30.求婚を、断りました
妻。
誰が、誰の。
(この件の責任って、何……)
頭が、彼の言葉を理解することを拒む。
「あ、あの……。どうかお立ちになってください……」
それでも、跪くアスヴァルドを前に、掠れた声でなんとかそれだけを口にする。
ネアは平民だ。王族である彼に、跪かれる身分ではない。
ゆっくりと立ち上がるアスヴァルドから距離を取るように、じりじりと後ずさったネアの手を、側にいた王妃がそっと握りしめる。
「セレネア嬢、大丈夫ですか?」
その手の温かさに、ネアはなんとか正気を取り戻した。
「あの、突然のことで一体何がなんだか……」
「大公は身分を隠したまま嫁入り前のお嬢さんと共に過ごし、その名誉を危うくしたのです。記憶を失っていたとはいえ、これを見過ごすわけにはいきません」
「で、ですが、殿下と私の間には本当に何も――」
「大事なのは真実そのものではなく、周囲がどう思うかということです」
慌てて否定しようとしたネアの言葉を、王妃がそっと遮る。
彼女の表情は穏やかだったが、その言葉には有無を言わせぬ響きがあった。
「あなたがたが潔白であっても、その事実が噂になれば、事情を知らぬ者は好き勝手な憶測を口にするでしょう」
「そ、れは……」
ないとは言い切れない。
実際にネアはその身で、噂の怖さを体感しているのだから。
ルシアンから婚約破棄をされた際、周囲の人々がこぞってネアを悪女扱いした時のことは、未だに忘れられない。
「その噂は、あなたの将来にも影を落とします。一度〝身持ちの軽い女性〟という烙印を押されれば、この先まともな縁談は望めないでしょう」
王妃はそこで一度言葉を切り、アスヴァルドへ静かに視線を向けた。
「大公もまた、例外ではありません。〝身分を隠して娘の家に転がり込み、その責任も取らずに去った王族〟――そのように噂されれば、王家の名にも傷がつきます」
ネアの胸が、小さく痛む。
そんな噂など、考えたこともなかった。
実際アスヴァルドがただの平民であれば、考えなくともよかったことだ。
ネアはただ、倒れていた彼を助けただけ。
喫茶店で一緒に働き、共に楽しい時間を過ごしただけ。
けれど、アスヴァルドは平民ではない。
王妃の言う通り彼は王族で、常に第三者の視線を気にしなければならない立場なのだ。
「あなたの名誉を守り、義弟に責任を果たさせるために、わたくしたちは最善の道を選びたいのです」
声も出せないでいるネアに、アスヴァルドが静かに歩み寄る。
彼は自分より遙かに低い位置にあるネアの顔を見下ろすと、再び静かに口を開いた。
「記憶を失っていたことは、言い訳になりません。あなたに少しでも不利益が及ぶ可能性があるのならば、その責任は私が負うべきです」
ネアはただ呆然と、アスヴァルドを見つめ返した。
真面目な彼らしい、誠実な声と表情だった。
だからこそわかってしまう。彼が差し伸べているのは愛情ではなく、責任なのだと。かつて自分へ向けてくれた優しい眼差しも親しみのこもった笑顔も、今の彼の中には存在しないのだと。
胸の奥が静かに軋む。
その手をとることができれば、どんなに楽だっただろうか。
何も考えずに頷くことができれば、どれほど幸せだっただろうか。
けれどネアは、心の伴わない求婚に飛びつけるほど、自分の想いを軽く扱うことはできなかった。相手が、自分の愛する男性だったからこそ、なおさら。
張り裂けそうな痛みを堪えるように、ネアはドレスの上からそっと己の胸元を押さえた。
震える唇を開き、ゆっくりと息を吸う。
「せっかくのお申し出ではございますが……。お受けすることは、できません」
拒絶の言葉を紡いだ、その瞬間。
広間の空気が凍り付いた。
王族の求婚を、平民が拒んだ。
そんな前代未聞の出来事に、誰もが息を呑み、声にならない驚愕がその場を満たしていく。
アスヴァルドもまた、目を大きく見開きまじまじとネアを見つめている。
そんな気まずさの中、真っ先に口を開いたのは国王だった。
「ん、ごほん。セレネア嬢。そなた、他に好いた男でもおるのか?」
「……いいえ」
そう。
ネアの好きな『ヴィル』は、アスヴァルドが記憶を取り戻すと共に消滅してしまった。もう、この世界のどこにも、彼はいないのだ。
「ならば、何故求婚を断る? 兄として言うが、アスヴァルドは誠実で実直な良い男だぞ。それとも、年齢が理由か? セレネア嬢は、確か――」
「今年で二十歳になります」
「確かにアスヴァルドとは十九も離れておるが、社交界では珍しい話ではあるまい」
国王が眉間に皺を寄せ、困惑をあらわにする。
無理もない。
平民が王弟の妃になれるというのだ。それも、これほど美しい男性の。
すべての女性にとって、夢のような状況だろう。
けれどネアにとっては、身分も年齢もどうでも良いことだった。
以前ルヴェナに言った通り、ネアはヴィルが借金持ちだろうと悪人だろうと、構わなかった。彼が、彼であるだけでよかったのだ。
彼の心に自分の存在がない以上、何があろうとこの求婚に頷くことはできない。
「わたしは先般、モンフェール子爵家令息に婚約破棄をされております。その上魔法塔も解雇されており、何の後ろ盾も持たぬ身です」
「もちろん存じておる。だが、案ずることはない。くだんの子爵令息は既に社交界での立場を殆ど失い、そなたを不当解雇した者も相応の処分を受けた。身分のことならば、王家がいかようにも取り計らおう」
ネアが王都を去った後、何かが起こったのか。
あるいは国王が手を回した結果なのかはわからない。
だが、今はルシアンのことも元上司のことも、心からどうでもよかった。
「殿下には、相応しいお相手が大勢いらっしゃるはずです。高貴なお生まれで、教養も品格も兼ね備えた、美しいご令嬢が」
一旦言葉を切ると、ネアは深呼吸を繰り返してアスヴァルドを見つめた。
青灰色の瞳と、目が合う。
普通の令嬢なら、誰もが飛びつくであろう求婚を断られた彼は――どこか、困惑しているように見えた。
「――輝かしい殿下の未来を、わたしのような者が曇らせるわけにはまいりません。わたしは一臣下として、殿下の幸福を祈らせていただきたく存じます」
泣きそうになるのを堪えながら、必死で笑顔を浮かべる。
上手く、笑えているだろうか。
もう彼の中にヴィルはいない。それでも彼には、責任感ではなく愛情に満ちた結婚をして、幸せになってほしいと思った。
しばし考え込んでいた国王が、やがて諦めたように息を吐く。
「……セレネア嬢が、大公の将来を案じていることはよく伝わった。そこまで申すのであれば、無理強いはすまい」
王妃も残念そうに目を伏せ、小さく肩を落とした。
「本当に惜しいことですわ。これほど美しく、思慮深いお嬢さんですのに」
国王は玉座に腰を下ろし直すと、これまでよりずっと優しい眼差しをネアに向ける。
それはまるで、娘の身を案じる父親のような表情だった。
「しかし、そなたも年頃の娘だ。この先の人生を思えば、早めに良縁を結ぶことを考えねばなるまい。今回の件で妙な憶測を残さぬためにも、なおさらな」
思いがけない言葉に、ネアは困惑する。
ルシアンに婚約破棄され、魔法塔を解雇された時に、まともな縁談はもう望めないだろうと諦めていた。
それに、この先ヴィル以上に好きな相手が現れるとは到底思えない。
そのことを伝えようと口を開き掛けたが、それより早く、国王が再び口を開く。
「大公との結婚が叶わぬなら、せめて我々に、そなたの縁談を探す手伝いをさせてはもらえまいか」
「でしたら陛下、マダム・ベルレインとセレネア嬢に、しばらくの間王宮に滞在していただくのはいかがでしょう? 幸いにも今は社交シーズンですし、王家主催の夜会や茶会も多く開催されます」
「おお、それは良い考えだな。王家の賓客として遇すれば、良縁にも恵まれよう」
「そうでしょう? マダム・ベルレインが王宮へ納品に訪れた際、手伝いとして同行していたセレネア嬢をわたくしが見出し、お話相手として召し抱えた……ということにしておけば、周囲への説明もつきますわ」
ネアが口を挟む隙もなく、話は次々とまとまっていった。取り残されるネアに、王妃が優しく微笑みかける。
「〝王妃のお気に入り〟となれば少しは箔がつくでしょう? セレネア嬢ほど素敵なお嬢さんなら、きっと大勢の方が声を掛けますわ」
「ですが、そのような厚遇をいただく理由が、わたしには――」
「義弟を救ってくださったこと、それだけで十分です。それにね。わたくし本当に、あなたのことを気に入ってしまったのですもの」
求婚を断ったネアを、責めてもいいはずだった。
だが国王も王妃もそんなことは一切口にせず、真剣にネアの将来を考えてくれている。
臣下として、身に余る光栄のはずだ。
だが、国王夫妻にそこまでしてもらってなお、ネアの心は晴れなかった。
浮かない顔のネアを見て、国王は何か勘違いをしたようだった。
「安心するがよい、セレネア嬢。王家の賓客として遇する以上、妙な噂が立つことなどあるまい。むしろ王妃の客人を中傷する者があれば、その者は直ちに社交界での立場を失うであろう」
宥めるようにそう言うと、今度は玉座の下にいるアスヴァルドに声を掛ける。
「大公よ」
「……は」
「発端はそなたにある。滞在中はセレネア嬢の後見となり、社交の場でも十分に配慮せよ。彼女が相応しい良縁に恵まれるよう、力を尽くすのだ」
「――御意に」
迷いのない返答が広間に響く。
国王に向かって一礼したアスヴァルドが、ネアのほうを振り向いた。
「ご心配もあることとは思いますが、どうぞご安心ください。私が後見となったからには、全力でお守りいたします」
どこか一線を引いたような声色に、静かに胸が締め付けられる
恋した相手に、自分の結婚相手探しを手伝ってもらう。
それほど皮肉で、残酷な話があるだろうか。
だが、平民のネアが王家からの善意の申し出を二度も断ることは、さすがにできない。
「過分なお心遣い、ありがたく存じます。そのお話、謹んでお受けいたします」
深く頭を下げながら、ネアは誰にも気づかれぬようそっと唇を噛む。
なぜだろうか。
求婚を断った時よりも今のほうが、ずっと、胸が痛かった。




