24.謝罪を、受けました
ヴィルが旅立って、一ヶ月が経った。
彼がいなくなってからも、ネアは相変わらずの日々を送っていた。
客を出迎え、注文を取り、時折世間話に耳を傾ける。
ヴィル目当てで店に来ていた女性たちは、彼がいなくなったことに落胆していたけれど、遠くに引っ越したといえば納得してくれた。
いつも通りの日常。
ただそこに、ヴィルがいないだけ。
たったそれだけのことなのに、胸の中にはぽっかりと大きな穴が空いた気がする。
琥珀亭の扉が開くたび、そこから彼が顔を出すのではないかと期待してしまう。
閉店後、余ったケーキを見るたび、彼なら喜んだだろうなと考えてしまう。
ヴィルがいなくなった後、ネアは珈琲を淹れるのが少しだけ上手くなった。
いつか旅から戻ってきた彼においしいと言って喜んでもらいたくて、今まで以上に真剣に、ルヴェナに淹れ方を習ったのだ。
(ヴィルさん……今、どこにいるのかな。ちゃんとご飯食べてるかな……)
客の流れが途切れるたび、手持ち無沙汰になるたび、つい、ヴィルのことを思いながら胸元へ手をやってしまう。
そこには、あの日贈られた青い石のネックレスがあった。
指先でそっと撫でると、つるりと滑らかな感触が返る。
もう一ヶ月。
それでもまだ、ヴィルのいない日常には慣れなかった。
「ネアちゃーん! ちょっと手伝ってくれる?」
「はい! すぐに行きます!」
厨房から呼ぶルヴェナの声に、慌てて向かうと、ちょうど食品業者が大荷物を抱えてやってきたところだった。
「あ、ネアさん。こんにちは!」
「こんにちは。今日もお疲れさまです」
最近になって琥珀亭の担当になったというその青年は、名をレオと言った。
年は二十歳そこそこ。ネアより少し上だろう。
栗色の髪と人懐こい笑顔が印象的な青年で、丁寧な仕事ぶりに、ルヴェナも彼のことを気に入っているようだった。
「今日は箱が多いんで、気をつけてくださいね。あっ、それは重たいんで僕が運びますよ」
そう言いながら、彼はさりげなく重い荷物をネアから取り上げる。
「いえ、そんな。次の配達先もあるでしょうし、これくらいならわたしも……」
「遠慮せずに、任せてください。ほら、もうすぐ領主のお嬢さまがご結婚なさるでしょう? お菓子屋さんも料理店もそちらの準備に大忙しで、一般営業はお休みしてるんですよ」
(そういえば、この間リーゼさんがそんな話をしていたような……)
常連客も、このところその話題で持ちきりだ。
セルジュが起こした不祥事によって、ランベル子爵家への信頼は大きく損なわれてしまった。そのため子爵は、娘の結婚式を盛大に執り行い、式後の宴では領民にも広く料理や酒を振る舞う予定らしい。
失った信頼を取り戻すための、いわば子爵家の一大行事だ。
子爵家の使用人だけではその宴の準備まで手が回らず、そのため、三区の菓子店や料理店の人々が駆り出されているそうだ。
「牛乳は白雪ノ舟で保管しますので、そこの台の上に置いていただけますか?」
「あ、はい。よかったら僕、ちゃちゃっと入れちゃいますよ」
断る間もなく、レオは白雪ノ舟の扉を開け、大きな瓶に入った牛乳を手慣れた様子で納め始める。
そしてその作業を終えた後、彼は改まった様子でネアに向き直った。その顔はどこか赤く、緊張しているように見えた。
「あの、ネアさん」
「はい」
「その……。さっき言ってた宴なんですけど、もしよかったら僕と一緒に――」
レオが何か言いかけたその時。
――カランカラン。
店の入り口扉が開く音が響いた。
「ごめんなさい。お客さまがいらっしゃったみたいなので」
「そ、そうですか。そうしたらまた来週、納品に来ますのでその時にでも……」
気まずそうな笑みを浮かべ、レオがぺこりと頭を下げる。ネアも軽く会釈をし、店のほうへ戻った。
「いらっしゃいま――」
言葉が途中で途切れたのは、扉の傍に佇んでいたのが、思いもよらぬ人物だったからだ。
「……エレノール、さま」
「お邪魔するわよ。――お前たちは外で待っていなさい」
身体をこわばらせたネアに頓着する様子も見せず、エレノールは従者たちを店の外に追いやると、さっさとテーブルに着いた。
「ミルクティーひとつ」
そしてメニューも開かず、短くそう口にする。
(どうして、エレノールさまがここに……)
セルジュの失脚の原因は彼の愚かな振る舞いによるものだが、直接的な理由としては、彼がネアを誘拐したためだ。
双子の妹であるエレノールは、あの一件のせいで家督を継ぐために婿をとらざるを得なくなり、政略結婚を余儀なくされた。
そんな彼女が、なぜ今更琥珀亭にやってきたのだろう。
(わたしに、文句を言いに……?)
元々ネアを嫌っていたエレノールのことだ。
自身を望まぬ境遇に追いやったと、ネアのことを逆恨みしていたとしてもおかしくはない。
棒のように突っ立つことしかできないネアを、彼女はぎろりと睨んだ。
「何を突っ立っているのよ」
「え……」
「注文をしたでしょう。ミルクティーひとつ。さっさと持ってきてちょうだい」
「か、かしこまりました。すぐにご用意いたします……!」
頭を下げ、慌てて厨房へ向かう。
平静を装いつつも、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
ヴィルは事件の後、エレノールがネアを救う手助けをしてくれたのだと言っていた。そのことについては、ネアも感謝している。
だけどあの一件で、彼女の運命が大きく変わったのもまた事実だ。
もし、結婚を前にしたエレノールが恨みを募らせたのだとしたら。
(……わたし、何を言われるんだろう)
重い気持ちのまま、ミルクティーを淹れる準備をする。
「ちょっとネアちゃん。今来たのって、エレノールさまじゃない?」
「あ……はい」
「大丈夫? 接客変わろうか?」
「いえ、大丈夫です。多分、危害を加えるつもりはないと思うので……」
危害を加えるつもりなら、従者を外に出すことはしないだろう。
店内にはまだ僅かだが客が残っているし、エレノールも、兄の不祥事があって間もない今、騒ぎを起こすような真似はしないはずだ。
ミルクティーを淹れ終えたネアは、早速それをトレーに乗せてエレノールのもとへ戻った。
「お待たせいたしました。ミルクティーでございます」
「遅い」
エレノールは相変わらず険しい表情のまま、テーブルに置かれたミルクティーに角砂糖をひとつだけ入れた。
表情を強ばらせたままのネアを見て、エレノールはミルクティーを一口飲んだ後、大きくため息を吐く。
「その顔、やめて。別に今日は、文句を言いに来たわけじゃないわ。謝りにきたのよ」
「……え?」
思いもよらぬ言葉にまばたきを繰り返していると、エレノールはソーサーにカップを置き、ネアを見つめる。
その表情は相変わらず険しいままだったが――前のような敵意は、感じられなかった。
「私はずっと知っていたの。兄がどうしようもない人間だって。……でも、心のどこかで変わるんじゃないかって期待していた。あんなのでも、私の兄なんだもの」
「……」
「でも、セルジュは変わらなかった。お父様が病に伏せってからは、酷くなっていく一方で。私も、そんなセルジュと向き合うのが面倒で、見て見ぬふりをしていたわ」
そう言って、エレノールは自嘲するように笑う。
「兄が使用人を殴った時も、下女に手を出した時も、一応注意はしたわ。でも、本気で止めようとはしなかった。どうせ聞かないと思っていたし、面倒だったから」
その笑みはどこか苦しそうで、自嘲以上に、彼女が自分を深く責めているのだと感じられた。




