったのだろう。
アレーテと出会ったとき、蘇明がまだ幼すぎて、世界観ができあがっていなかったからかもしれない。
あるいは、心のどこか暗い片隅で、「これは空想なんだ」と自分をごまかし続けていたからかもしれない。なにしろ彼は、小さいころから空想が好きだったのだから。
それとも――いちばん救いを必要としていたときに、アレーテに救われたからだろうか。それ以来、蘇明はアレーテが本当に存在するのか、何か別の目的があるのではないか、などと考えることをやめてしまった。
そんなくだらないことを考える余裕なんてなかった。
アレーテ姉さんを頼って、アレーテ姉さんの言うことを聞いていれば、それでよかった。
小さな町で、歳月は流れていった。
蘇明は年ごとに背が伸び、今ではすっかり見目のいい少年になったが、アレーテはほとんど何も変わらなかった。二人の絆はどんどん深まり、やがて蘇明がアレーテに向ける依存と友情は、おそらくもう、ただの依存や友情ではなくなっていた。
けれど、高校三年生の新学期が始まったその日、アレーテは姿を消した。
別れの言葉もなく、何の前触れもなく。
その前の晩、二人はまだ浮遊島の縁に並んで座り、夕日を眺めていた。
夕焼けのせいなのか、それとも別の理由なのか、その日のアレーテは少し頬が赤いように見えた。
「スーミンくんも、もう十八歳だね。もう立派に、一人前の男なんだ」
「えっ、アレーテ姉さん……僕、成人したばかりだよ」
「ごめんごめん、つい癖でね。わたしの故郷では、歴史に名を残した戦士の多くが、キミくらいの歳で名を上げたんだよ」
「そ、そうなんだ……えへへ」蘇明はぎこちなく笑った。息が少し速くなっている。
それから数分間、二人とも何も言わなかった。
……
何度も何度も心の準備をしたあと、小さいころから臆病で空想好きだった少年は、初めて大切なことのために勇気を振り絞った。
緊張で、身体が少し震えていた。
蘇明は消え入りそうなほど小さな声で、アレーテに言った。
「じゃあ、アレーテ姉さん……僕が姉さんの戦士になって、ずっとずっと姉さんを守ってもいいかな?」
「今の僕がまだ自立できてないのは分かってる……でも頑張るから。真剣に考えたんだ、大人として、姉さんに対してちゃんと責任を持つよ」
「え……」
ドクン。
これは……自分の心臓の音だろうか。こんな感覚、いったい何年ぶりだろう。
ドクン。
……
アレーテが蘇明のほうを振り向いた。
銀灰色の瞳はもう凪いではおらず、さざ波のように揺れている。蘇明はもう確かめる必要もなかった――アレーテの頬の赤みが、夕日のせいではないことを。
ずっとそばにいてくれた少女の息づかいが少し荒くなり、二人の距離が少しずつ、少しずつ縮まっていく。
二人の影が今にも重なり合おうとした、そのとき――
アレーテが人差し指を立てて、蘇明の唇にそっと当てた。
「まだダメだよ、スーミンくん」
蘇明は息を呑んだ。
「でも……そのうち、いいかもね」
!!!
「そ、それって、アレーテ姉さん……OKってこと?」
アレーテは慈しむような、そしてほんの少し別の感情も混じった眼差しで、まっすぐに蘇明を見つめた。
「うん、OKだよ」
「今はダメな理由は……うーん、なんて言えばいいかな。わたし、キミたちの世界の人間じゃないけど……」
言いかけたところで、アレーテは慌てて口を押さえた。
「……口が滑っちゃった。はあ、まあいいか、スーミンくんならとっくに気づいてたよね」
「じゃあ続けるね。わたしはキミたちの世界の人間じゃないけど、それでも知ってるの――唐土では、大学入試の高考がすごく大事だってこと」
「ロマンチックじゃないのは分かってるよ! でも、キミのためなんだから……」アレーテは顔を赤くしながらも、勇気を出して本音を打ち明けた。
「スーミンくん、もともと成績はあんまりよくないでしょ。高校入試のときだって、わたしと一緒に追い込みで勉強して、やっと合格できたんだから。わたしはキミに素敵な未来を手に入れてほしいの、途中で投げ出しちゃだめ」
「頭の中がわたしのことでいっぱいだったら、ちゃんと勉強なんてできないでしょ? しっかりしなさい!」アレーテは蘇明の頭をこつんと軽く叩いた。「うーん……じゃあ、約束しよう! キミが志望する一流大学に合格できたら、そのときはOKしてあげる!」
「それまでは、わたしへの気持ちをちょっとだけしまっておいてほしいの。わたしも一緒に遊びに出かける回数を減らすね……だいたい週に一回くらい! その代わり、勉強は全力で手伝ってあげる!」
やる気満々のアレーテを、蘇明はしばらくぽかんと見つめていたが、やがて大きくうなずいた。
さすがアレーテ姉さんだ、また僕を正しい道へ導いてくれた。
これこそ、健全な関係ってものだよな。
「分かったよ、アレーテ姉さん。僕を助けて、絶対に志望校に受かってみせる!」
「えらいね、スーミンくん」アレーテは満足そうにうなずいた。「でも、『千里の道も一歩から』。まずは一週目の実力テストに向けて、しっかり準備しよっか」
そこまで言って、アレーテはふと何かを思いついたようだった。ようやく白さを取り戻したばかりの頬にまたしても艶やかな紅が差し、銀灰色の瞳が、蘇明の視線から逃げるようにそらされる。
「もし……今度のテストで、平均点がもうちょっと上がったら……先に、少しだけご褒美をあげてもいいよ」
蘇明の口がぽかんと開き、次の瞬間、彼の顔も真っ赤になった。そのとき、アレーテの指先が蘇明の耳元をそっとかすめ、かすかな震えが走った。
「キミが今、想像したとおりのことだよ……」
……
未来への希望で胸をいっぱいにして、蘇明はアレーテに家まで送ってもらうと、すぐさま机に向かってペンを走らせた。自分の未来のため、そしてアレーテとの約束のために。
けれど翌日、アレーテは勉強を手伝いに来なかった。
何か急な用事でもあったのだろうと、蘇明は深く考えず、少し寂しい気持ちで一人勉強を続けた。
だが、そこから少しずつ、何かがおかしくなっていった。
一週間、二週間、一か月……
アレーテは、二度と姿を見せなかった。
その間、蘇明はアレーテに教わった方法で彼女を呼ぼうとしたが、丸一日アレーテの姿を思い描き続けても、あの少女は現れなかった。
時を同じくして、蘇明の心にも異変が起き始めた。
最初のうち、蘇明は毎日何もせず、ただぼうっとしていた。アレーテとの思い出を一つひとつたどり、彼女が戻ってくるところを何度も何度も想像した。
もともと中の下だった成績は真っ逆さまに落ちていった。担任に呼び出されて話をしても、蘇明は職員室の机の、領収書や写真を挟んだガラス板をじっと見つめるばかりで、何を考えているのか分からなかった。
やがて、蘇明の睡眠時間はどんどん長くなっていった。
最初は一日八時間、それが十時間、十二時間、十四時間……
ついに、眠っている時間が起きている時間を上回った。
高校三年を終えることもできないまま、両親は彼の休学手続きを済ませ、精神病院に入院させた。
そうして日々は過ぎ――ある日の午前、蘇明は精神病院で息を引き取った。
……
名も知れぬ異世界。
蘇明が目を覚ましたのを見て、アレーテの顔には抑えきれない感情があふれたが、その高ぶりの下には、何か別のものも隠れていた。
罪悪感、だろうか。
アレーテの身体は、半透明だった。
ここはとても薄暗く、光源といえば天井にまばらに生えている光る鉱石だけだ。それなのに蘇明には、アレーテの姿が細部まではっきりと見えた。
奇妙な感覚だった。まるでアレーテの姿が直接蘇明の脳に現れ、網膜に投影されているかのようだ。
アレーテは、まるで幽霊のようだった。
いや――
彼女は、幽霊そのものだった。
「アレ……」
名前を呼ぼうとしたが、喉からはかすれた咳しか出てこなかった。
アレーテが手をかざすと、空気中の水の元素が抽出され、澄んだ泉の水となって、蘇明のわずかに開いた口へと流れ込んだ。
「ごほっ、ごほっ……」
さらに二度咳き込んでから、蘇明はようやく声が出せるようになった。
「アレーテ、ここはどこなんだ。それに、どうして……」
「キミはもう死んだの。元の世界には、もう存在しない……」
アレーテは静かに言った。その声はかすかに震えていた。
「死因は――わたしが、キミの魂を抜き取ったから」
……
は?
聞きたいことが山ほどあった。アレーテに話したいことも、たくさん、たくさんあったのに、今は何ひとつ言葉にならなかった。
ぽたり。
ぽたり。
樹の洞の中は、恐ろしいほど静まり返っていた。
「なんで……」
やっとのことで口にできたのは、その一言だけだった。
二筋の涙が、音もなく蘇明の目からこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、スーミンくん……」
アレーテは全身の力を振り絞るようにして、小さな声で言った。「わたしはキミに、許されない罪を犯した……」
「今さら謝っても意味がないのは分かってる。それでも、本当に、本当にごめんなさい……」
アレーテは半歩下がって裂けた長衣の裾をつまむと、右手を胸に当て、蘇明に向かって深々と身をかがめた。
それは、優雅でとても古い礼法だった。
アレーテは長いあいだその姿勢のまま動かず、やがて、ようやく身体を起こした。
「今はきっと……すごく混乱してるよね、どうしたらいいか分からないよね。少しだけ、説明させてくれるかな……」
「わたしは、この世界――ミラタラ(Miratara)の戦女神」
「『秩序の刃』、『茨の恩寵』、『弱き者の師』」
アレーテは淡々とそれらの偉大な名を口にしたが、すぐに、優しく、おずおずと言い添えた。
「それから、いちばん大事なこと。わたしはずっと、キミのお姉さんで、キミの友達で、キミの……」
最後の呼び名を、アレーテは口にしなかった。
蘇明は、それほど驚いてはいなかった。アレーテが普通の人間でないことなど、とうの昔に分かっていたのだから。それでも彼は何も言わず、ただ黙って座ったまま、アレーテの説明の続きを待った。
アレーテも蘇明にいい顔をしてもらえるとは思っていなかったから、目を伏せ、うつむいたまま話を続けた。
「この世界は今、魔神と、その眷属による全面的な侵攻を受けているの。四年前のあの日、キミと別れてミラタラへ帰る途中で、わたしは奇襲を受けた」
アレーテは手を上げ、顔の傷痕にそっと触れた。
「この傷は、そのときにつけられたもの……」
「わたしを襲った魔族たちは、わたしをここに封印した。エルフの王国アルボリア(Arboria)の首都にある、聖樹の空洞の中に」
「わたしの眷属も、わたしが選んだ勇者たちも、みんなあの突然の戦争で死んでしまった」
「今キミが見ているわたしは、ただの魂の欠片。残されたわずかな力だけじゃ、この封印は破れない」
「だから……」
「だから、もう一つの世界にいた俺を殺して、魂をこの世界に移した。自分がここから抜け出すために」
蘇明がアレーテに代わってその事実を口にした。自分でも意外なほど、落ち着いた声だった。
今の蘇明は、少し解離しているのかもしれない。
「……ええ……」
アレーテは何ひとつ弁解しなかった。
「分かってる、これはキミの戦争じゃない。キミはわたしの……愛する弟で、大切な友達で、こんな残酷なことを背負わされるべきじゃなかった」
「でも……本当に、他に方法がなかったの。わたしと特別なつながりがあって、ここへ来られる可能性のある魂は、キミしかいなかった……」
アレーテはおそるおそる蘇明に近づき、ゆっくりと手を上げて、もう乾いてしまった涙をぬぐおうとした。
けれどその手は宙で止まり、結局、指先が蘇明の頬をそっとかすめただけだった。
「覚えてる? わたし、キミの魂は特別だって言ったよね……」アレーテは小さく言った。
「それはね、キミがわたしの見てきた中で、いちばん清らかで、いちばん純粋な魂だからなの。唐土の言葉で言うなら、キミは『赤子』――赤子のように無垢な心の持ち主。キミみたいな人だけが、わたしの法則の力を受け止められる」
「そして、最高の器でもあるの……」
「地球にいたころ、キミがどんどん眠るようになって、頭もぼんやりしていったのは、わたしがずっとキミの魂をこっちへ移していたから」
「キミの身に起きたことは、全部、わたしのせい」
……
怒り。
悔しさ。
馬鹿馬鹿しさ。
それから、ほんの少しの――安堵?
自分は狂っていなかった、アレーテは間違いなく、百パーセント本物だったんだ。
何を言えばいいのか分からないまま、蘇明は目を閉じ、ここまでに起きたすべてを頭の中で消化しようとした。アレーテもただ静かに、少し身をかがめたまま、そこに立っていた。
二人とも、何も言わなかった。
どれほど時間が経っただろう。アレーテはそっと目を上げて蘇明を盗み見ると、すぐにまた顔を伏せ、長いあいだ迷ってから、ようやく口を開いた。
「スーミンくん、わたしに条件を出す資格なんてないのは分かってる。でも、キミが封印を解いてくれさえすれば、必ずキミを唐土へ帰すと約束する。ミラタラで手に入れた力も、キミの好きに使っていい」
「誓うわ。わたしが自由になったら、この世界のためにそれ以上何かしてほしいなんて、一つも求めない。わが尊き父――神々の王の名誉にかけて」
蘇明は目を開けた。
「今すぐ俺を帰すことはできないのか?」
アレーテの呼吸が、一秒止まった。
「わ……わたしには、できないの」
少女の声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
「キミの魂をこっちへ移すだけで、三年の時間と膨大な力を使い果たしてしまった。もう、キミを送り返せるだけの力は残ってないの」
「はっ、つまり俺には選択肢がないってことか」蘇明は冷ややかに笑った。「あんたにもな」
「……ええ……」
「わたしを恨んでいい」アレーテの口調がどんどん早くなる。「どれだけ恨んでくれてもいい。殴っても、罵っても、それ以外の何をされても……覚悟はできてる。わたしは……」
アレーテは、言葉の続きを飲み込んだ。
「でもスーミンくん、今、わたしの運命も、わたしたちの世界の運命も、すべてキミにかかっているの」
「わたしには他に選べる道がなかった。わたしを育ててくれた故郷と、わたしを崇めてくれる人々のために、こうするしかなかったの。戦争はまだ終わっていないし、一刻も早く戦場に戻らなきゃいけない」
アレーテの銀灰色の瞳から涙が一粒こぼれ落ち、形をなくして消えた。
……
アレーテの頼みなど、聞くべきじゃない――蘇明はそう思った。たとえ自暴自棄になってでも、彼女の思いどおりにはさせない、それが彼女へのいちばんの罰になる。
自分がアレーテに裏切られ、利用されたことは、蘇明にもはっきりと分かっていた。
やはり、アレーテの贈り物には、とっくの昔にひそかに値札がつけられていたのだ……
けれど……
自分の人生は、まるごとアレーテに影響されてきた。十歳で彼女に出会ってから、蘇明の人生で覚えておく価値のある瞬間は、すべてこの身勝手な少女とつながっていて、アレーテを否定することは、ある意味で、蘇明自身を否定することでもあった。
……
「この身体は」蘇明がふと、静かに尋ねた。「あんたが作ってくれたのか? アレーテ……姉さん」
アレーテは呆然と顔を上げた。蘇明に「姉さん」と呼ばれた瞬間、その曇っていた銀灰色の瞳に、ほんの少しだけ光が戻った。
「……ええ。この身体は、わたしの記憶にあるキミの姿をもとに作り直したもので、もとは、ある英雄の亡骸だったの」
「英雄?」
「名前はケイル」アレーテは言った。「わずか十九歳の天才エルフのレンジャーで、この千年でアルボリアに現れた、最も才能ある弓使いの一人だった。戦争の初日、仲間が全員戦死したあとも、彼はたった一人で王国の西門を守り、魔族の先鋒を食い止めたの……」
「壮絶な最期だった、英雄の名に恥じない死に方だったわ」アレーテの目に、わずかな敬意がよぎった。
「わたしはケイルの遺体を引き取って、今日までずっと保存していた。そしてキミの魂がこの世界に来て、ようやく彼を作り直したの」
アレーテが軽く手を上げると、空中に光を映す水鏡が現れた。
鏡をのぞき込んだ蘇明の目に映ったのは、見覚えのある青年だった。
鏡の中の自分はエルフではなく、耳も尖っていない、端整な顔立ちをした唐土の青年だった。黒い髪に黒い瞳、健康的な体つきで無駄な肉は一切なく、身につけている灰色の麻の上下は、質素だが身体にぴったり合っていた。
今の蘇明の顔はすっきりとしていて、凛々しいとさえ言えるほどだった。これこそ蘇明が思い描いていた理想の十九歳の顔で、精神病院で見ていた、自分でも嫌でたまらなかった、むくんで青白い顔ではない。
鏡に向かって拳を握ると、久しく忘れていた、どこか見知らぬものにすら感じる力が腕の奥から湧き上がってきた――軽やかで、俊敏で、力強い。
蘇明は気づいた。自分の手には、たこが一つもない。十年以上も弓を握ってきたレンジャーなら、弓の弦でできた分厚いたこがあるはずなのに。
ケイルというレンジャーが存在していた証は、この作り直しによって、すべて跡形もなく消し去られていた。
この身体の作り直しは、単に死体に魂を入れるような簡単なものではないらしい。今はまだ少し弱っているものの違和感はまったくなく、まるで最初から、この身体が自分のものだったかのようだった。
アレーテがそのためにどれだけのものを払ったのか、蘇明には分からない。それでも、自分には想像もつかないほどの代償だったのだろうということだけは分かった。
鏡の中の自分を見つめながら、蘇明はアレーテに一つ尋ねた。
「なあ、こいつ、死ぬとき何を考えてたと思う?」
アレーテはわずかに目を見開いた。蘇明がそんなことを聞くとは思っていなかったらしい。
「あんた、神なんだろ」蘇明は言った。「こいつを作り直したとき、分かったんじゃないのか?」
アレーテは黙り込んだ。
二秒、三秒。
「わたしがケイルを見つけたとき、彼の未練はまだ完全には消えていなかった」アレーテは答えた。「彼は……家族のことを考えていた。西門の様子がおかしいから、ちょっと見てくるだけ、すぐに戻るって、家族に約束していたの……」
そうか、家族か。
もしここで自暴自棄になって、アレーテと一緒に死んでしまったら、自分の家族はどうなる?
父さん、母さん……
蘇明は覚悟を決めた。もう駄々をこねるのはやめだ、家族のためにも、自分は必ず帰らなくちゃいけない。
蘇明は腕で身体を支え、ふらつきながら立ち上がった。
「言えよ」蘇明は言った。「具体的に、俺は何をすればいい?」
アレーテは、聞き間違いではないかと確かめるように、信じられないという顔で蘇明を見つめた。
少しして、彼女の口元が、ようやく小さくほころんだ。
それは蘇明のよく知る笑顔だった。十歳のあの日、夕日の中で出会った、おせっかいな少女の笑顔。
「簡単なことよ」アレーテは答えた。「前にも言ったとおり、生き延びて、強くなって、わたしを封印した魔族を殺し、封印を解く」
「本当の戦いの前に、わたしがキミを鍛える。殺し方を教えてあげる」アレーテはそこで一度言葉を切った。その声には、久しぶりに誇らしげな響きが混じっていた。
「そういうことなら、わたし、すごく得意なんだから」
「わたしの法則は、苦痛と戦い」アレーテは蘇明の目をまっすぐに見つめた。「キミが苦痛を受ければ受けるほど、得られる力も大きくなる。それがわたしの神としての本質で、わたしがキミにあげられる、いちばん早く強くなる方法なの」
「だから……すごく、苦しいと思う」
そう言い終えたところで、アレーテはふと口をつぐんだ。
その顔から厳しさも真剣さも消え、彼女は深く息を吸い込むと、頬をほんのりと赤く染めた。
「でもね、スーミンくん……」
「怖がらなくていいの。苦難は恩寵、苦難は前へ進むための階段なんだから……」
アレーテがゆっくりと顔を寄せてくる。二人の距離はどんどん縮まり、今にも鼻先が触れ合いそうなほど近づいた。
蘇明は、魂の息づかいというものを感じた気がした。アレーテの吐息は温かく、少女らしい柔らかさを帯びていた。
かつて自分を救い、今また自分を深淵へと引きずり込んだこの少女に、どう向き合えばいいのか分からない。
本能的に後ずさろうとしたが、足を踏み出しかけたその瞬間、少女の手が蘇明の腰に回り、そっと引き戻した。
アレーテはつま先立ちになり――
口づけを捧げた。四年遅れの、口づけを。
触れて、すぐに離れる。
「ん……」
「わたしの友達、異世界から来た、わたしの英雄」
「せめて、キミの苦しみを少しだけ、わたしにも背負わせて」




