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冬川

その年の冬は、例年にない厳しさであった。


十一月が終わるか終わらないかの頃から、既に霜が降り始め、十二月に入ると水溜りは朝ごとに厚い氷を張った。私の住むこの辺りは、元来が寒暖の差の激しい土地柄であるが、それにしてもこれほどの冷え込みは久しく経験したことがなかった。


雨禽が来てから、既に一月が過ぎていた。彼女は相変わらずこの家に留まり、私の炊事や洗濯を黙々とこなしている。私はと言えば、毎日のように煙草を燻らせ、何の生産もない日々を送り続けている。例のSからはその後、何の便りもない。手紙を出そうかと考えたこともあったが、結局そのままにしている。


不思議なことには、この一月の間に、私は殆ど一度も筆を執らなかった。画を描くどころか、画のことを考えることさえ稀になった。それはまるで、私の中の創作への渇望が、この女の到来と共に何処かへ行ってしまったかのようであった。代わりに私の心を占めたのは、途方もない虚無感と、それに伴う一種の安堵である。何も考えず、何も作り出さず、ただ日々を消費してゆく。そのことへの罪悪感は、次第に麻痺して行った。


十二月の或る日、私は久しぶりに散歩に出た。


朝の冷え込みは殊の外厳しく、息を吐けば白い煙が立ち昇る。私は厚い羽織を重ね、古びた防寒帽を被り、杖を突いて表へ出た。雨禽は「お気をつけて」とだけ言って、私を見送った。彼女もまた寒さに震えるような様子で、その細い肩に一枚のショールを引っ掛けていた。


私は表通りを避け、裏手の雑木林を抜けて、川の方へと向かった。その川は、町の外れを流れる小さな川で、地図にも載らぬほどの無名の水流である。しかし私はこの川が昔から好きだった。妻もまたこの川を好み、春には土手に咲く菜の花を摘み、夏には水の冷たさに足を浸けて喜んだものだ。


川辺に立つと、その眺めは私の予想を超えて荒涼としていた。


川面は凍っていた。全面が厚い氷に覆われ、ところどころに亀裂が入り、その隙間から黒い水が覗いている。両岸の土手は霜で白く固まり、葦や蒲の枯れた茎が、氷の上に折れ曲がって倒れている。遠くの山並みは、これまでにないほどの深い藍色を帯び、その稜線には雪がうっすらと積もっているようであった。


風はない。しかし寒さは骨の髄まで沁み透る。私は杖を氷の上で軽く突いてみた。堅い音がして、氷は少しも割れなかった。その厚さは、おそらく数寸を超えているであろう。


私は暫くそこに立って、冬の川を見つめていた。動くものは何もない。水の流れる音もなければ、鳥の鳴く声もない。ただ氷の張り詰めた静寂が、辺り一面を支配している。その静けさは美しいというよりも、むしろ恐ろしかった。何故ならそれは、全ての生命の営みを拒絶するような、絶対的な沈黙だからである。


ふと、私は少年時代のことを思い出した。


私は信州の田舎で育った。冬になれば、家の前を流れる川もこのように凍り付き、子供たちは氷の上で遊んだものだ。私もその一人で、竹で作った簡単なそりを引きずり、氷の上を滑っては転び、転んでは笑った。あの頃の冬は、これほど寂しいものではなかった。確かに寒かったが、その寒さの中にも何かしらの温もりがあったように思う。


それは、父母が健在だったからであろう。母は毎朝早く起きて、囲炉裏に火を熾し、私を起こしてくれた。父はと言えば、仕事から帰ると必ず私の頭を撫で、面白い話を聞かせてくれた。あの頃の私は、この世が永遠に続くものだと信じていた。冬は過ぎれば春が来る。それで全てが良くなる。そんな単純な信念が、確かにそこにはあった。


それが今ではどうだ。両親は既にこの世にいない。妻もいない。子供もいない。この広い世界の中で、私に関わる者は誰一人として存在しない。ただ一人、訳ありの女が、勝手に私の家に住み着いているだけである。


私はその「雨禽」という女について、この一月で何を知っただろうか。殆ど何も知らなかった。彼女は毎日黙々と家事をこなし、時折私の酒の相手をすることもあるが、自分の過去については一切語らない。私が尋ねれば、「思い出せません」と答えるばかりである。それが本当なのか、それとも何かを隠しているのか、私には判断がつかなかった。


しかし一つだけ、気づいたことがある。彼女は決して、私の妻が使っていた座敷の隅にある仏壇に近づかないのである。あの仏壇には妻の写真と位牌が安置されており、私は毎朝手を合わせている。雨禽はその前を通る時、必ずと言って良いほど道を避ける。それは偶然か、それとも何か理由があってのことか。


私は川辺を離れ、更に上流へと歩き始めた。


土手の道は凍って硬く、足元が滑りやすい。杖をつきながら、ゆっくりと進む。右手には凍った川が続き、左手には枯れ果てた桑畑が広がっている。夏の間は青々と茂っていた葉も、今はもう一枚もなく、黒い幹だけが寒空に向かって突き出していた。


暫く歩くと、古びた橋が見えて来た。木造の粗末な橋で、欄干の一部は朽ちて落ちている。その橋の袂に、私は奇妙なものを見つけた。


小さな鳥の死骸である。


それは雀か何かであろう。黒く乾いた小さな塊が、霜柱の間で横たわっている。どうやら凍え死んだものと見え、その姿は余りにも痛々しかった。私は杖の先でそれをそっと突いてみたが、既に完全に硬直しており、少しも動かなかった。


その瞬間、雨禽の言葉が頭をよぎった。「雨の中をさまよう、行き場のない鳥」――彼女は自分をそう例えた。この小さな雀もまた、行き場を失って、この寒さの中で命を落としたのである。私はその共通点に、暗い連想を覚えずにはいられなかった。


私は死骸をそのままにして、橋を渡った。橋の向こう側は、もう町ではなく、一面の荒野である。夏は草が生い茂り、子供たちが虫を捕まえに来る場所だが、今はただの茶色い原野が広がっているだけだ。その先には、鬱蒼とした杉林が見える。林の中は昼なお暗く、足を踏み入れる者はいない。


私はそこで引き返すことにした。


帰路もまた、同じ道を辿る。凍った川、枯れた桑畑、朽ちた橋。全ての景色が、行きと変わらず寂しい。しかし何故か、帰りの足取りは行きよりも重かった。寒さのせいばかりではない。あの雀の死骸が、何か知らぬ予感を私の心に植え付けたのである。


家に着いたのは、正午を少し回った頃であった。


玄関を開けると、中から出汁の良い匂いがして来た。雨禽が何か煮ているらしい。私は下駄を脱ぎ、冷えた手を擦り合わせながら居間へ上がった。炬燵はまだ出していないが、彼女が炭火を熾してくれたらしく、室内は幾分か暖かい。


「お帰りなさいませ」と雨禽が台所から顔を出した。「大分冷えましたでしょう」


「ああ、川を見てきた」


「川でございますか」


「凍っていた。全面が氷で覆われていたよ」


私は羽織を脱ぎ、炭火の前に坐った。雨禽が温かい茶を差し出し、私の前に置いた。湯気が立ち昇り、その香りが鼻腔をくすぐる。


「川には、何かございましたか」


雨禽が尋ねた。その口調はいつものように穏やかで、しかしどこか探るような響きを含んでいた。


「雀の死骸があった。凍え死んだのだろう」


「そうでございますか……」


彼女はそれだけ言って、暫く黙った。その横顔には、何かを考え込むような陰りが差していた。


「お前さんは、寒さは平気か」と私は訊いた。


「私は……寒さには慣れております」


「どうして」


「長い間、寒い場所にいたものですから」


「長い間?」


私は言葉を繰り返した。彼女はそれに答えず、代わりにこう言った。


「もう暫くすれば、昼餉の支度が出来ます。それまで、どうぞごゆっくりお休みください」


そう言って彼女は台所へ戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、私はまた彼女の正体について考え込んだ。長い間、寒い場所にいた。それはどういう意味であろうか。北国の出身ということであろうか。それとも、比喩的な意味での「寒い場所」、すなわち孤独や貧困の中で暮らしてきたということであろうか。


私は炭火に手を翳しながら、その疑問を反芻した。


昼餉は、豆腐の味噌汁と、沢庵の漬物、それに昨夜の残りの焼き魚であった。質素な食事であるが、雨禽の手際の良さで毎日飽きることがない。私は黙々と飯を食い、彼女はその向かいに坐って、殆ど何も口にしなかった。彼女は相変わらず、私が食事をしている時には自分は食べないのである。以前にも増して痩せたように見えるのは、そのためであろうか。


「お前さんも、少しは食べたらどうだ」と私は言った。


「私は結構でございます」


「そんなに食べないと、体を壊すぞ」


「大丈夫でございます」


彼女の答えはいつも同じだった。私はそれ以上追及せず、食後の煙草に火を点けた。煙草の煙は、炭火の上の湯気と混ざり合い、やがて天井へ昇って行った。


午後は、さらに冷え込んだ。


障子の外は灰色の空が低く垂れ込め、時折、粉雪のようなものがちらついている。それが積もる様子はないが、寒さは一層厳しくなった。私は炬燵を出すことにし、雨禽と二人で古い炬燵を押入れから引っ張り出した。布団は少々古びてはいるが、綿はまだしっかりと残っている。


「これで少しは暖かくなろう」と私は言った。


「ありがたく存じます」


雨禽はその炬燵の縁に坐り、私が入るのを待っていた。私が足を入れると、彼女も遠慮がちに自分の足を入れた。その細い足が、私の足に触れた時、私ははっとして身を引いた。彼女もまた、同じように引いた。その瞬間、二人の間に微かな気まずさが走った。


しかし間もなく、お互いに相手の足の存在を無視するように、静かに座り直した。炬燵の中の温もりは、思った以上に心地良く、私の冷え切った体にじわじわと沁み渡って行く。


「私はね」と私は唐突に話し始めた。「昔、この川で妻とよく散歩をしたものだ」


「そうでございましたか」


「彼女は川が好きだった。夏には水の流れる音を聞くと言って、何時間でもそこに坐っていた」


「良い方でございましたね」


「ああ。良い妻だった。私は彼女に、何一つ良いことをしてやれなかったけれど」


私の言葉に、雨禽は何も答えなかった。ただ静かに、炬燵の中の温もりを楽しんでいるかのように、目を伏せていた。その横顔は、先ほど川辺で見た凍った景色のように、美しく、しかしどこか触れがたいものであった。


「お前さんは、川は好きか」


「私は……分かりません」


「分からない?」


「ええ。好きか嫌いか、それを判断する記憶が、私にはありませんから」


私はその答えに、暗澹たる思いを抱いた。記憶がないということは、好きも嫌いもないということであろうか。それとも、記憶があるからこそ好き嫌いが生まれるということであろうか。いずれにせよ、それは私の想像を絶する空虚な状態である。


「思い出せないのは、辛くないか」と私は尋ねた。


「辛いこともございます。しかし、忘れているお陰で、辛くないこともございます」


「どういう意味だ」


「例えば」と彼女は言った。「誰かを憎むという感情も、忘れてしまえば消えてなくなります。それは一種の救いかもしれません」


その言葉の裏に、何か深い悲しみが隠されているように感じられた。彼女は誰かを憎んでいたのか。それとも、誰かに憎まれていたのか。私はそれを知る由もなかったが、彼女の口調には、長い歳月を経た後の諦観のようなものが滲んでいた。


その日は、終日寒さに耐えるだけで暮れてしまった。


夜になり、私はまた酒を飲んだ。徳利はもう空に近く、私はそれを飲み干すと、何故か無性にこの川をもう一度見たくなった。真夜中に一人で外へ出るのは無謀であると分かりながらも、その衝動を抑えられなかった。


私はこっそりと起き上がり、厚い羽織を重ね、杖を持って玄関へ向かった。雨禽は客間で静かに寝ているらしく、物音一つしない。


外に出ると、粉雪は止んでいたが、空には星一つ見えない。真っ暗な中を、私は手探りで川へ向かった。道は凍って滑りやすく、何度も転びそうになったが、何とか川辺に辿り着いた。


夜の川は、昼間よりもさらに恐ろしい姿を現していた。


氷は鈍い光を反射し、その表面は鏡のように滑らかである。遠くの山の影すら映らないほどの暗闇の中で、その氷だけがぼんやりと浮かび上がって見える。私は川岸に立ち、その光景を暫く眺めた。


すると、突然である。


川の中央で、氷が割れる音がした。


ごう、という低い音が闇に響き、続いて鈍い水の音が聞こえた。私は驚いて後退った。氷の割れる音は、まるでこの世の終わりを告げるかのように不気味で、私の鼓動を激しく打った。


私はその場を離れ、早足で家へ戻った。家に着くまで、心臓は高鳴り続けていた。玄関を開け、中へ入ると、そこには雨禽が立っていた。彼女は寝間着の上に羽織を重ね、私を待っていたのである。


「お出かけになったのですか」と彼女は静かに言った。


「ああ、少しだけ」


「お怪我はありませんか」


「大丈夫だ」


私は彼女に背を向けて、奥の間へ入ろうとした。しかしその時、彼女が私の後ろで呟いた。


「川の氷は、もう割れましたか」


私は振り返った。彼女の顔は暗がりでよく見えなかったが、その声には確信のような響きが含まれていた。


「なぜ、それを知っている」


私が尋ねると、彼女は少し間を置いて答えた。


「私も、その音を聞きました。この家の中でも、はっきりと」


「そんな筈はない。この家から川までは、相当な距離がある。真夜中の静けさとは言え、あのような微かな音が聞こえるものか」


「微かな音……そうでしょうか。私には、大きな音に聞こえましたが」


私は彼女の言葉の真意を測りかねて、その場に立ち尽くした。雨禽はそれ以上何も言わず、自分の部屋へ戻って行った。


私は座敷に入り、布団を敷いて横になった。しかしなかなか寝付けなかった。氷の割れる音が、まだ耳の奥でこだましている。それと同時に、雨禽のあの言葉が頭から離れなかった。


「川の氷は、もう割れましたか」


彼女はなぜ、あのように確信を持って言ったのか。まるで、その瞬間を待っていたかのように。


私は天井を見上げながら、冬の川の冷たさを思い浮かべた。あの厚い氷の下を、水は今も静かに流れている。見えないけれど、確かに流れている。


その水の流れのように、この女の背後にも、何か見えないものが流れているのではないか。


私はその考えを振り払うように、布団の中で身を翻した。そして、いつしか眠りに落ちていた。


翌朝、窓の外は一面の銀世界であった。昨夜の粉雪が、思いのほか積もったらしい。私は起きて障子を開けると、まばゆいばかりの白光が目に飛び込んだ。


しかしその美しさとは裏腹に、私は暗い予感に襲われていた。冬はまだ始まったばかりである。これから、さらに寒さは増すであろう。川の氷は、また張り直すかもしれない。しかし一度割れた氷は、元のように完全には戻らない。


その不完全さが、何故か私の胸に重くのしかかった。


雨禽は今日も、台所で黙々と炊事をしている。その背中を見ながら、私は思った。この冬が終わる時、一体何が私を待っているのだろうかと。

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