31.悲しみに、暮れました
客人たちを女官に任せて送り出した後、国王が王妃とアスヴァルドのみを残し、人払いをする。
「……まさか断られるとはな」
いまだ困惑の残る兄の声に、アスヴァルドは苦笑した。
十九歳。女性にとっては花の盛りだ。ましてやあれほどに美しい女性が、三十八歳にもなる男を選ぶ理由がない。
「だから言ったでしょう。あんな若いお嬢さんに、私が相手では可哀想です」
事前にそう伝えていたのだが、国王は『絶対大丈夫だ』となぜか自信たっぷりで、聞き入れてくれなかった。
「レメディア王家きっての美丈夫が何を言う。お前に袖にされ、何人の女性が枕を涙で濡らしたことか」
余計な一言ではあるが、目論見が外れた今、国王はどこか消沈しているようにも見える。
無理もない。セレネア・フェルンとアスヴァルドが結婚することが、一番簡単に事態を丸く納めるための解決法だったのだから。
だが、レメディア王国は独裁国家ではない。いくら王家とはいえ、あれほどきっぱりと断られたものを強要する権利はなかった。
「絶対に頷いてもらえると思っていたのに……」
王妃は王妃で、可愛らしい義妹を迎える機会を失ったというまったく別の理由で落ち込んでいるようだ。小さくため息をついた王妃は、何かに気づいたようにはっと息を呑む。
「アスヴァルド……。もしかしてあなた、お世話になった喫茶店で、横暴な態度を取っていたのではありませんか?」
「いえ、そんなはずは……ない、かと」
答える声に迷いが滲んでしまったのは、アスヴァルド自身、その期間のことをまったく覚えていないからだ。
記憶喪失の間、人格が変わっていないという保証はどこにもない。
「いくら記憶を失っていたからと言って、あなたに限ってそんなことはないと信じたいけれど……。だとすればやはり年齢……? それとも、もっと繊細な感じの美形がお好きだったのかしら……」
やはりセレネアに対して未練があるらしく、ぶつぶつと王妃が呟き始める。
(セレネア嬢、か……)
不思議と目を引く娘だった。
艶やかな紫紺色の髪に、初雪を思わせる白い肌。
紫水晶のような瞳には静かな知性を湛え、落ち着いた所作のひとつひとつに育ちの良さが感じられた。
薔薇のような華やかさではない。どちらかと言えば、静かに咲く鈴蘭のような可憐さを持つ女性だった。
『――輝かしい殿下の未来を、わたしのような者が曇らせるわけにはまいりません。わたしは一臣下として、殿下の幸福を祈らせていただきたく存じます』
そう言ったセレネアの顔が、不意に脳裏をよぎる。
静かで、穏やかな声だった。
彼女は確かに、微笑んでいたはずだ。
(それなのになぜ、私は泣きそうな顔だと思ったのだろう……)
セレネアのあの表情を思い出すたびなぜか、胸の奥がちくりと痛んだ。
§
「それでは、ご滞在のためのお部屋の支度が整うまで、しばらく――」
「そちらの紅茶とお菓子は、王妃殿下からの――」
「ありがとうございます。王妃殿下にお礼をお伝えいただければ――」
ルヴェナが、女官と何かを話している。
だけど彼女たちの声は耳を素通りしていくばかりで、まともに頭に入ってこない。
客間に戻ったネアは、女官とのやりとりをすべて伯母に任せ、ひとりじっと虚空を見つめていた。
ヴィルの記憶が戻って、よかったではないか。
そう思う気持ちも、確かにある。
彼が無事に家族の元へ帰れたことを、喜ぶべきだ。
だけどそれ以上に『ヴィル』を失った喪失感のほうが大きかった。
「ネーアちゃん」
振り向くと、そこにはルヴェナだけが立っていた。
「女官さんたち、お部屋の準備してくるって。あたしとネアちゃん、それぞれに個室を用意してくれるらしいわ」
「伯母さま……」
「しばらく戻ってこないと思うわ。だから……もう、我慢しなくていいのよ」
その言葉と、すべてわかっているというようなルヴェナの微笑みを見た瞬間。
ネアの中で、堪えていた感情が堰を切って溢れ出した。
「っ、覚えて……ないって……! わたしのこと……。琥珀亭のことも……一緒にケーキを食べたことも……。っ、ふたりで……っ花火を見たことも。全部……全部、なかったことになっちゃった……」
「そうね……辛いわよね。あんなに一緒に過ごしてたものね」
溢れ出す涙のせいで視界が滲み、声が震えてしまう。
悲しかった。
忘れられたということは、彼にとって自分はその程度のちっぽけな存在だったのだ――と。
そんな残酷な事実を突きつけられているような気がした。
嗚咽をこぼすネアを、ルヴェナがそっと抱きしめる。
「ネアちゃんがどれほどヴィルさんのことを好きだったか、あたしは知ってるわ。だからこそ今、あなたがどれほど苦しい思いをしているかも……」
寄り添うような柔らかい言葉が、傷ついたネアの胸に染み入る。
伯母の腕の中で、それからしばらくの間、ネアは泣き続けた。
そうして少し涙が落ち着いた頃、ルヴェナはそっとネアの顔を覗き込む。
「ねえ、ネアちゃん。無理にここへ残らなくてもいいのよ」
思いがけない一言に、ネアはゆっくりと顔を上げた。
ルヴェナはいつもと変わらない微笑みで、ネアを見つめている。
「国王陛下や王妃殿下のお気持ちは、本当にありがたいわ。でも、ネアちゃんが苦しい思いをするくらいなら、今からでもお断りして、琥珀亭へ帰りましょう? 大丈夫。あたし、こう見えて頭は下げ慣れているのよ」
琥珀亭へ帰る。
その提案に、一瞬だけ心が揺れた。
穏やかな時間が流れる店内。伯母の淹れる珈琲の香り。常連客たちの笑い声。
そこにヴィルはもういない。それでも、ネアの日常は残っている。
――だけど。
ネアは小さく首を横に振った。
「陛下も王妃殿下も、本当にわたしたちのことを気遣ってくださいました。そのお気持ちを、今ここで無下にしたくはないです……」
「ネアちゃん……。でも、辛くない?」
「辛いです。だけど……だけどもう少しだけ、ここにいたいんです」
決意を固めるように、胸元でぎゅっと手を握りしめる。
「記憶はなくても、あの人がちゃんと生きて、笑っていて……。そんな姿を、もう少しだけ見ていたいから」
未練がましいと思われても仕方がない。けれどこれは、失った恋を諦めるためのささやかな猶予でもあった。
ネアの決意が固いことを見て取ったのだろう。
ルヴェナは小さく苦笑し、そしてネアの頭をぽんぽんと優しく撫でる。
「まったく、ネアちゃんって本当に頑固ね。でもあたし、あなたのそういうところ、大好きよ」
「伯母さま……」
「残ると決めたからには、あたしも全面的に協力するわ。社交界中の男どもの視線を釘付けにするくらい、誰より綺麗に着飾っちゃいましょう!」
冗談めかした言葉に、ネアの顔にも思わず笑みが浮かぶ。
着飾ったところで、一番見てほしい人はもう自分を覚えていない。けれど伯母の力強い言葉は、今のネアにとって何より頼もしかった。




