23.別れ
その日は、いつも通りの一日だった。
ネアと共に朝食をとり、開店の準備をして琥珀亭に来た客を出迎える。共に忙しなく働き、時折、客の冗談話で笑い合った。
店を閉めた後はふたりで夕食をとって、またそこでも世間話に花を咲かせて。
就寝の準備を整えた後は、いつもと同じように「おやすみなさい」と言葉を交わし合い、そして互いの部屋に戻った。
何も変わらず振る舞った。
まるで、明日もまた同じ朝が来るかのように。
――深夜。
ルヴェナがくれた厚手の外套を纏ったヴィルは、あらかじめまとめておいた荷物を手に、部屋を抜け出した。
そのまま、物音を立てぬよう裏口へ向かう。
まだ辻馬車は動いていない時間だが、今から歩けば日が上る前には隣町に着けるだろう。
そっと、裏口の扉に手を掛ける。
それだけのことが、妙に重かった。
明日の朝、ネアは空になった部屋を見て何を思うだろう。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
それとも――。
まとわりつく思考を振り払うように、ヴィルは軽く頭を振る。
(今更何を考えている)
ルヴェナにも言ったはずだ。ネアを理由にしてしまったら、きっと自分はここを離れられなくなる。
ネアを言い訳に、彼女を傷つける選択をするわけにはいかない。
取っ手をひねると、かすかにギィと軋む音が鳴った。
恐る恐る背後を窺うが、相変わらず屋内はしんと静まりかえっており、ネアが起き出す気配はなかった。
安堵しつつ外に足を踏み出す。
しっとりと湿り気を帯びたあたたかな風が、頬を撫でた。
倒れていたところを助けてもらった時、まだ季節は春の盛りだった。
あれから二ヶ月――。もう、夏の気配が目前に迫っている。
空は昨日の晩とは打って変わって厚い雲に覆われており、月の光も星のきらめきも、ひっそりとなりを潜めていた。
(まるで、今の私のようだ)
思わずそんな考えがよぎり、ヴィルは自嘲気味に口元を歪めた。
記憶はない。
行き先も定まっていない。
それでも、そんな自分を照らしてくれた光から離れると決めたのは自分自身だ。
荷物を抱え直し、歩き出す。
しかし数歩歩いたところで、背後から声をかける者があった。
「――っヴィルさん!」
信じられない思いで、後ろを振り向く。
「……っ」
そこにいたのは、寝間着の上から上掛けを羽織ったネアだった。
急いで追いかけてきたのだろう。肩で息をしながら、まっすぐにヴィルを見つめている。
明日の朝まで、気づかれないはずだった。
少しの違和感も抱かれないよう振る舞ったはずだ。
それなのに、なぜ。
どうして。
一番会いたかった相手が。
一番会いたくなかった相手が、今、目の前にいる。
「ネア、さん……」
名を呼ぶ声が、みっともなく掠れた。
黙って出て行こうとしたことに気づかれてしまった。その罪悪感と後ろめたさに、目を合わせることができない。
――いや。
本当は違う。
今ここでネアの顔を見たら、もう離れられなくなることがわかっていた。
「どうして……気づいたんですか。音も気配も、ほとんど消していたはずです」
視線を合わせないまま問いかける。
ネアは少し言葉に詰まった後、迷うように口を開いた。
「昨日のお祭りの帰り道から、なんとなく気づいていたんです。もうすぐここを出ていくつもりだって……。ヴィルさん、ずっと遠くを見つめていましたから。だから、眠れなくて……。ずっと起きてたら、裏口の扉が開く音がして、それで」
途切れ途切れにそう口にした後、ネアがぎゅっと、寝間着のスカートを握りしめるのが見えた。
「ここにいるのが、嫌になりましたか? ……それとも、わたしが」
「違います。――違うんです」
「だったら、どうして……!」
一歩、また一歩とネアが近づいてくる。
「どうして、黙って出て行こうとしたんですか……っ?」
あと数歩、手を伸ばせば届きそうなところにネアが来た時、ヴィルはたまらず声を上げた。
「来ないでください」
びくりと、ネアが足を止める。
「ヴィルさん……」
名を呼ぶ声は震えて、今にも泣き出しそうだった。
「お願いです。……それ以上、近づかないでください」
ネアが一歩近づくたびに、決意が崩れていく。
これ以上声を聞けば。
顔を見れば。
手を伸ばせば。
もう旅立てなくなることはわかっていた。
「私は……」
言葉は続かなかった。
ここを出て行くと自分で決めたくせに、ネアを前にすると、こうも簡単に決心が鈍るとは。
ふたりの間を、夜風が吹き抜けていく。
「……ごめんなさい」
重い沈黙を先に破ったのは、ネアのほうだった。
諦めたような、自嘲するような。悲しみを帯びた、力ない笑い混じりの謝罪。
思わず顔を上げたヴィルの視線の先で、ネアは傷ついた顔をしていた。それでも、必死で泣くのを堪えていた。
「困らせるつもりはないんです。ただ、わたしは……。せめて、お礼とお別れを言いたくて」
引き留められるのだと、思っていた。
だが――ネアは昨日の夜から、ヴィルが出て行くことを悟っていた。その時から、覚悟していたのだろう。
ネアの肩が震えている。
寝間着を握る手に力がこもり、指先は白く染まっていた。
「――覚えていますか? セルジュに絡まれたわたしを助けてくれた日のこと。何もできなかった自分を責めるわたしに、ヴィルさんは言ってくれました。〝悪いのは、人の気持ちも考えず自分勝手に振る舞ったあの男だ〟って……」
もちろん覚えている。
あの時のネアは、ヴィルを心配させまいと無理に笑顔を浮かべ、気丈に振る舞っていた。その様子に痛々しさすら覚え、セルジュへの怒りが更に募った記憶がある。
「ちゃんと話すのは初めてですけど、わたし王都にいた頃、婚約者に捨てられたんです。そのせいであらぬ噂を立てられて、職場もクビになって……」
ネアが寂しげに笑う。
これまで彼女が、ヴィルの前で自分の過去をきちんと語ることはほとんどなかった。酔った時に一度、それらしい話題を口にしたことはあるが、それきりだ。
「今思えば、あの頃のわたしはずっと誰かの顔色ばかり窺っていました。……自分が悪いんだって思っていたんです。嫌われたのも、捨てられたのも、全部」
きっと、人に話すのにはとても勇気のいることだったのだろう。
けれど今、ネアは勇気を出してその話をヴィルにしてくれている。
聞かないわけには、いかなかった。
「でも、ヴィルさんは違いました。ヴィルさんはいつだって優しくわたしを気遣ってくれて、前向きになれる言葉をくれて……。ヴィルさんのおかげで、わたしは少しだけ、自分に自信が持てたんです」
ネアが胸元のネックレスにそっと触れた。
花灯祭でヴィルが贈った、青い石のネックレス。
彼女の白い肌と紫紺の髪に、よく映えていた。
「おしゃれをしていいんだって思えたのも、わたしがわたしのままでいていいんだって思えたのも、全部ヴィルさんのおかげでした」
ネアは一度だけ目を伏せ、そしてもう一度ヴィルを見つめる。
「だから、本当は――」
そこで言葉が止まる。
言おうとした言葉を呑み込むように唇を噛み締めたネアに、ヴィルは静かに声をかけた。
「……救われたのは、私も同じです」
ネアが目を見開く。
「記憶もなく、行く当てもなく、何者かもわからないまま目を覚ました時は……正直に言えば、不安でした」
暗闇の中に、たったひとりきりで放り出されたような孤独感。
そして自分のことが何ひとつわからない不安と恐怖。
「そんな私を、あなたは疑いもせず受け入れてくれた」
温かな食事。
他愛ない会話。
穏やかな日常。
それが、どれほどヴィルの心を救ってくれたことか。
「……あなたが、暗闇の中にいる私に光を与えてくれたんです」
ヴィルの言葉に、ネアが瞳を潤ませる。
それでも、彼女は泣くまいと歯を食いしばっていた。
「だからこそ、はっきりさせたい。自分が何者なのかを。そうして、もし――」
もし、ネアの前に再び立つ資格があるのだとすれば。
その言葉を口にすることは、さすがにできない。そう思って、口を噤んだ。
だが――。
「もし……。もし、旅を終えてあなたの心に誰もいなかったら……。そうしたら、また、戻ってきてくれますか……?」
虚空に消えた言葉を、ネアがそのまま口にする。
ヴィルは、はっと息を吞んだ。
ネアはきっと気づいていない
今、ネアがどれほど彼女自身にとって残酷な願いを口にしたのか。
旅がどれほど長引くかもわからない。
記憶が戻る保証もない。
戻った先で何が待っているのかもわからない。
そんな不確かな未来に、彼女は自分の貴重な時間を差し出そうとしている。
それがどれほど尊く、どれほど愚かで。
そしてどれほど愛おしい願いなのかを。
「ネアさん……」
胸が痛かった。
どうしようもなく嬉しいのに、それ以上に、彼女の無垢な心が苦しかった。
本当なら、待たなくていいと言うべきなのだろう。
自分のことなど忘れてしまえばいい。
いつか彼女を心から愛してくれる誰かと出会い、幸せになってほしい。
ネアには、その資格がある。
だからこそ、こんな男の帰りを待たせることはあまりにも惜しかった。
けれど――。
涙を堪えながら、それでも懸命に自分を送り出そうとしているネアを前にして、その願いだけは拒めなかった。
「……その時」
ヴィルはゆっくりと目を閉じる。
そして、小さく息を吐いた。
「その時、あなたがまだそう思っていてくださるなら」
ずっと我慢していたのだろう。涙腺が決壊したように、彼女の目からとうとう涙が零れだした。
泣きじゃくりながら、ネアが懸命に言葉を紡ぐ。
「……っ、ヴィルさん」
「――はい」
「わがままばかり言って、ごめんなさい。最後にもうひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
「……なんなりと」
「一度でいいんです。一度だけ、抱きしめて――」
ネアがすべて言い終えることはなかった。
それより早く、ヴィルが彼女の身体を抱きしめたからだ。
放り出した荷物が、ドサリと地面に落ちる。
「……っ」
ネアが息を呑む気配が伝わってくる。
これ以上、彼女に言わせたくなかった。
これ以上、自分の理性を試されたくなかった。
腕の中に収まった身体は驚くほど華奢で、腰も肩も、少し力を込めれば壊れてしまいそうだった。
ネアの髪から、肌から、花のようなはちみつのような甘い香りがする。
何度も近くで感じていたはずなのに、こうして抱きしめるとどうしようもなく愛おしかった。
ネアもまた、震える手でそっとヴィルの背に腕を回す。
服越しに伝わる温もり。
規則正しく、けれどきっと、いつもより速い鼓動。
小さな吐息。
互いの存在を確かめ合うように腕に力を込めながら、ふたりはただ静かに抱きしめ合う。
この温もりを忘れないように。
この匂いを忘れないように。
この瞬間を失くさないように。
どれほどそうしていただろう。
やがてヴィルはゆっくりと抱擁を解き、ネアから一歩離れた。
本当は離したくなかった。
ネアは涙でぐしゃぐしゃになった顔を赤く染め、それでも懸命に笑おうとしていた。
「……ありがとうございました。わがまま、聞いていただいて」
声は震えている。
それでも彼女は、もう泣いてはいなかった。
最後まで気丈に自分を送り出そうとする姿にさえ、名残惜しさを感じてしまう。ヴィルは未練を断ち切るように、荷物を持ち直した。
「……それでは」
それだけを告げる。
ネアは涙を拭うと、小さく頷いた。
「はい」
そして、いつもの優しくあたたかな笑顔を浮かべた。
「行ってらっしゃい、ヴィルさん」
いつも川辺を走る時、買い出しに行く時、ヴィルを送り出すのと全く同じ言葉で。
だからヴィルも、いつもと同じように笑った。
「行ってきます」
そうして、暗闇の中を歩き出した。
いつもお読みいただきありがとうございます。
本編少ししんみりしてるのですが、作者は常に「くそっ…じれってーな。俺ちょっとやらしい雰囲気にしてきます」のマインドでいます(知らない方はググってね)




