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第一話 ラッキーパンチ

 僕は拳を見つめる。擦り切れて赤黒い布が拳ダコを覆っている。


 醜い手。


 だけど、これは僕の手だ。


 腹が鳴る。近頃は薄い麦粥しか食べてない。


 数年前食べた、豚肉の味が忘れられない。

 あの脂の味。もう一度、味わいたかった。

 僕の口の端から涎が垂れる。


 左手を素早く突き出す。

 それは小さな音を立て、地下室のろうそくを少しだけ揺らした。


 布の上に鉄のグローブを嵌め、ハチマキを巻く。腰には小さな巻き布。


 それが、拳闘士としての僕の全てだった。



 ――きらめく歓声。


 男からの憧れの声、女からの肉体を求める声。


 それらの中心に『金拳』のフロイドは立っていた。


 まるで王族のようなガウン。

 鋼の肉体。

 黄金のグローブ。


 フロイドは従者から鉄棒を受け取る。


 それを腕力だけでぐにゃりと曲げる。


 盛り上がる歓声。


 フロイドは既に自由民だ。いや、既に貴族である。


 フロイドは拳一つで勝利を積み重ね、自由と、金と、権力を手にした。


 国中の憧れ。


 腕力の象徴。


 そして今日、記念すべき百連勝のための戦いに臨む。


 相手は誰でも良かった。


 ――百という数字が重要であった。



 僕は乾いた土の闘技場の上に立つ。


 目の前には王者『金拳』フロイド。僕よりも二回りは身体が大きい。

 僕が勝つ見込みはない。いや、それよりも、殴り殺されるかもしれない。


 歓声が高まり、フロイドが駆け出してきた。


 僕は僕の拳を使う。

 十数年付き合ってくれた拳を振るう。


 簡単に弾かれるだろう。

 当たっても何も起きないかもしれない。


 でも、拳を振るった。


 その時、突進してくるフロイドが、足をすべらせた。


 これは今日のメインイベントだ。先に何度も拳闘があった。


 その証――拳闘士の折れた歯が落ちている。


 フロイドは、それを踏んだ。


 僕の拳は向かってくるフロイドの顎の先端に強く当たった。

 フロイドの眼球がぐるりと上を向く。


 ラッキーパンチ。


 僕はそのまま拳を振るい続けた。

 気づけば、黄金の身体は大の字に倒れていた。


 僕は、生き残った。



 片手を上げた僕が控室に帰ろうとすると、見たこともないほど白いシャツの上にツヤツヤの黒い上着を着た人が僕を引き止めた。


「あの、なんですか?」


 僕は口を開いた。言葉を喋ったのは、今日は初めてのことだった。


「国王陛下のお言葉がございます。どうぞこちらへ」


 言われるがまま、闘技場の中央に戻った。


「静粛に! アレクセイ・プラホール陛下の王言!」


 白いシャツの人に頭を押さえつけられた。


 眼前の土に歯と爪と血が混じっていた。


「面を上げよ」


 僕は髪を引かれ、顔を上げさせられる。


「そなたの戦い、実に見事であった。名を何と申す」


「……グレイ」


「グレイか。淡白な名よな。まあ良い、布告のことは知っておるか?」


「いえ、知りません」


「そうか、此度の戦い、『金拳』フロイドの百連勝がかかっておった」


 王は伸びた髭をしごいた。


「フロイドの百勝を記念し、この戦いに勝利したものに、姫を授けることになっておる」


「はあ、そうなんですね」


 呼ばれた理由がわからない。


「余は布告を翻さぬ。王言は絶対である。よって」


「布告通り、グレイよ。この戦いに勝利したそなたに、姫、アントワネットを授ける」


「はあ」


 観客たちがざわめいている。悲鳴も聞こえる。「あの絶世の美姫アントワネット様があのようなケモノに」「ああ、アントワネット様は天使であらせられるのに、おいたわしや」「我らが王国の安寧はどうなってしまうのか」


 ちょっとむずかしい言葉が多いな。僕は首をふる。押さえつけていた人の手も離れた。


「あの、帰ってもいいですか?」


 僕は僕の部屋に帰ろうと歩き出す。


「いえ、あなたは今日からこちらに来ていただきます」


 足先がもう片方の門に向けられた。ちょうどフロイドが入ってきた門だ。


 僕は、僕の運命が切り替わったように感じた。

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