25.思いもよらぬ事実を、知らされました
本日連続二話更新しております。未読の方は前話からお読みくださいませ。
「私……私ね。セルジュがあなたを誘拐するつもりだって、知ってた。知ってたのに、誰にも黙っていたの。だって――だってずるいじゃない……! たまたま倒れていたヴィル様を助けたっていうだけで、当然のような顔をしてあの方の傍にいて……」
「エレノールさま……」
エレノールの目から、涙が溢れ出す。
きっと彼女は彼女なりに、本気でヴィルに恋をしていたのだろう。だからこそ、彼の隣にいるネアを見るたび、苦しい思いを抱いてしまったのだろう。
彼女の考えを、肯定することはできない。だが、理解はできる。
「でも、あなたを助けるために必死で屋敷まで駆けつけたヴィル様を見て、目が覚めたの。そして、自分自身に対する嫌悪感でいっぱいになったわ。私は、そんなところまで堕ちたのか、それじゃセルジュと同じじゃないかって……」
語尾は涙に霞み、ほとんど声にならなかった。ぽたぽたと、テーブルの上にいくつもの涙が落ちる。
エレノールは唇を噛みしめ、ドレスのスカートを握りしめながら、しばらく無言でうつむいていた。
やがて震える声が、小さな謝罪を紡ぐ。
「……ごめんなさい。今更なのはわかってる。だけど……どうしても、謝りたかった。私の自己満足かもしれないけれど……」
エレノールの言葉は、それ以上続かなかった。
何かを言おうとして、けれど言葉はすぐに嗚咽に呑み込まれてしまう。
いつも気丈で堂々としていた令嬢の姿は、そこにはない。ネアの目に、今のエレノールは、自分の過ちに傷つくひとりの女性にしか見えなかった。
「……お顔を上げてください、エレノールさま」
「っ」
エレノールがはじかれたように顔を上げる。
その目の奥には、自身の行いに対する後悔と、ネアに何を言われるのだろうかという不安が滲んでいた。
ネアは静かに、微笑みを浮かべる。
「わたし、エレノールさまを恨んでいません」
「え……」
「人は誰だって、間違えることがあります。だけどエレノールさまは、最後にはわたしを助けるために動いてくださいました」
エレノールに対して、複雑な思いがないと言えば、きっと嘘になる。
それでも、彼女の助けのおかげでネアは今、こうしてここにいる。
「ありがとうございます、エレノールさま。……ご家族に逆らうのは、きっととても苦しかったと思います」
エレノールの目から、再び涙がこぼれ出す。
彼女は顔を覆い、嗚咽を漏らしながら何度も何度もネアに謝り続けた。
「ごめんなさい……」
「エレノールさま……。大丈夫、もういいんですよ」
「ごめんなさい……っ」
その謝罪は、ネアだけに向けられたものではないのだろう。
エレノールの胸には今、過去にセルジュに傷つけられた人々への思いが溢れているはずだ。
積もり積もった後悔が溢れ出すように、彼女はそれからしばらく泣き続けた。
やがて泣き止んだ頃。
すっかり冷めたミルクティーを一気にすすり、彼女は静かに席を立ち上がった。
「……お騒がせしてごめんなさい。おつりはいらないわ」
テーブルの上に紙幣を置き、少し気まずそうにそう言う。
「い、いえ。こんなにいただけません」
「いいの。迷惑料と思ってちょうだい。結婚したらもうここには、しばらく来られないでしょうし」
困惑するネアを置いて、エレノールはそのまま立ち去ろうとする。
けれど扉のすぐ傍でふと足を止め、再びネアを振り向いた。
「……ヴィル様。遠くへ引っ越されたのですってね。――もう、戻っていらっしゃらないの?」
「わかりません。でも……待ちます。ずっと」
「そんなこと言ってるうちに、あなたおばあちゃんになるわよ?」
「構いません」
きっぱりと言い切ったネアに、呆けたような顔をした後、エレノールは降参とでも言うように両手を挙げる。
「あなたって、しぶといのね」
初めてエレノールの笑っているところを見た気がした。
呆れたような、感心したような笑いだったけれど、その表情はどこか晴れやかで清々しかった。
「でも……いいと思うわ。脈がないってわけじゃないと思うし」
「え?」
エレノールの発言の意図が分からず首をかしげていると、彼女はたちまち怪訝そうな表情になった。
「――まさかあなた、覚えてないの?」
「えっと……」
「本当に?」
「な、何のお話でしょうか……?」
エレノールが眉間に皺を寄せ、深いため息を吐く。
一瞬の後。
「しんっじられない!」
エレノールが突然声を荒らげる。
店内にいた客も、なんだなんだとばかりにエレノールに注目し始めた。
さすがにエレノールも注目を集めていることに気づいたらしく、ネアの手首をひっつかんで店の端まで引きずっていく。
「ヴィル様にキ、キスまでされておきながら、この罰当たり!」
小声で、しかし聞き間違えようもなくはっきりと。
わなわな震えながら告げられた言葉に、ネアの理解が一瞬遅れる。
(ヴィルさんに、キス? わたしが?)
そんな記憶は一切ない。
大体、ヴィルは普段からネアに対して、異性というよりは保護者のような態度で接していたではないか。
しかし困惑するネアに、エレノールは怒ったような、焦れたような口調で続けた。
「もう! あなたが誘拐された日よ! セルジュが飲ませた薬の解毒剤を、口移しで飲ませてもらってたでしょう!」
「口移し……」
唇にそっと触れる。
あの時のことは正直、朦朧としてほとんど覚えていない。
だが確か助かった後目を覚ましたネアに、ヴィルは彼にしては珍しく、少し緊張した面持ちでこう言っていたのではなかったか。
『……本当に、何も覚えていませんね?』
あれは、口移しの事を言っていたのだろうか。
「――っ」
たちまち耳まで熱くなる。
頬が火照って、肌が痛いくらいだ。
「あ、あの、でも、毒を飲まされたわたしを助けるためですよね。でしたらキ、キスとかじゃなくて、医療行為の一環として――」
「あなた本当に何も知らされてないの? セルジュがあなたに飲ませたのは、毒じゃない。媚薬よ」
「び、媚薬……!?」
確かにあの時妙に身体が火照り、何かを渇望するような気持ちが湧き出す感覚はあった。だが、まさかそんな薬を盛られていたなんて。
青ざめるネアに、エレノールは呆れたように額を押さえた。
「だから! 私が言いたいのはそこじゃないの」
「え?」
「あの時のヴィル様なら、あなたに手を出すことだってできた。あなたは意識が朦朧としていたし、抵抗もできなかったでしょうね」
言葉を失うネアに、エレノールは話を続ける。
「でも、ヴィル様はそうしなかった。解毒剤を飲ませて、あなたを助けて、それでおしまい」
苦い笑みがエレノールの口元に浮かんだ。
悔しそうな、何かを諦めたような、そんな表情だった。
「それこそ身体の熱を鎮めるための医療行為だとか、どんな言い訳だってできる状況だったのにね」
「……」
「だからつまり、ヴィル様にとって、あなたはそれほどに大切な存在だったのよ! ……って、恋敵にこんなこと言わせるんじゃないわよ!」
エレノールは真っ赤になりながら叫ぶ。
「こっちは失恋したのよ!? 少しは気を遣いなさい!」
「え、えっと、すみません……?」
だいぶ理不尽な怒りをぶつけられているような気はするが、それしか言えなかった。
(だって、あれが媚薬で、ヴィルさんがわたしに口移しをして……。それは、ヴィルさんがわたしを大切に思ってるから、なんて……)
そんな話、ネアにとって都合のいい妄想のようではないか。
「ああもう、ばかばかしい」
エレノールがこめかみを押さえながら、大げさにため息を吐く。
「こんな鈍い女と本気で張り合ってたなんて、我ながら信じられない。ヴィル様も見る目がないわね」
ぴしゃりと言い切ると、エレノールはくるりと踵を返した。
「もう帰るわ。それじゃあね、ネアさん」
その声は、不思議と以前より柔らかく聞こえた。
扉を出たエレノールを、従者たちが出迎える。
「……エレノールさま!」
馬車に乗ろうとした彼女の背中に、ネアは思わず声をかけた。
立ち止まったエレノールが、胡乱げに振り返る。
「ご結婚、おめでとうございます。……あの、お幸せに」
エレノールが眉間に皺を寄せる。
彼女はしばらくネアをにらみつけた後、ふっと表情を緩めた。
「……私の花婿は伯爵家の三男でね。ちょっと気が弱いし、背も低いし、ヴィル様みたいに格好よくはないけど……。でも、とても優しい人なの。きっと、私のことを大切にしてくれる」
「素敵な方なんですね」
「ええ。だから私、幸せになるわ。私を振ったあの方が、悔しがるくらいにね」
そう言って、エレノールは勝ち気に笑う。
その顔には、もう涙の跡はなかった。
「じゃあ、本当にさようなら。気が向いたら、結婚式後の宴にもいらっしゃい」
「はい。ありがとうございます」
エレノールは軽く手を振ると、そのまま従者の手を借りて馬車へ乗り込んだ。
やがて馬車の車輪がゆっくりと動き出す。
窓の向こうで、エレノールがもう一度だけネアを見た。
そして小さく口を動かす。
『頑張りなさい』
声は聞こえなかった。
けれどネアの耳には確かに、エレノールの声が聞こえていた。
――王都から、国王の使者を伴った物々しい一行が琥珀亭を訪れたのは、それから更に二週間後のことだった。




