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雨禽

翌朝、私が目を覚ました時、雨が降っていた。


昨夜のうちに強くなった風はすでに去り、代わりにしとしとと降り続ける冷たい雨が、この世のすべての音を吸い取ってしまったかのようである。障子を透かして見える空は一面の鉛色で、それが低く低く圧し掛かって来る。何時が昼で何時が夜か、その境界すら曖昧になるほどの、陰鬱な日であった。


私は敷きっぱなしの蒲団の中で、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。頭が重い。昨夜の酒の残りが、まだ体の隅々に澱のように溜まっているらしい。起き上がろうとして上半身を起こしかけたが、そのまままた諦めて蒲団の上に突っ伏した。


その時、台所の方で微かに物音がした。


私ははっとして息を呑んだ。この家には私以外に誰も住んでいないはずである。しかし確かに、かさこそと何かを動かす音が聞こえる。それは鼠の足音とも、雨垂れの落ちる音とも違う、紛れもなく人間の動作に伴う物音であった。


昨夜のことを思い出した。あの女である。暗闇の中から現れた、あの黒い着物を着た、痩せぎすの女が、確かにこの家に上がり込んだのであった。私はその後どうしたか。酒を飲み交わし、何を話したか。記憶が曖昧である。女がいつ帰ったのか、それともまだ留まっているのか、そのことすらはっきり覚えていない。


私は這うようにして蒲団から抜け出し、粗布の単衣を引っ掛けて、廊下へ出た。足音を忍ばせて台所の方へ近づくと、障子の隙間から微かな灯りが漏れている。私はその隙間から中を覗き込んだ。


そこには、昨夜の女が立っていた。


彼女は私の古びた釜を洗い、米を研いでいる。その手つきは慣れたもので、この台所の隅々まで熟知しているかの如く、迷いがなかった。顔を上げると、ちょうど私と目が合った。彼女は少し驚いたように眉を動かしたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。


「お目覚めになりましたか」


「……あなたは、まだ居たのですか」


「お邪魔でしたでしょうか」


「いや、そういう意味では……しかし、どうして」


私が言葉に詰まっていると、彼女は手を休めずに言った。


「朝になりましても雨が酷うございましたので、まことに勝手ながら、少しばかり休ませていただきました。すぐにでも立ち去るつもりだったのですが、あまりに冷え込みますので、少しだけ暖を取らせてくださいまし」


その声は昨夜と同じくか細く、しかしどこか芯のある響きを含んでいた。私はそれ以上何も言えず、ただ台所の入口に突っ立ったまま、彼女の動作を見つめていた。彼女は黙々と米を研ぎ、釜を火にかけ、味噌を溶き、私が知らぬ間に買い溜めてあった野菜を刻んでいる。


「あなたは、料理ができるのですか」


「少しばかり」


「誰に教わったのです」


その問いに、彼女は少しの間黙った。そして包丁を置き、はっきりとした口調で言った。


「母に。もうずいぶん昔のことですが」


私はその「母」という言葉に、何か言い知れぬ寂しさを感じた。彼女の口調には、遠い過去を懐かしむ響きではなく、むしろ失われたものに対する諦念が込められていたからである。


私はその場を離れ、居間へ戻った。障子を明け放すと、雨は依然として絶え間なく降り続けている。庭の植え込みはすっかり葉を落とし、黒い枝だけが雨に濡れて鈍く光っている。奥の隅に、かつて妻が大事に育てていた山茶花がある。今はもう誰の手入れも受けず、しかしそれでも毎年、赤い花を咲かせるのであった。その年はまだ蕾も見えない。


私は煙草を燻らせた。紫煙は湿った空気に溶けて、輪郭もなく消え去る。煙草の味は殊の外苦く、舌の上に嫌な後味を残した。


暫くして、女が膳を運んで来た。味噌汁と漬物、それに昨夜の残りの飯を温め直したもの。それだけの質素な食事であるが、湯気の立つその様子は、この陰鬱な朝に妙に温かく感じられた。


「いただきます」


私は手を合わせて箸を取った。味噌汁を一口啜ると、それが思いのほか美味で、私は思わず二口、三口と続けて飲んでしまった。女はその様子を、少し離れた場所に坐って、静かに見守っている。


「あなたは食べないのですか」


「私は、頂かなくとも大丈夫でございます」


「なぜだ」


「あまり空腹ではございませんので」


私は怪訝に思ったが、無理に勧めるのも野暮であろうと、一人で食事を続けた。飯を平らげ、味噌汁も飲み干した時、ふと気づいた。この女は、昨夜から一切何も口にしていないではないか。酒は飲んだ。しかし菓子には手をつけず、今も膳を前にして何も食べようとしない。


「あなたは、人間では……」


そう言いかけて、私は口を噤んだ。そんな馬鹿なことがあるはずがない。彼女は紛れもなく現実の存在であり、私の目の前に坐っている。その着物の裾には昨夜の泥が付着し、指先は冷え切って赤くなっている。すべては余りにも現実的であった。


私は膳を片付けようとして立ち上がったが、彼女がそれを制した。


「私が致します」


そう言って彼女は膳を運び出し、台所で静かに洗い物を始めた。私はその後ろ姿を、何とはなしに見つめていた。細い肩。襟元から覗く白いうなじ。その姿は、何かを強く思い出させるようで、しかしそれが何なのか、どうしても思い出せなかった。


雨は一日中、降りやまなかった。


私は居間で絵の具箱を広げてみたが、やはり筆を執る気にはなれず、ただぼんやりと障子の外を眺め続けた。女はと言えば、私に干渉することもなく、勝手に家中を掃き清め、埃を払い、使い古しの布で障子の桟を拭いている。それがまた、まるで自分の家であるかのように、何の遠慮もなく、しかし同時に何の押し付けがましさもなく、淡々と行われた。


午後になって、私はとうとう痺れを切らして訊ねた。


「あなたは、一体何者です」


女は手に持った雑巾を置き、こちらを向いた。


「それを、お尋ねになりますか」


「尋ねるのが当然だろう。見知らぬ女が突然現れて、台所を使い、米を炊き、掃除までする。わけの分からない者を、そう易々と置いておくわけには行かない」


私の語気が少し強かったので、彼女は傷ついたように眉をひそめた。しかしその表情は一瞬で消え、再びあの無感情な、しかしどこか悲しげな微笑みに戻った。


「おっしゃる通りでございます。私は名乗るべきでありましょう」


彼女はそう言って、風呂敷包みの中から一通の手紙を取り出した。それは薄い鳥の子紙で包まれており、表面には達筆な男性の字で宛名が認めてあった。その宛名は、私の名前であった。


「これを、どうぞ」


私は手紙を受け取り、封を切った。中には便箋一枚が入っており、そこには旧友のSからの短い文言が認められていた。


「この女を、暫く預かってはもらえまいか。彼女には訳ありの事情がある。詳しくは後日話す。何かと迷惑をかけるだろうが、何卒よろしく頼む」


それだけである。日付も場所も書かれていない。Sの癖のある文字は確かに本人のものであった。


私は手紙を読み終え、顔を上げた。女は静かに坐ったまま、私の次の言葉を待っている。


「Sの知り合いなのですか」


「ええ、まあ、そういうことになります」


「訳ありの事情とは」


「それは……お話しできません」


彼女の返事ははっきりしていた。私は少し腹が立ったが、Sの頼みとあらば無碍にもできない。Sは学生時代からの親友で、今は東京で何やら難しい仕事をしているらしい。彼がわざわざ手紙をよこしてまで頼むのだから、よほどの事情があるに違いない。


「では、あなたのお名前は」


「私には、いくつかの名前がございます」


「いくつも?」


「はい。生まれた時の名前、嫁いだ時の名前、そして……今の名前」


「今の名前というのは」


「私自身が自分に付けた名前でございます。それは……雨禽と申します」


「うきん?」


私は聞き返した。女は静かに肯いた。


「雨の鳥と書きます。雨の中をさまよう、行き場のない鳥という意味でございます」


私はその名前に、何とも言えぬ哀調を感じた。彼女は自らを「行き場のない鳥」と称したのである。それはすなわち、この世に安住の地を持たないという告白にほかならない。


「あなたは、どこから来たのです」


「遠いところから」


「それは昨日も聞いた。具体的に、どこだ」


女はしばらく沈黙した。雨の音だけが、室内に満ちている。やがて彼女は小声で言った。


「……私、それを思い出せないのです」


「思い出せない?」


「はい。気がつきますと、私は見知らぬ町を歩いておりました。自分の名前さえ、はっきりとは覚えておりません。ただ、幾つかの断片だけが、脳裏に浮かんでは消えるのでございます」


その言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。記憶を失った女。それは新聞の紙面で読むような話である。まさか自分の家で、そんな人物を預かることになるとは、思いもよらなかった。


「医者には?」


「診ていただく金が、ございません」


私はため息をついた。Sめ、なんと面倒なことを押し付けてくれたものだ。しかしながら、この女を今ここから追い出すことも、どうしてもできなかった。雨は依然として激しく降り続き、彼女には帰る場所もないというのである。仮にそれが嘘だとしても、あの哀れな様子を見ると、無下に断る気にはなれなかった。


「取りあえず」と私は言った。「雨が止むまでは、ここにいなさい。ただし、勝手なことはするな。私は画を描く者だ。静かな環境が必要なのだ」


「ありがとう存じます」


女は深々と頭を下げた。その仕草は、まるで古い時代の人間のように、優雅で、しかしどこか機械的であった。


その日は、それからもずっと雨だった。


私は何をするでもなく、ぼんやりと座敷に坐り、煙草を燻らせては雨音を聞き、また煙草を揉み消す。女はと言えば、隅の方を掃除したり、物置を整理したり、庭の枯れ枝を拾い集めたりして、小さな音を立てていた。


夕方になって、空が少し明るくなったかと思うと、雨足がやや弱まった。私は傘を差して庭へ出た。足元の土はすっかり水を含み、踏むとぐちゃぐちゃと音がする。物置の軒先で、一羽の小鳥が雨を避けていた。雀のようであるが、羽根は濡れて丸くなり、哀れな姿であった。


私は何気なく手を伸ばしたが、雀は驚いて飛び立ち、雨の中へ消えた。その瞬間、私はなぜか大きな喪失感に襲われた。あの小さな命が、この広い世界のどこへ行くのか、それを思うと胸が締め付けられるようであった。


私は物置から戻り、座敷でまた煙草を燻らせた。女が茶を運んで来た。湯気の立つ煎茶の香りが、ひときわ強く感じられた。


「お前さんは」と私は訊いた。「どうして雨禽と名乗るのだ」


「私が覚えている最初の記憶が、雨の中で鳥を追いかける自分だったからでございます」


「鳥を追いかける?」


「ええ。どの鳥であったかは、思い出せません。ただ、それが大事なもののように思えて、夢中で追いかけたのでございます。結局、捕まえられませんでしたが」


彼女はそう言って、茶碗を両手で包み込むように持った。その指は細く、関節が少し赤くなっている。冷え性であろうか、それともこの家には未だ暖房の設備がなく、彼女がずっと寒さに耐えていたからであろうか。


「私は夢をよく見る」と私は言った。「あなたのように、何かを追いかける夢だ。しかしそれが何かは、目が覚めるとすぐに忘れてしまう」


「同じですね」


女はほのかに笑った。その笑顔は、雨雲の隙間から覗く月の光のように、儚く、しかし確かにそこにあった。


その夜も、女はこの家に留まった。私は客間を掃除し、そこに古い蒲団を敷いた。女はそれに礼を言って、早々に引き取った。


私は一人、座敷で酒を飲んだ。昨夜と同じ徳利の残りである。猪口に注いで一口含むと、その味は昨日よりもさらに寂しく感じられた。雨はまだ止まない。降り続くその音が、この世に自分一人だけが取り残されたような錯覚を呼び起こす。


何故Sはこの女を私に預けたのか。彼女の「訳ありの事情」とは何か。記憶を失ったと称するその言葉は真実か。いや、それよりも、私は何故この女を受け入れたのか。


その問いに答えを出そうとする前に、私はまた眠りに落ちていた。灯りを消し忘れた蝋燭の火が、ぽつりぽつりと燃え続け、やがて自然に消えるまで、私の寝顔を照らしていたのである。


外では、雨禽が濡れた羽根を震わせているかのように、雨が絶え間なく降り続いていた。

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