第十四話 悪魔退治
その巨大な牛のようなもの。悪魔のようなものは、牛のような角を持ち、城壁に迫ろうというほどの体高があった。
その圧倒的な暴力性が、まるで嵐となって周囲に撒き散らされているようだった。
それはそのまま死を予感させる。
城壁から見下ろす兵士たちは、その恐怖の前に一歩も動くことができない。
牛の悪魔がこちらに向かって駆け出してきた。
悪魔の轟く蹄の音は、地獄へ下る滝の音を思わせた。
そして、衝突。
悪魔の牛が城壁にぶつかる。
地響きが起き、城壁がぐらりと揺れる。
その音と地響きは、死の恐怖を、城壁の上だけでなく、町中のものに与えた。
皆一歩も動けない。
僕もそうだ。けど、今は!
死の恐怖なら、拳闘士時代に何度も味わった。
死はどこか遠くのことではなく、恐ろしい隣人だった。
僕は両膝に力を込めて立ち上がる。
牛の悪魔は後ろに下がり、距離を取った。
そしてまた、城壁にぶつかった。
城壁がぐらりと揺れる。
これは良くない。
「カミス!」
僕はカミスを呼んだ。そして、念のため用意しておいた紙片を、その足の筒に入れた。
「カミス。頼んだ!」
僕はカミスを飛び立たせる。カミスはシナイ河の上流に向けて、飛んで行った。
さて、悪魔の牛だ。
今、あの恐怖に耐え、動くことができる人間は、僕しかいない。
このままだと、いつか城壁が破られ、あの悪魔の牛が町の中に入ってしまう。
そうすれば、どれだけの死が起きるかわからない。
死は怖い。死は嫌だ。
僕は決断する。
作戦実行までの時間を、僕が稼ぐ。
僕は城壁に戻る。
城壁の石積みは、心なしかズレてきているように感じた。
僕は縄ばしごを城壁の外に垂らし、それを素早く降りる。
そして、再び距離を取った牛の悪魔を睨みつける。
「さあ来い! 僕が相手だ!」
僕に恐怖が叩きつけられる。
僕は拳闘士時代の最後の戦い。
『金拳』フロイドとの戦いを思い出した。
悪魔の牛は、僕を見た。
そして、僕に向かって駆け出す。
僕は城壁から少し離れる。
牛が僕に向かって駆けている。
筋肉と関節の動きに注目する。
死が眼前に迫ってくる。
悪魔の牛の全身を視界で捕らえることができない。
僕は悪魔の牛の前脚の筋肉と関節の動きを見る。
もし、悪魔の牛が生物とは違う構造だったら、僕は死ぬだろう。
だけど、僕の勝ち筋はそこしか無かった。
前脚の筋肉と関節が張るタイミングを見る。今だ!
僕は跳んで避ける。
僕がいた場所を、悪魔の角が通り過ぎる。
死の恐怖が僕の背中を撫でる。
いける。
僕は思った。
かつて、子供の頃、虎の前に立たされた時と同じだ。
その時、僕は爪で重傷を負ったが、他の子供が食べられたおかげで、死なずに済んだ。
今度は誰も死なせない。
僕は、通り過ぎた後、再び僕の方を振り向いた悪魔の牛を見つめる。
嫌だ。死にたくない。
今更ながら、僕の体が逃走を意識する。
僕はそれを叱咤する。
逃げれば死ぬ。
それを体に叩き込む。
そして、再び迫った悪魔の角を、僕は寸での所でかわした。
日が少しずつ傾く。
僕の体から汗が流れる。
僕の体から血が滴っている。
悪魔の角が僅かにかすめた時のものだ。
皮一枚の回避。
それを続けていた。
さすがに疲労がひどい。集中力が揺らぐ。
だが、僕はカミスと教官を信じた。
もう何回になるだろう。
悪魔の角をかわした時、悪魔とは違う地響きを感じた。
繋がった。
教官が動いてくれた。
僕は悪魔の角を、再びギリギリでかわす。
地響きは、地平線に波となって見えた。
僕は疲労した体で城壁の縄ばしごに捕まり、登る。
牛の悪魔は僕がいなくなったため、再び距離を取り、城壁への体当たりのための助走を始めた。
よし!
僕の確信と共に、悪魔の牛に大量の水と、土砂と、岩と、木が叩きつけられる。
土石流。
僕と教官の二つ目の作戦。ダムの決壊。
土石流は城壁に沿って流れ、牛の悪魔はそれに抵抗して四つ足で踏ん張っていたが、大きな岩がぶつかり、昏倒した。
悪魔の恐怖が一時止む。
「プレスナさん! バリスタで悪魔を!」
土石流の勢いの中、悪魔は横転している。今は動いていない。
プレスナさんは、城壁に備え付けられた巨大なバリスタを巻き上げさせ、槍のように巨大な矢を放つ。
鉄を打つような巨大な音が鳴り響いた。
倒れた牛の悪魔の体にバリスタの矢が刺さる。
「プレスナさん! もっと矢を!」
僕は縄ばしごに掴まったまま、叫ぶ。
再び、バリスタが巻き上げられ、矢が放たれ、牛の悪魔に刺さる。
土石流の勢いが弱くなり、牛の悪魔は立ちあがろうとする。
けれども、刺さったバリスタの矢のためか、動きが鈍い。
「撃ちなさい!」
プレスナさんの声が響く。
バリスタの矢が牛の悪魔に突き刺さる。
牛の悪魔の巨体が倒れ込む。
すると、牛の悪魔は黒く光り、黒い霧となって消えてしまった。
後には、土石流の跡と、バリスタの矢が三本残っていた。
僕は戦後処理をプレスナさんに任せて、王弟ダイフォスの将軍である、『静謐』ヤタルスを呼び出した。
「先の戦いで指揮をとっていたのはあなたか?」
ヤタルスは謁見の間ですぐさま声を出した。
「そうです。それが何か?」
「いや、儂の用兵を破ったのがあなたのような若者とは、悔しさと、ある種の喜びを感じているところです」
「喜び、ですか?」
「英雄の誕生に、喜ばぬものはいないでしょう。同じナルタール王国の人間なのですから」
「あなたは国王陛下に反逆したのではありませんか?」
「それも国を憂いてのことです。グレイ様、あなたの力量を疑っていたのです。ですが、それは杞憂でした。あれほどの勝利をもたらしたのですから」
「僕の評価は後にしてください。それよりも、牛の悪魔について何かご存じありませんか?」
「カーン王国は、悪魔を呼び出します。巻物によってです。魔王から与えられ、魔王の魔力によって作られると聞きます。しかし、悪魔は敵味方を区別しません。よって戦場では、撤退した時にしか、使えんでしょうな」
「なるほど、教えてくださって、ありがとうございます」
「ところで、先ほど地響きがしておりました。その質問があったということは、悪魔が現れたのでしょうか」
「はい。倒すのに苦労しました」
「あの悪魔を倒されたと。これは、私の認識を改めねばなりませんな。あなたは英雄かつ天賦の才もお持ちのようだ」
「あまり持ち上げないでください。僕はただの拳闘士くずれです。それよりも」
僕は椅子に座り直す。
「カーン王国は撤退しました。再び軍事的野心を持って、ナルタール王国に攻め入ると思いますか?」
「その可能性は十分にありましょうな。今回は儂が仕えていた王弟閣下の反乱に呼応して兵が来ましたが、カーン王国は強兵。今撤退したのであれば、遠からず攻め入ってくるでしょう」
「ありがとうございます」
僕は教官の授業を思い出す。国を守る第一の手段は、国を富ませ、強い兵を持つこと。僕はその言葉を噛み締める。
「ところで、ヤタルス将軍、僕の仲間になってくれませんか。国王陛下には、僕から助命の嘆願を出します」
「儂のような反逆者に、なぜそこまでおっしゃるのか」
「悪魔から人を守りたいからです」
僕は望みを口にした。少しだけ、身が震えた。




