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暮色

それは十月の末のことである。夕暮れが早くなったと誰言うともなく言い合われる頃、私はいつものように縁側に坐って、何のあてもなく西の空を眺めていた。


裏手の雑木林はすでに葉を落とし、黒い骨組みのような枝ぶりを夕焼けの光にさらしている。あの枝の間を縫うようにして、ひっきりなしに烏が帰って行く。一羽、二羽と数え始めても、どこまで行っても尽きない。そのうちに三羽、四羽と数が増すと、ただ闇の塊が空を流れているようにしか見えなくなる。私は烏の列に飽きて、今度はより遠くの山なみへと目を移した。


山はもう墨を溶かしたような色である。その上に、まだ明るさを留めた部分が帯のように横たわっている。それは紫色とも言えず、また鳶色とも言い兼ねる、曖昧な色合いであった。


私はその帯の色が、刻一刻と沈んで行くのを見つめていた。最初のうちは帯の幅も広く、その周囲に広がる灰色の空との境もはっきりしていたのであるが、次第にその境界が曖昧になり、いつの間にか空も山も区別のつかない、一つながりの暗がりに呑み込まれてしまう。その過程が、これまでに何度経験したか知れない景色でありながら、その晩はなぜか新鮮な悲しみを伴って私の胸に沁みた。


秋の深まりと共に、人は何か取り返しのつかないものの後を追うような気持ちになるものだと、誰かが言っていた。それを私はその時、しみじみと実感した。


私は四十を越えてもう久しい。表向きはそれなりの生活を営み、人に迷惑をかけるでもなく、かといって誰かの役に立つでもなく、ただぼんやりと日を送っている。何の取り柄もなく、何の誇りもない男である。妻は五年前にこの世を去り、子供もない。私はたった一人でこの古い家に住み、時折大学時代の友人が遊びに来る以外は、ほとんど誰とも口を利かずに過ごしている。


職業はと言えば、一応は画を描く者ということになっている。けれどもこの一年ほどは、筆を持つこともなく、ただただ途方に暮れるように日々を重ねている。画壇の仲間からは「どうした、新しい仕事はないのか」と訊かれるが、そのたびに私は「少しばかり休んでいるのです」と答えるのみである。本当はもう筆を執る気力も、何かを描きたいという衝動も、すっかり萎えてしまっている。そのことを認めるのが怖くて、私は曖昧な笑顔を浮かべては誤魔化し続けている。


その日も、私は一日中座敷でごろごろしていた。朝刊を広げたまま、結局一文字も読まずに時を過ごし、昼飯は適当に冷や飯をかき込んだ。午後になって少し眠くなり、障子を閉めてうつらうつらした。目が覚めると、もうあたりは薄暗くなっていたのである。


私は起き上がり、戸棚から酒の徳利を取り出した。それは先月、友人のSが持って来たもので、半分ほど残っている。酌をする相手もないので、猪口に直接注いで、ちびちびとやった。酒は私の喉を焼き、胸のあたりに熱い塊を作った。しかしそれは決して不快なものではなく、むしろこの虚無感に形を与えてくれるようで、私はそれに甘んじていた。


縁側に出たのは、その酒の勢いもあったろう。


秋の暮れは早い。先ほどまで見えていた雑木林の輪郭も、今ではもう影の塊と化している。遠くの方で犬の吠える声がした。それも間もなく途切れて、あとはただ風の音だけが残った。その風は乾いていて、頬に当たると冷たいよりもむしろ痛い。私は襟を立てて、もう一口酒を飲んだ。


この家を買ったのは、妻がまだ生きていた頃である。彼女はこの古びた日本家屋をひどく気に入り、「冬は少し寒いけれど、夏は涼しくて良いわね」と笑っていた。思い出せば、彼女はいつも笑っていた。怒ることもあったろう。嘆くこともあったろう。しかし私の記憶の中の彼女は、ほとんどいつも笑っている。それは私が彼女の悲しみを覚えていないのか、それとも彼女が悲しみを私に見せなかったのか、どちらかであろう。


彼女が亡くなったのは、それほど劇的なことではなかった。風邪をこじらせて、それから肺炎になり、あっという間だった。医者から「覚悟してください」と言われた時、私はそれが冗談かと思った。それほどまでに、死というものが身近でなかったのである。


葬式が終わり、弔問客が去り、家の中がしんと静まり返った時、私は初めて自分が一人になったことを理解した。その時の寂しさは、とても言葉に表せないものであった。私は坐禅でも組んでいるかのように、その場に突っ立ったまま、ただじっと床の板を見つめていた。そうして、いつの間にか夜が明けていた。


それから五年。私は時折、彼女の夢を見る。夢の中の彼女はいつも若く、あの頃と同じように笑っている。しかし目が覚めると、枕元には何もない。ただ自分が一人で横たわっているだけである。その落差に、私はいつも少しの間、自分が生きている実感を失う。いや、正確に言えば、生きている実感など、もともとほとんどないのかもしれない。


そんなことを考えていると、突然、門の方向で物音がした。


私ははっとして顔を上げた。こんな夕暮れ時に訪れる者は滅多にない。ましてやこの家は、表通りから一本入った場所にあり、近所の者でもうっかり迷い込むような位置ではない。不審に思って、私は立ち上がり、縁側から玄関の方へと足を向けた。


すると、再び微かな物音がした。今度ははっきりと、戸を叩く音である。


私はのそのそと下駄を履き、暗い通路を伝って玄関へ向かった。雨戸はまだ閉めていなかったので、外の微かな明かりが障子を透かして、ぼんやりと足元を照らしている。私は錠を外し、慎重に戸を開けた。


そこに立っていたのは、一人の女であった。


年は二十歳そこそこ、いや、もしかすると十代の終わりかもしれない。痩せぎすで、色の白い、一見して華奢な感じのする女だった。彼女は黒い着物を着て、手に小さな風呂敷包みを抱えている。その姿は、まるで夜の闇から滲み出てきたかのように、はっきりとした輪郭を持たなかった。


「……どなたです」


私が訊くと、女は暫く黙っていた。まるで言葉を探しているかのように、唇を少し震わせたあとで、かすかな声で言った。


「あの……道に迷いまして」


その声は、風に乗って来た細い蜘蛛の糸のように頼りなかった。私は怪訝に思いながらも、彼女の様子があまりにみすぼらしいので、つい中へ招き入れてしまった。


「まあ、上がりなさい」


そう言った自分の言葉に、私は少し驚いた。普段の私なら、こんな見知らぬ者を容易に家の中へ入れはしない。それがどうしたことか、その晩の私は違っていた。もしかすると、あの孤独と酒と夕暮れの悲しみが、私をいつもとは異なる行動に駆り立てたのかもしれない。


女は遠慮がちに上がり、私は彼女を座敷へ通した。まだ薄暗いので、蝋燭に火を点けた。ぱっと広がる橙の灯りの中に、女の姿がくっきりと浮かび上がる。よく見ると、彼女は思った以上に美しかった。しかしその美しさは、この世のものとは思えないほどに繊細で、触れれば壊れてしまいそうな危うさをはらんでいた。


私は茶を入れ、菓子も出した。女はそれに手をつけず、ただ風呂敷包みを膝の上に置いたまま、うつむいている。


「どこから来たのです」


私が改めて尋ねると、女は顔を少し上げて、障子の外を見た。そこには何も見えない。ただ真っ黒な闇が広がっているだけである。


「遠いところから参りました」


「遠いところとは?」


「もう、戻れないほどの遠いところです」


女はそう言って、ふと口元に笑みを浮かべた。それは悲しみにも似た微笑みで、見る者の胸を締め付けるものがあった。


彼女が何者なのか、なぜこんな夕暮れ時に、このような場所に迷い込んだのか、私はそれを尋ねるべきだと思いながらも、どうしてもその質問を口にすることができなかった。何故なら、彼女の全身から漂うものの哀れさが、あまりにもこの家の雰囲気に馴染んでいたからである。それはまるで、彼女が元々この家の住人であったかのようであり、私がそれに異を唱えることが、かえって不自然に思われた。


私はもう一つ猪口を取り出し、彼女にも酒を勧めた。女は暫く逡巡していたが、やがて小さな声で「いただきます」と言って、それを口にした。酒が喉を通る時、彼女の喉仏がほんの少し上下した。私はそれを見ていて、自分でも不思議なほどに安堵した。彼女は確かに生きている。生身の人間なのだ。


「ここに、お一人でお住まいなのですか」


女が突然、私に尋ねた。


「ええ、まあ」


「寂しくはありませんか」


「さあ……慣れてしまえば、それが普通になるものですよ」


私はそう答えながらも、自分の言葉がまったくの虚勢であることを知っていた。寂しくないはずがない。むしろ、この五年間、私は寂しさに蝕まれてきたのだ。


女は再びうつむき、暫く黙り込んだ。蝋燭の火が揺れて、彼女の影が障子に大きく映る。その影は風にそよぐ葦のように細く、危うげであった。


いつしか外はすっかり暗くなっていた。風の音もやみ、代わりに静けさだけが家中に満ちている。その静けさは、生きているものの気配をすべて飲み込んでしまうような、濃密なものだった。


私はふと気づいた。この女は、もしかすると自分と同じように、この世の中でたったの一人なのではないかと。行く場所もなく、帰る場所もなく、ただ闇の中をさまよっているだけの存在なのではないかと。


その考えは、私に奇妙な親近感を抱かせた。同時に、それはまた、得体の知れない不安をも呼び起こした。


「あなたは、これからどこへ行くのです」


私は最後にそう訊ねた。


女は顔を上げ、蝋燭の灯りを見つめた。その瞳は琥珀色に輝き、そこには深い湖のような諦観がたたえられていた。


「どこへも行けません」と彼女は言った。「もう、どこへも」


その言葉が、その夜の闇の中に吸い込まれて消えたとき、私はなぜか自分が長い旅からようやく帰って来たような、奇妙な安堵感を覚えたのだった。

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