第017話 日本国 厚生労働省職員 VS 冒険者ギルド ジャポン皇国支部支部長
■ジャポン皇国 皇都オワリ 天守閣 大会議室
■ハヤシ・イクサイ 視点
「なぜ、俺がわざわざ城まで出向かねばならんのだ……」
皇都オワリの天守閣へと続く長い廊下を歩きながら、冒険者ギルド・ジャポン皇国支部長たるハヤシ・イクサイは、忌々しげに舌打ちをした。
先日、オイニ様の側近から「三日後、ニホン国の役人と天守閣でギルド設置に関する会談を設ける」という通達を受けた。本来であれば、ギルドの長たる自分の執務室へ相手を招き入れるのが筋というものだ。だが、相手は今、皇国において絶大な影響力を持つ未知の強国「ニホン」の使者。皇室が直々に場を設けたというのであれば、足を運ばないわけにはいかない。
(ニホン国……。果たして、すんなりと我々の支部設置を認めるだろうか)
ハヤシは元Sランク冒険者特有の、分厚い胸板と鋭い眼光を持つ大男である。かつては己の剣一本でドラゴンを叩き斬り、数多の死線を潜り抜けてきた。
彼にとって、冒険者ギルドとは単なる組織ではない。国境を越えて存在する「世界最大の互助組織」であり、実質的な「超法規的軍事力」である。DランクからSランクまで、大陸全土に数万人を擁する戦闘集団。彼らが結束すれば、いかなる列強国といえどもおいそれと手出しはできない。
それに、ギルドは社会のセーフティネットでもあるのだ。
文字の読み書きすらできない平民、スラムの孤児、あるいはワケありの荒くれ者たち。国家が見捨てるような彼らに「魔物討伐」や「下水道掃除」といった仕事を与え、食い扶持を稼がせ、治安の維持に貢献している。力さえあれば這い上がれる、最高に平等で誇り高き組織。
それが冒険者ギルドだ。いかなる国であろうと、この組織の有用性を否定できるはずがない。
「……失礼する」
ハヤシが重厚な扉を開けて大会議室へ足を踏み入れると、そこにはすでに面々が揃っていた。
長い豪奢なテーブルの片側には、ジャポン皇国の女皇オイニ様。そしてなぜか、ダージリン王国のアールグレイ王女と、都市国家のジェンダー行政長までが同席していた。
(お美しいが芯の強そうなアールグレイ様に、守銭奴と名高いジェンダー様、そして我らがじゃじゃ馬のオイニ様か。相変わらずこの三人は仲が良いな……だが、なぜ他国のトップまで同席している?)
ハヤシがいぶかしみながら視線を反対側へ向けると、そこには、大陸や皇国では絶対に見られない『奇妙な民族衣装』を隙なく着こなした二人の男が座っていた。
彼らが、ニホンの役人。
ハヤシは促されるまま、オイニたちの並びの席へと腰を下ろした。
「はじめまして。私は冒険者ギルド・ジャポン皇国支部長を務めている、ギルドマスターのハヤシ・イクサイだ」
堂々たる名乗りに、対面の二人は立ち上がり、極めて洗練された動作で深々と頭を下げた。
「はじめまして、ハヤシ様。私は日本国外務省で、コアラ大陸およびジャポン皇国全般の外交を担当しております、特命全権大使の九条と申します」
「同じくはじめまして。私は日本国 厚生労働省、異世界担当課・課長の坂田刃と申します。冒険者ギルドの設立認可および労働環境全般に関しましては、今回、私が担当させていただきます。よろしくお願いいたします」
(ほう……)
ハヤシは目を細めた。
礼儀正しい。この世界の貴族や役人特有の、平民を見下すような傲慢さが微塵もない。
ニホン国は、一部の都市国家のように平民が中心となって政治を行う国家だと報告書で読んだことがある。なるほど、常識的で話の通じる相手のようだ。これならば、ギルドの有用性を説けば、支部設置の許可などすぐに下りるだろう。
「ご多忙の中、時間を作っていただき感謝する」
ハヤシは自信に満ちた笑みを浮かべ、腕を組んだ。
「さっそくだが、ニホン国に対する冒険者ギルド支部の設置を要請したい。我々ギルドがニホンに置かれれば、貴国にとっても絶大な利益となる。我々には優秀な冒険者が多数在籍しており、金さえ払えば、貴国の安全保障や厄介事の解決に大いに貢献できるはずだ」
九条が黙って頷き、隣の坂田が手元のノートパソコン(彼ら特有の魔法の板)を開いた。
銀縁眼鏡の奥で、坂田の鋭い知性の光が冷たく瞬く。
「ご提案ありがとうございます、ハヤシ様。我が国への支部設立要請につきまして、具体的な審査に入る前に……いくつか、貴組織の『業務形態』について確認させていただきたい事項がございます」
「かまわんぞ。何でも聞いてくれ」
坂田はキーボードを静かに叩きながら、極めて事務的なトーンで問いを放った。
「オイニ陛下や、皇都の住民の方々からヒアリングした内容の確認となります。
冒険者ギルドという組織は、
一、市民や国家からの依頼をギルドが受注し、所属する冒険者がその依頼書を受諾することで業務契約が成立する。
二、成功すれば報酬が支払われ、失敗すれば冒険者に罰金(違約金)が科せられる。
三、登録されている冒険者は、基本的に住所不定・身元不明であっても構わない。
四、Dランクのような下位の冒険者には、下水溝の掃除など、身元不詳の者にインフラ作業を委託している。
五、そして……業務中の負傷や死亡に対し、組織としての補償(労災等)は一切存在しない。
……以上の認識で、相違ございませんでしょうか?」
ハヤシは鼻で笑った。
何を当たり前のことを聞くのだ。この男は、冒険者という生き物を何も分かっていない。
「サカタ殿。冒険者ギルドはな、読み書きができない無学な者でも、仕事と居場所を提供してやるための組織だ。権力者の圧力にも屈せず、仕事を果たせば身分に関係なくキッチリと報酬を支払う。身元が不詳であっても、ギルドが腕っぷしを保証してやっているのだから依頼主も安心というわけだ」
ハヤシは胸を張り、言葉に熱を込めた。
「もし素行の悪い冒険者が犯罪を犯せば、ギルドから抹消され、全支部に情報が回る。だから治安維持にもなる。Dランクの素人が下水溝掃除から始めるのは当然の下積みだ。そこで実績を積んで、才能があればランクを上げ、名を上げる! 才能がなければのたれ死ぬ! それが冒険者という自由な生き物だ!」
力こそが全て。自己責任こそが最高の自由。
ハヤシの熱弁に、オイニやジェンダーも「ギルドとはそういうものじゃ」「荒っぽいが、頼りになる連中や」と同意するように頷いている。
ハヤシはニヤリと笑い、勝利を確信して結論づけた。
「つまり、冒険者ギルドが冒険者の全てを保証し、管理しているのだ。何の問題もない。これで、貴国に冒険者ギルドを設置する許可をいただけるな?」
だが。
日本の厚生労働省・担当課長である坂田の表情は、一ミリたりとも動かなかった。
感動するでもなく、感心するでもなく、ただ「致命的な不備を見つけた監査官」特有の、底冷えするような冷徹な眼差しでハヤシを見つめ返した。
「ハヤシ様。大変申し訳ありませんが――」
坂田は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、感情の消え失せた声で宣告した。
「今のお話を伺う限り……貴組織を、我が国に設立することは、『100%不可能』です」
「…………は?」
ハヤシの顔から、余裕の笑みがポロリと剥げ落ちた。
「……100%不可能、だと?」
ハヤシ・イクサイは、自らの耳を疑った。
かつてSランク冒険者として巨大な飛竜と対峙した時すら、これほどの戸惑いを感じたことはない。彼は太い腕でテーブルをバンと叩き、身を乗り出した。
「どういうことだ、サカタ殿! 冒険者ギルドは国に圧力をかけるような野蛮な集団ではない。相互扶助の組織だ。世界に数万人を擁し、必要とあらばSランクのドラゴンスレイヤーから、C~Aランクの優秀な護衛まで、金次第でいかようにも貴国へ派遣できるのだぞ! なぜそれが不可能だと言うのだ!」
ハヤシの剣幕にも、厚生労働省の坂田課長は顔色一つ変えなかった。
彼は手元のノートパソコンのキーをターンッ、と一つ叩き、極めて冷静な、そして底冷えするような官僚のトーンで口を開いた。
「ハヤシ様。まず、前提となる誤解から解かせていただきます」
坂田は銀縁眼鏡の奥で、冷徹な光を放った。
「我が国・日本には、ドラゴンも魔族もおりません。したがってドラゴンスレイヤーは不要です。また、移動時のボディーガードに関しても、我が国には専門の訓練を受けた公的な警察組織や、国家資格を持つ民間の警備会社が数千社存在しております。身元不明な『武装したフリーランス』に護衛を依頼することなど、到底あり得ません」
「な……っ」
「その上で申し上げます。貴方の言う『冒険者ギルド』は、我が国の定義に当てはめると、冒険者などではなく、労働者派遣事業、および職業紹介事業を行う『人材派遣会社(斡旋業者)』に該当します。もし、この業態のまま日本国内へ支部(支店)を設立しようとした場合、『四つの致命的な法令違反』により、申請は即座に却下されます」
ハヤシが言葉を失う中、坂田による現代法の『無慈悲なフルコース(連続攻撃)』が始まった。
「第一に、『労働基準法と派遣法』の壁です」
坂田が指を一本立てる。
「我が国で人材派遣業を営むには、派遣元責任者の講習受講と、最低二千万円の資産要件が必要です。現在、日本政府と大陸三カ国との暫定取り決めにより『1ゴールド=1000円』の固定レートが敷かれています。つまり、ギルド設立のための供託金として、最低でも『二万ゴールド』の現金を無担保で用意し、法人登記を行う必要があります」
「に、二万ゴールドだと!?」
ハヤシが息を呑んだ。ギルド本部ならいざ知らず、一介の新規支部が用意するには莫大すぎる初期費用だ。
「さらに」坂田は容赦なく言葉を継ぐ。
「貴方は『身元不詳の者に下水道掃除などをさせる』と言いましたが、身元保証のない日雇い労働を斡旋するのは労働法違反です。また、危険な魔物討伐やダンジョン探索を無資格者に斡旋すれば『安全配慮義務違反』に問われます。もし冒険者が依頼中に死亡した場合、ギルドには一切の労災補償や保険がないのでしょう? そんな死を前提としたブラック企業は、労働基準監督署が一発で業務停止命令を下し、代表である貴方は逮捕されます。……ちなみに、十代の若い冒険者もいると聞きますが、日本では中学生以下(満15歳到達後の最初の3月31日まで)の労働は児童労働として法律で固く禁じられております」
「じ、児童労働の禁止……っ? だが、才能ある若者は幼い頃から現場で育てるのが普通だ! スラムの孤児たちはどうやって食っていけばいい!」
「我が国には児童福祉法と生活保護のセーフティネットがあります。子供に魔物と戦わせて日銭を稼がせるような野蛮な真似は、国家が許しません」
坂田はピシャリと言い切り、二本目の指を立てた。
「第二に、『銃刀法と公安条例』の壁です。
冒険者たちは、普段から剣や槍、斧といった武器を持ち歩いていますね? 我が国では『銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)』により、正当な理由なく刃物を街中で持ち歩くことは一発で現行犯逮捕です。
さらに言えば、『国家に属さない、数万人の武器を持った武装集団』が日本国内に拠点を持った場合。彼らは警察庁・公安部から、暴力団やテロ組織と同等か、それ以上の『最高警戒レベルの監視対象』に指定されます。ギルドに荒くれ者が集まった初日に、重武装した特殊急襲部隊(SAT)が突入し、全員が連行されるでしょう」
「テ、テロ組織だと!? 我々は市民を助ける誇り高き……っ」
「第三に、『外来生物法と環境衛生』の壁です」
坂田はハヤシの反論を完全に無視し、三本目の指を立てた。
「冒険者が魔物を討伐し、その素材や死体を日本に持ち込もうとした場合。未知のウイルスや生態系崩壊のリスクがあるため、植物防疫法や家畜伝染病予防法により、検疫で100%焼却処分されます。
仮にギルド内に解体所を設けるなら、『と畜場法』や保健所の認可が必要です。さらに、買い取れずに余った魔物の肉や骨を捨てる場合、それは一般ゴミではなく『産業廃棄物』となり、莫大な処理費用がかかることになります」
「ま、魔物の死体が……産業廃棄物……?」
ハヤシの脳が、かつてない情報量に悲鳴を上げ始めていた。
だが、役人のマジレスはまだ終わらない。四本目の指が、ハヤシの残されたわずかなプライドを完全に粉砕する。
「最後に、これが一番厄介ですが……『税務と金融』の壁です」
坂田は眼鏡をクイッと押し上げた。
「ギルドの報酬として、日本国内で異世界の『金貨』や『銀貨』を使うことは『通貨の単位及び貨幣の製造等に関する法律』で禁じられています。ギルド内で独自の換金所を設けるなら、銀行法や資金決済法の厳しい規制を受けます。
何より……冒険者が『魔石』や『モンスターの皮』などで現物支給の報酬を受けた場合、それをどのように日本円に換算し、『所得税(確定申告)』を税務署に申告するおつもりですか? ギルドが受け取る仲介手数料の消費税と法人税の処理は? 領収書のない金銭のやり取りは、国税局の徹底的な査察の対象となりますが、ギルドに完璧な複式簿記をこなせる公認会計士はおられますか?」
「しょ、所得税……? かくてい、しんこく……? ふくしき……」
ハヤシの顔面から、全ての血の気が失せていた。
かつてSランク冒険者として名を馳せた屈強な肉体が、ガタガタと震え、額からは滝のような脂汗が流れ落ちている。
ニホン国。
ドラゴンもいない。魔法もない。魔王軍の脅威もない。
だが、この国には『法』という名の、決して斬り伏せることのできない不可視の巨大な怪物が棲んでいるのだ。
剣も魔法も通用しない。Sランクの腕力も、数万の武装集団の威圧も、この『手続き』と『認可』という理不尽な暴力を前には、赤子のように無力であった。
「……ハヤシ様」
完全に沈黙し、白目を剥きかけているギルド長に対し、坂田は無慈悲なトドメを刺した。
「我が国の識字率は99%以上であり、労働者の大半が専門的な知識を持っています。字の読めない荒くれ者を、身元保証もなく、社会保険にも入れず、武器を持たせたまま日雇いで危険業務に斡旋する。……そのような反社会的かつ違法なブラック組織の設立を、日本政府が許可すると思いますか?」
ハヤシ・イクサイは、口をパクパクと動かしたまま、完全にフリーズ(機能停止)した。
「え……あ、えと……。あははは……」
かつて、単騎で古竜の首を撥ねたほどの男の口から、乾いた、ひどく間の抜けた笑い声が漏れた。
ハヤシ・イクサイは茫然自失となり、完全に機能停止していた。
頭が真っ白になる、という表現があるが、今の彼はまさにそれだった。
児童労働の禁止。銃刀法違反。安全配慮義務。確定申告。法人税。産業廃棄物処理。
ニホンの役人であるサカタの口から機関銃のように撃ち出された「ホウリツ」なる呪文の数々は、ハヤシの理解の範疇をはるかに超えていた。
だが、言葉の意味は分からずとも、それが『絶対に越えられない鉄壁の盾』であり、同時にギルドの存在意義そのものを根本から否定する『不可視の凶刃』であることだけは、本能がはっきりと理解していた。
(識字率、99%……? 馬鹿な……!)
平民の識字率など、この皇国でも二割程度だ。字が読めず、計算ができないからこそ、貴族は平民を安い賃金でこき使う。だからこそ、腕っぷし一つで平等に稼げる『冒険者ギルド』が彼らの受け皿となり得たのだ。
だが、ニホンという国では、国民のほぼ全員が文字を読み、専門的な知識を持ち、国家が定めた強固なルールの下で徹底的に保護・管理されているという。
身元不明のならず者が、剣をぶら下げてふらりと立ち寄り、血生臭い仕事をもらって日銭を稼ぐ。そんなアウトローの互助組織など、あの異常なまでに管理された法治国家に入り込む隙間は、一ミリたりとも存在しなかった。
ハヤシは滝のような冷や汗を流しながら、助けを求めるように隣のオイニ様へと目線を向けた。
「……はぁ。こうなるじゃろうと思うておったのじゃ」
ジャポン皇国の若き女皇オイニは、呆れたような、しかしどこか哀れむような眼差しでハヤシを見つめ返し、深くため息をついた。彼女は日本のインフラや技術に触れる中で、彼らの異常なまでの『管理体制』と『規則』の厳格さを、肌感覚としてすでに理解していたのだ。
「サカタ殿」
オイニは助け舟を出すように、厚生労働省の役人に向かって口を開いた。
「ニホンにおける冒険者ギルド設置のハードルが、天を突くほど高いことはよく分かったのじゃ。じゃが、さすがにハヤシが可哀想じゃ。彼らの組織にも長年の誇りと実績がある。……何か、ニホンの『カイシャ』とやらを創るための説明書のような書物はないのかの?」
女皇直々の懇願。
しかし、坂田は眼鏡の奥の冷徹な光を微塵も揺らがせることなく、淡々と答えた。
「いじめているわけではございません、オイニ陛下。我が国で事業を営むのであれば、守るべき当然のルールを申し上げたまでです。むしろ、あまりにも短絡的で無計画な事業構想であったため、逆に斡旋ギルドの現在の経営状況や、帳簿の管理が100%適法に行われているのかすら気になってしまうほどです」
「ぐっ……」
ハヤシは呻き声を上げた。
自分は誇り高き元Sランク冒険者だぞ。数万の荒くれ者を束ねるギルドの長だぞ。
それなのに、目の前に座る、剣も握ったことがなさそうなヒョロリとした小役人の言葉に、何一つ言い返すことができない。圧倒的な『社会システム』の差という暴力を前に、これほどまでに己が無力に感じたことはなかった。
「……ですが、オイニ陛下のおっしゃることも理解できます」
坂田はふと表情を和らげ、隣に座る外交官の九条と視線を交わした。
「取り急ぎ、我が国で人材派遣会社を設立するために必要な『会社法』『労働基準法』『労働者派遣法』、ならびに『法人税法』と『確定申告の基礎』に関する手引書を、こちらの異世界語に翻訳させたものをご用意いたしましょう。……書類の分量としては、おおよそ辞書数冊分になるかと思いますが」
辞書数冊分。
その言葉の響きに、ハヤシは眩暈を覚えた。剣の素振りなら一日に一万回でもできるが、辞書数冊分の小難しい法律用語を読むなど、拷問に等しい。
「翻訳と製本に少々お時間をいただきます。ハヤシ様、2週間ほどお待ちいただけますか?」
「あ、ああ……。よろしく、頼む……」
ハヤシは、絞り出すような声で答えるのが精一杯だった。
「取り合えずじゃ」
オイニがパンッと手を叩き、この地獄のような会談を強制的に終わらせにかかった。
「ハヤシには、ニホンから届く説明書とやらをしっかりと読み込み、理解させた上で、改めて話し合いの場を設けるということでよいじゃろうか?」
「ええ、それで構いません」
坂田はノートパソコンをパタンと閉じ、アタッシュケースに手際よくしまいながら、完璧な営業スマイルを浮かべた。
「私どもも、本日はあくまで口頭でのヒアリングに基づく対応であって、決して貴組織を門前払いするつもりはございません。ハヤシ様が我が国の労働法制を正しくご理解いただき、資本金二万ゴールド(二千万円)と、完璧な事業計画書、および各種申請書類を揃えて改めて要請していただければ、厳正なる審査の上で対応させていただきます。……よろしくお願いいたしますね? ハヤシ様」
「あ、ああ……」
ハヤシは虚ろな目で頷いた。
その表情には、もはや野心も、Sランク冒険者としての覇気も残っていなかった。
◆ ◆ ◆
数日後。
冒険者ギルド・ジャポン皇国支部のギルド長室に、台車に乗せられた『山のような書類の束』が、ニホン国大使館から届けられた。
「会社設立のイロハ」「よくわかる労働基準法」「誰でもできる確定申告と複式簿記」といったタイトルが異世界語で印字された、うず高く積まれた分厚い紙の塔。
ハヤシは執務机に座ったまま、その書類の山を絶望的な眼差しで見上げていた。
パラパラと一番上の書類をめくってみたものの、そこに書かれている『法定三帳簿』『三六協定』『源泉徴収』といった単語の意味が、一つとして頭に入ってこない。
「……無理だ」
ポツリと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「こんなもの……ドラゴンを三頭同時に相手にする方が、まだマシだ……っ!!」
ギルド長室に、歴戦の勇士の悲痛な叫びが空しく響き渡った。
剣と魔法の世界の象徴であり、圧倒的な武力と自由を誇った互助組織『冒険者ギルド』。
彼らの日本進出という野望は、銃弾を一発も撃ち込まれることなく、ただ強固な「労働法制」と「書類審査」という現代国家のペーパーワークの壁に激突し、跡形もなく粉砕されたのである。
記念すべき『第一回・冒険者ギルド日本支部設置交渉』は、日本の完全なる理論武装の前に、完膚なきまでの失敗に終わったのだった。
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