第二話 わがまま姫
僕は屈強な二人の男に挟まれながら歩く。
床は赤い布がびっしりと敷き詰められていて、そこから長くて柔らかい毛がたくさん生えている。
薄いサンダルの隙間から入ってくるその毛は、妙にくすぐったかった。
しばらく進むと、一つの扉の前に誘導される。
扉が開くと、中から熱気を感じる。
いや、これは湯気?
中は灯火で照らされており、白いシャツと黒いスカートを着た若い女が二人待ち構えていた。
部屋の中には白い陶器の大きな器があり、湯が入れられている。
大きさは、人間が中に入れるほどだった。
何だろう? ここは?
「バスタブ……お湯に入りたまえ。残りはこの女官……女性二人が、君のことを洗ってくれる」
なるほど、それなら分かる。身体を洗うんだな。
僕はお湯に一度手をつけてから、足を前に出してお湯に入った。
女たちがキレイなブラシを持って迫ってくる。
僕は体をめちゃくちゃに擦られた。
お湯から出された僕は、サラサラのシャツと、すべすべの上着とズボン、襟元に布を巻かれて締められた。
黒い革の靴を履き、髪を撫でつけられ、僕の身体に液体が振りかけられ、何かの花の匂いがした。
そして、また屈強な二人の男に挟まれて歩く。
次の部屋には暖炉があり、長い布張りの椅子がたくさんあった。
すると、その椅子に座っていた金髪の女が、僕の方に早足で歩いてくる。
その女は闘技場の観覧席にいる女たちとよく似た格好をしていたが、もっとキレイだった。
「捕まえなさい!」
その声がかかると、二人の男が僕の左右の腕を持ち、それぞれの関節を固め、僕をまっすぐに立たせた。
女は拳を握り、僕に向かって振りかぶった。左右の腕を確認する。動けない。
女の拳を見る。握りが甘い。仕方ない。目は守ろう。
僕の頬に女の拳がぶつけられる。左右の頬に拳をぶつけるたびに、女が叫ぶ。
「どうして! 私が! あんたみたいな! 変なのと! 結婚しなきゃ! いけないのよ!」
十発ほど打つと、女は肩を上下させ、動きを止めた。
「何で言い返さないのよ」
あ、僕に言っているのか。
「何で殴ったんですか?」
女が僕をにらむ。
「あんたのことが気に食わないからよ!」
何も思い浮かばなかった。
「僕はあなたに何かしてしまいましたか?」
女が足を蹴り上げる素振りを見せる。僕は膝を締めて鼠径部を守る。
女の脛が僕の膝に激しくぶつかる。
たぶん、何かしてしまったんだろう。
「僕はあなたに何をしてしまったかわかりません。でも、怒っているなら、その理由を教えて下さい」
女は僕を指さした。
「なんで、私、アントワネット・プラソールが、あんたみたいな野良犬と結婚しなければいけないの! それに怒っているに決まっているでしょう!」
なるほど、確かに王様はそんな事を言っていた。じゃあ、この人、アントワネットさんがお姫様なのか。
「アントワネットさん。僕も結婚の話を聞いて驚いています。でも、王様の言うことは変わらないと、王様が言っていました。どうすればいいと思いますか?」
アントワネットさんは、黙ってそのまま拳を振り上げて、僕をまた二十回ほど打った。そして、肩を上下させる。
「離していいわ」
男二人は僕を離す。
「いいこと。あなたなんて、王族になれるわけないんだから。すぐにこの王宮から追放されるんだから、絶対よ!」
そう言うと、女、アントワネットさんは呼吸を荒くしたまま、部屋を出ていった。
その後、女官という女に服装のシワを直された僕は、大きな広間に連れて行かれた。そこには、たくさんのきれいな服を着た男や女がいた。
そんなことよりも。
この匂い、豚の脂の匂いだ。
僕は匂いのもとを探す。
テーブルがたくさんあって、いろいろな料理が見える。
その中に、いた。焼いた豚の肉が、豚の頭と一緒に飾られている。
僕が豚をじっと見ていると、手に布をかけた男の人が近づいてきた。
「召し上がられますか?」
「えっと……」
「あちらの料理、取ってまいりましょうか?」
「あ、はい。お願いします」
僕は豚の肉が乗った皿を手に入れた。
分厚い豚の肉が三枚ものっている。
手で掴んでも、ずっしりと重たい。
そしてかぶりつく……なんだろう。この味。食べたことがない。
そう、美味しい。
こんなに美味しい豚の肉があったなんて、知らなかった。
僕が豚の肉を三回おかわりしていると、ラッパが鳴って、王様とアントワネットさんが扉から出て来た。
「皆のもの、今宵はめでたい。大いに飲み、食べてくれ。我が娘、アントワネットの婿が決まった」
女官が僕に近づき、両手を布巾で素早く拭く。そして、男二人が僕をアントワネットさんの横に連れて行く。
王様は一つ咳をした。
「グレイという。拳闘の王者ゆえ、家名はまだないが、いずれプラソールの名を与えることとなる。皆、よろしく」
僕は周りを見る。色とりどりの男と女が、王様に頭を下げていた。それに、僕にも。
「さあ、挨拶は終わった。そうだ、アントワネット。グレイと一曲踊ってきなさい」
王様の声を聞き、アントワネットさんはにやりと笑った。
「付いてらっしゃい。私が教えてあげるわ」
アントワネットさんは、僕の手を取って少し前を歩く。そして、くるくると回り始めた。
うん、叩いてくる様子はない。
アントワネットさんは向かい合って、僕のもう一方の手を取る。その時、間合いが変わった。
僕は片足を引く。アントワネットさんが、かかとが尖った靴で僕の足を踏み抜こうとした。あれはさすがに痛そうだ。
アントワネットさんは、次々と足を踏みに来る。僕はそれをかわし続ける。
音楽が流れている。
僕は、アントワネットさんが足を踏むタイミングと、この音楽の拍子はよく似ているなと思った。
そんな時だった――アントワネットさんの靴のかかとが折れた。
アントワネットさんのバランスが崩れる。僕は腰を支え、抱きかかえる。
アントワネットさんの背が反った。
音楽は終わったようだった。
なぜか、僕たちに向かってみんなが拍手をしている。
「アントワネットさん、大丈夫ですか?」
アントワネットさんは立ち上がろうとするけれど、ふらついている。
「あの、どこか新しい靴があるところはありませんか?」
僕はアントワネットさんをひょいと横抱きに持ち上げた。アントワネットさんは、大人しくしてくれている。
「お召し替えでしたら、こちらへ」
女官たちが案内してくれる。僕は着替えの部屋の前まで、アントワネットさんを運んだ。
アントワネットさんを床に下ろすと、その肩がプルプルと震えていた。
僕の顔を殴りつけた。だんだんと殴り慣れてきたのだろうか、握りが固く正確になっている。
「アントワネットさん、今日は踊りを教えてくれてありがとうございました」
僕は頭を下げる。アントワネットさんは顔を赤くして、着替えの部屋に入っていった。
どうやら舞踏会は終わったみたいだ。女官に相談すると、僕をベッドのある部屋まで案内してくれた。そのベッドはフカフカで、とても暖かくて、僕は生まれて初めてぐっすり眠った。
朝が来る。柔軟運動をしてから、部屋の中でジャブの練習を繰り返す。
拳を伸ばすたびに、『金拳』フロイドのアゴを撃ち抜いた時の感触が蘇る。
僕は、倒したんだ。あのフロイドを。
あらためて実感が湧き起こった。
そうしていると、部屋の扉を叩く音が聞こえる。
何だろう?
叩く音は続いている。
僕は扉を開けることにした。
すると、背の低い女の人が立っていた。女の人の頭には、動物のようなフサフサした耳が生えている。
女の人は手に持った細い棒で顔を打ってきた。早い、棒はしなる、僕は咄嗟に腕の外側で受けた。
「ほう、まずは額にムチの跡を付けるのが教練の始まりであったのだがな。歴代の王とは違うようだ」
女の人はにやりと笑って腕を組み、僕を見上げながら見下した。




