第四話 事件でもラッキー
翌日の朝、夜が明ける前、僕は池のある庭に出ていた。
日課の鍛錬を行おうと思ったからだ。
今、昼の時間はサタナリア教官の勉強でいっぱいになる。それで、早朝の時間を使うことにした。
フットワークとジャブ。
僕は圧倒的なパワーも、目にも止まらぬスピードも持っていない。
だから、フットワークとジャブを磨く。死なないために。
僕は庭から王宮を見上げる。ここに住んでいるということは、もう闘争から逃れられたのだろうか。
僕には答えがわからない。だから、今日も拳を振るった。
がさりと音がする。
まだ空の色が変わっただけで、日は上っていない。
僕は夜に慣れた目で音を探る。誰かが茂みの中で屈んで、紙に書き物をしている。
なんだろう?
僕はその人に近づいた。
その人は僕に気がついたようで、急いで立ち上がり、僕から遠ざかった。
「昨日の人?」
静かな庭の中、僕のつぶやきは、思ったより遠くまで届いて、王宮の壁に跳ね返った。
ーー早朝の第三使用人室
「見られたのか?」
「いえ、わかりません。ただ、昨夜の夕食時にメモを拾われ、先ほど建物の間取りを記しているところを目撃されました」
「それを見られたというのだ、馬鹿者。相手は拳闘士の男であったな、成り上がったばかりの」
「はい、その通りにございます」
「ならば、その者を亡き者にすれば万事解決であるな。幸い、その者はアントワネット姫と婚約している。婚約者がいなくなれば、アントワネット姫の婚儀も遅れる」
「さすれば、王弟ダイフォス様の反乱計画まで時間が稼げますな」
「声が高い。おいそれと御名を口にするな。ともかく、その拳闘士の口を封じるのだ。どんな手段を使ってもかまわぬ」
「仰せのままに」
ーー早朝の部屋の中、暗い笑いのみが響いた。
朝の鍛錬を終えた僕は、井戸の水を頭から浴びる。冷水が、ほてった体に気持ちよかった。
僕は枝切れを持ち、地面に文字を描く。
グレイ。僕の名前。僕のこと。
昨日これを教えてくれたサタナリア教官には感謝しかない。
今日会ったら、お礼を言おう。
僕は棒切れを置き、もう一度水を浴びようと、桶を手に取った。
「もし、そこの方、グレイ様ではありませんか?」
声が聞こえる。僕を呼んでいるのだろうか。様。なんて付けられたのは初めてだったので、戸惑う。でも、グレイは僕の名前だ。
「はい。グレイは僕です」
声をかけてきたのは男だった。さっき見た人だ。
「おお、やはりグレイ様。いや、朝から精が出ますな。私、感動してしまいます。今の王家には、あなたのような武人の活力が必要だと、私、改めて思わされました」
たくさんしゃべる人だ。でも、多分、僕のことを褒めている。
「運動後には果実の汁が何よりです。滋養がございます。さあ、どうぞ」
男はピカピカのガラスの瓶を差し出してきた。
その瓶はとても細かくてきれいな女の装飾がされたもので、触れれば崩れてしまいそうだった。
「いえ、僕は井戸の水を飲むのでいりません。親切にしてくれてありがとうございます」
僕は断る。あんな高そうな瓶、持ったら緊張で動けなくなる。
「まあ、そう言わずに、どうぞ一口」
男は僕に瓶を押し付けてくる。
危ないし、怖かった。
「いえ、本当にいりませんから」
僕は優しく押し返す。
「そう言わずに、一口だけですから」
男は僕に押し付ける。
そこまで言うのなら。あまり断るのも失礼かもしれない。
「わかりました。じゃあ……」
僕は力を抜いた。
男はさらに力を込めようとしていた。
男の体が僕にぶつかって、男の手から瓶が飛んでいった。
「あ」
僕はその放物線を見つめた。それは庭の池に落ちた。
良かった。水の上に落ちたなら、瓶は無事かもしれない。
僕は男の手を掴んだ。
「大丈夫です。瓶はきっと無事です」
男の体温が下がった気がした。
「キャー!」
女の声がする。
「魚が! 池の魚が!」
僕は池を見る。そこには、色とりどりの魚が、腹を上にして浮かび上がっていた。
その後、兵隊がやって来て、男を連れて行った。
僕は兵隊から、サタナリア教官の執務室に行くように言われる。
「入ります」
「うん。入りたまえよ」
サタナリア教官は、机の上にいくつかの紙を広げていた。
「ノックをまだ教えていなかったな。これからは、衛兵や使用人を連れずに部屋に入る時は、扉を三度叩き、中から、入って良いと言われたら、入るようにするように」
「はい。わかりました」
「それにしても、最後の決め手、物証を手に入れてくれて助かった。これで間諜の使用人たちを捕らえることができる」
「物証ってなんですか?」
「事件や企みの動かぬ証拠のことだ。よくやってくれた。このことは王にも報告する。おそらく、お褒めの言葉を賜ることになるだろう」
サタナリア教官は嬉しそうだった。他人が嬉しくなった時、自分も嬉しくなることを、僕は初めて知った。
ーーその部屋の扉の外。
ノックをせずに聞き耳を立てる男がいた。
男は絹でできた立派なシャツと上着、宝石付きのブローチでとめたタイを首に巻いていた。
男はお褒めの言葉と聞き、歯軋りした。




