酔夢
十二月は、私に取って記憶にも残らぬほどの早さで過ぎ去った。いや、正確に言えば、過ぎ去ったのではなく、過ぎ去らされたのである。毎日が同じことの繰り返しで、曜日さえも曖昧になり、暦を捲る必要性すら感じなくなっていた。私はただ、朝が来れば煙草を燻らせ、昼になれば食事を摂り、夜になれば酒を飲む。そのサイクルだけが、かろうじて私を生かしていた。
雨禽は相変わらず、この家に留まり続けた。Sからの便りは依然としてなく、彼女も自分から去ろうとしない。私はそれを不思議には思うものの、敢えて追及する気にもなれなかった。彼女が居ることによって、この家の空気がいくらか柔らぐのは事実であり、私はその柔らかさに甘んじていたのである。
しかし年が明けて一月も半ばを過ぎた頃から、私の体に異変が現れ始めた。
酒の量が、格段に増えたのである。
元々私は、酒を全く飲まないという訳ではなかった。妻が生きていた頃は、夕食の時に一合ほどを楽しむ程度であった。彼女が亡くなってからは、その量が倍になり、さらに倍になった。雨禽が来てからは、昼間から猪口を傾けることも珍しくなくなった。
それが一月に入ってからは、殆ど常に酒が手放せない状態に陥った。朝起きて最初にすることは、徳利の残りを確かめることである。足りなければすぐに買いに行き、足りていればそのまま飲み始める。食事前、食事中、食後、そして寝る前。あらゆる場面で酒が私の傍らにあった。
それでも私は、自分が酒に溺れているとは思わなかった。むしろ、酒は私を正常に保つための不可欠な要素であるとさえ感じていた。酒がなければ、この虚無に耐えられない。酒がなければ、あの女の正体について考え過ぎてしまう。酒がなければ、過去の記憶に押し潰されてしまう。そうした恐れが、私の手を絶えず徳利へと向かわせたのである。
或る夜のことである。
その日は特に寒く、昼間から雪が舞っていた。私は炬燵に足を入れ、古い酒を燗してちびちびとやっていた。雨禽は向かいに坐り、何かを縫っている。彼女の手先は器用で、私の古い襦袢のほつれを直してくれているのであった。
「お前さんは、酒は飲まぬのか」と私は尋ねた。
「少しなら」
「では、今夜は一緒に飲もう」
私は彼女に猪口を差し出した。彼女は一瞬躊躇したようであったが、やがて小さく頷き、猪口を受け取った。私は徳利を持って、まず自分の猪口に注ぎ、次に彼女の猪口にも注いだ。
「乾杯という奴だ」
私はそう言って、一気に飲み干した。雨禽もまた、小さな声で「乾杯」と呟き、半分ほどを飲んだ。
「美味うございます」と彼女は言った。
「そうか。それは何よりだ」
私は二杯目、三杯目と続けた。酒はいつもの如く私の喉を焼き、胸の奥に熱を宿らせる。その熱が次第に全身に広がり、指先や足の先まで温めてくれる。私はその感覚に酔いしれながら、何の脈絡もなく話し始めた。
「私はね、若い頃は将来を嘱望された画学生だったんだ。先生も、こいつは化けると言ってくれた。私自身も、そう信じていた」
「そうでございましたか」
「ところが、実際に世に出てみると、そう簡単には行かないものだ。売れる絵もあれば、全く売れない絵もある。評価してくれる者もいれば、酷評する者もいる。そのうちに、自分が何を描きたいのか、分からなくなってしまった」
私は酒を注ぎ、また飲んだ。
「妻に出会ったのは、丁度その頃だ。彼女は私の絵を買ってくれた。一枚の風景画を。それは大した絵ではなかった。しかし彼女は、それを気に入ってくれた。そして言った。『あなたは、きっと良い画家になります』と」
「その言葉が、励みになったのでございましょうね」
「ああ、そうだ。私はその言葉を支えに、十年、二十年と描き続けた。しかし結果は……今の通りだ。何も残せなかった。妻は五年前に死んだ。私はその妻に、一枚の良い絵すら見せてやれなかった」
私の声は、次第に掠れていった。雨禽は黙って聞いている。彼女の縫い針だけが、規則正しい音を立てていた。
「私は、無能なのだ」と私は続けた。「才能もなければ、努力も足りなかった。ただの凡人が、たまたま絵を描くことが好きだっただけだ。それが分かった時には、もう取り返しがつかなかった。年は取り、妻は死に、私は一人取り残された」
「取り残された、というのは」
「この世界に、だ。誰も私を必要としない。私も誰も必要としない。ただそこに居るだけの、無意味な存在だ」
私は酒をまた飲んだ。もう何杯目か、数えるのを忘れていた。頭はくらくらと回り、視界は二重にも三重にもなっている。しかし不思議と、その状態が心地良かった。現実の輪郭がぼやけることで、苦しみもまたぼやけるのである。
「雨禽」と私は呼んだ。
「はい」
「お前さんは、何のために生きているのだ」
その問いに、彼女は長い沈黙を置いた。針の音が止み、室内には炭火の爆ぜる音だけが残る。私は彼女の答えを待ちながら、もう一飲みした。
「私は……」と彼女はやっと言った。「生きている理由を、探しているのかもしれません」
「探している?」
「ええ。自分が何のために生まれて来たのか、何のためにここに居るのか、それが分からないから、探しているのだと思います」
「見つかったのか」
「いいえ。まだ」
私はその答えに、何か共感するものを覚えた。私もまた、生きている理由を探している。いや、探すことさえも諦めかけている。そう考えると、彼女と私はそれほど変わらないのかもしれない。
「お前さんは、記憶は戻らないのか」
「時折、断片が戻ることがございます。しかしそれは、夢のように曖昧で、掴もうとすればするほど、指の間からこぼれ落ちてしまいます」
「どんな断片だ」
「例えば……川の畔に立つ自分。誰かと手を繋いで歩く自分。誰かの名前を呼ぶ自分。しかしその誰かが誰なのか、その川がどこなのか、それがどうしても思い出せません」
「辛いだろう」
「辛いと申しましたが……それもまた、私の一部なのだと思います。忘れてしまったことさえも、私を作っているのだと」
彼女の言葉は、酔った私の頭に染み入るように響いた。私はまた猪口を傾けようとして、徳利が空であることに気づいた。
「もう一本、あるはずだ」
私はよろよろと立ち上がり、戸棚へと向かった。歩くたびに頭が揺れ、壁に手をつかなければ進めない。戸棚を開け、新しい徳利を取り出して、私はまた炬燵の元へ戻った。
「飲むか」
「もう少しだけ」
私は彼女の猪口に注ぎ、自分の猪口にも注いだ。そしてまた一気に飲んだ。酒は最早、苦くも甘くもなかった。ただ液体として喉を通り、胃に落ちていくだけである。
その時である。突然、私の視界が歪んだ。
部屋が回っている。いや、私の頭が回っているのか。雨禽の顔が、二重にも三重にも見える。私は目をこすったが、状況は改善しない。むしろ悪化するばかりであった。
「どうかなさいましたか」
雨禽の声が、遠くから聞こえるような気がした。
「大丈夫だ。少し、目が回るだけだ」
私はそう答えたが、自分の声もどこか他人の声のように聞こえた。手に持った猪口を落としそうになり、慌てて机の上に置く。すると、机の表面が波打っているように見える。まるで水面のように、ゆらゆらと揺れているのだ。
これは、ただの酔いではない。
私はそう直感した。今まで何度も酔っ払ってきたが、こんな感覚は初めてである。現実が崩壊していくような、得体の知れない恐怖が私を襲った。
「雨禽……」
私は彼女の名前を呼んだ。しかし彼女の姿が、ぼやけて見える。いや、彼女の背後に、何か別のものが見える。それは女性の姿であった。黒い着物を着た、痩せぎすの女性。しかしそれは雨禽ではない。もっと年嵩の、どこか懐かしい……
「妻……?」
私は思わず呟いた。その女性の姿は、確かに五年前に失くした妻に似ていた。しかし彼女はもうこの世にいないはずだ。いや、そもそもこの場にそんな女性が居るはずがない。それは幻覚であろうか。それとも夢であろうか。
「奥様は、もう居りません」
雨禽の声が、はっきりと聞こえた。その声と同時に、幻は消えた。再びそこにあったのは、雨禽の痩せた姿だけである。
「今、私の後ろに何か……」
「何もございません」
彼女は断言した。しかしその口調には、何かを隠しているような不自然さがあった。私はもう一度、彼女の背後を見た。誰もいない。ただ白い壁があるだけだ。
私は深く息を吐き、額に手を当てた。汗が出ている。冷や汗である。
「あなたは、酔っておいでです」と雨禽は言った。「どうか、お休みになった方がよろしい」
「そうだな……そうする」
私は立ち上がろうとして、またよろめいた。雨禽が素早く立ち上がり、私の腕を支えた。彼女の手は冷たかった。いや、冷たいというより、凍っているかのようであった。私はその冷たさに、また違和感を覚えた。
「手が冷たいな」
「私は、いつも冷たうございます」
「そうだったか」
私は彼女に支えられながら、自分の部屋へと向かった。布団は既に敷いてあった。私はその上に倒れ込むように横たわった。雨禽が布団の端を整え、私の肩の辺りまで掛けてくれた。
「おやすみなさいませ」
彼女はそう言って、蝋燭の灯りを消した。部屋が暗闇に包まれる。私はその暗闇の中で、酒の回る頭を抱えて横たわっていた。
暫くすると、雨禽が自分の部屋へ戻る足音が聞こえた。それが遠ざかり、やがて止む。私は一人になった。
しかし眠れなかった。
酒の酔いは最高潮に達し、頭の中はぐちゃぐちゃであった。それにもかかわらず、意識だけは妙に鮮明で、様々な映像が次々と脳裏を掠めては消える。それは現実の記憶なのか、夢の中の光景なのか、その区別さえつかなかった。
私は目を閉じた。すると、闇の中に風景が浮かび上がって来た。
それは川であった。冬の川。凍りついた水面。その川辺に、誰かが立っている。黒い着物を着た女である。雨禽かと思ったが、違う。もっと背が低く、もっとふくよかな女。妻である。
妻は川を見つめていた。その横顔は悲しみに満ちている。私は近づこうとしたが、足が動かない。声をかけようとしたが、声が出ない。ただ遠くから、彼女の姿を見つめることしかできなかった。
その時、妻が振り返った。
彼女の目は、まっすぐに私を見ていた。そして口を開いた。何かを言おうとしている。しかしその言葉は聞こえなかった。風の音が全てを掻き消してしまう。
私はもどかしさの余り、必死に手を伸ばした。しかしその手は、何も掴めなかった。妻の姿は、まるで霧のように消え去った。代わりに現れたのは、雨禽であった。
彼女は私の目の前に立ち、無言で見下ろしている。その表情は無感情で、まるで能面のようである。私は彼女に問いかけた。
「お前は、誰なんだ」
雨禽は答えない。ただじっと私を見つめているだけである。その瞳は深く、底が見えない。
「お前は、何者なんだ」
もう一度尋ねると、彼女の唇が微かに動いた。しかしそこから発せられたのは、言葉ではなく、低い笑い声であった。それは嘲りのようにも、哀れみのようにも聞こえた。
私はその笑い声に耐えかねて、目を開けた。
暗闇である。現実の部屋の暗闇。私は布団の中で、はあはあと荒い息を吐いていた。全身が汗で濡れている。酒の酔いはまだ醒めていないが、頭はやや冷めたように感じられた。
私は起き上がり、手元の灯りを点けた。小さな炎が部屋を照らす。枕元には、空の徳利が一つ転がっていた。私はそれを見て、昨夜の酒の量を思い出した。どうやら一升は軽く飲んでいたらしい。
時計を見ると、まだ午前二時を少し回ったばかりであった。夜はまだ長い。
私は水を飲もうとして立ち上がり、台所へ向かった。廊下は冷え切っており、裸足で歩くと底冷えがする。台所に入り、甕から水を汲んで飲んだ。冷たい水が喉を通り、胃の中に落ちる。それだけで、少しだけ正気が戻ったような気がした。
その時である。客間の方から、微かな物音が聞こえた。
私は耳を澄ませた。それは泣き声のようにも聞こえる。くすん、くすん、という、鼻をすする音である。
雨禽が泣いているのだ。
私は彼女の部屋の前に行き、声をかけようかどうか迷った。しかし結局、何も言わずにその場を離れた。彼女には彼女の事情がある。無闇に踏み込むことは、かえって不届きであろう。
私は自分の部屋に戻り、再び布団に入った。しかし泣き声は、壁越しに微かに聞こえ続けている。それはいつまでも絶えず、夜明け近くまで続いたように記憶している。
そのうちに、私はまた眠りに落ちていた。
次の朝、目が覚めると、雨禽はいつも通り台所で炊事をしていた。彼女の目は少し赤かったが、それ以外に昨夜の面影はなかった。私は昨夜の夢のことを尋ねようとしたが、やはりやめた。夢は夢である。それを現実と混同するのは、愚かなことだ。
しかしその日から、私は毎晩のように奇妙な夢を見るようになった。
それはいつも同じような夢であった。川の畔に立ち、誰かを待っている。しかしその誰かは決して現れない。待ち続けるうちに、川は凍り始め、やがて全面が氷で覆われる。私はその氷の上に立ち、自分の姿を映す。鏡のような氷に映る自分の顔は、いつも年老いていく。三十歳、四十歳、五十歳……そしてそれ以上。どんどん老いていく自分を、私はただ見つめているしかない。
その夢から覚める度に、私は激しい頭痛と吐き気に襲われた。酒の二日酔いも手伝って、正午近くまで布団から出られない日が続いた。
雨禽はそんな私を、黙って看病した。彼女は無理に食事を勧めることもなく、ただ時々茶を差し出し、布団の端を直してくれるだけである。その無言の献身が、私にはかえって辛かった。何故なら、それに応えるだけの何かを、私が彼女に与えられないことを自覚していたからである。
或る夕方、私は炬燵の中で煙草を燻らせながら、唐突に口を開いた。
「雨禽、お前はなぜ、私の世話を焼くのだ」
「それは……」
「金になるからか。住む場所があるからか。それとも他に目的があるのか」
私はやや語気を強めて尋ねた。彼女は少し驚いたように私を見つめた後、静かに答えた。
「私には、あなたの世話を焼くこと以外に、できることがないからでございます」
「できること?」
「ええ。私がこの世に在る意味を、まだ見つけられないから。せめて、誰かの役に立つことで、自分を肯定したいのだと思います」
私はその答えに、何も返す言葉を持たなかった。自分を肯定する。それは私が最も欠如させている感覚である。私は自分を肯定できないからこそ、酒に逃げ、絵を描くことを放棄した。彼女はその反対の方向へ進もうとしている。たとえそれが、誰かの世話を焼くという小さな行為であっても。
私は煙草の吸い殻を灰皿に揉み消し、新しい煙草に火を点けた。
「私には、お前を肯定してやることはできない」と私は言った。「しかし、否定もしない。それで良いか」
「はい。それで十分でございます」
彼女はそう言って、ほのかに微笑んだ。その微笑みは、冬の夕暮れの光のように弱々しく、しかし確かに温かみを帯びていた。
その夜も、私は酒を飲んだ。しかしその量は、少しばかり控えた。と言うのも、あの恐ろしい夢を見たくなかったからである。それでも三合ほど飲んだ後、私は布団に入った。
夢を見た。
しかしそれはいつもの川の夢ではなかった。
私は広い野原に立っていた。一面に草が生い茂り、風がその草を揺らしている。空は青く、雲一つない。春の日である。
その野原の向こうから、誰かが歩いて来る。白い着物を着た女である。その顔はよく見えないが、歩き方に覚えがあった。妻である。
私は走り出した。彼女の方へ、必死に走った。草をかき分け、息を切らしながら、ひたすらに走った。そして遂に、彼女の背中に追いついた。
「待ってくれ」と私は言った。
女は振り返った。しかしその顔は、妻ではなかった。雨禽だった。彼女は穏やかな笑みを浮かべて、私を見つめている。
「あなたは、誰を探しているのですか」と彼女が訊いた。
私は答えられなかった。自分が誰を探していたのか、その瞬間に忘れてしまったからである。
目が覚めると、涙が出ていた。
私はそれを拭い、布団の中でしばらく動けなかった。窓の外では、雪が静かに降り積もっている。その雪の白さが、やけに眩しかった。




