22.決心
帰りの馬車の中は、静かだった。
他の乗客が楽しそうに祭りの思い出を語る中、ネアとヴィルは並んで座り、互いに言葉を交わさずにいた。
気まずいわけではない。
ただ、どちらからともなく沈黙を選んでいた。
流れていく夜景を眺めながら、ネアは胸元のネックレスにそっと触れる。
今日一日の出来事が、夢のようだった。
手を繋いで歩いたこと。
一緒に出店を回ったこと。
花火を見たこと。
そして――願い事をしたこと。
(花火にかけた願いが叶ったら、どうなるんだろう……)
ちらりと隣にいるヴィルに視線を向けると、彼は空を眺めていた。
細い三日月の浮かんだ空には、たくさんの星がちりばめられている。
ヴィルは一体何を考えているのだろう。
その視線の先に、何を見ているのだろう。
やがて馬車が大きく揺れ、御者が声を上げる。
「ネグリン五区だよ!」
「行きましょう」
「はい……」
乗車した時と同じように、ヴィルが手を差し出してくれる。手を借り、地面に降り立つ。
他に降車する者はおらず、ネアとヴィルは並んで川沿いを歩き始めた。
祭りの喧騒から離れた夜道は驚くほど静かで、聞こえるのは川のせせらぎと二人分の足音。
時折、遠くのほうから梟の鳴き声も聞こえてくる。
相変わらず、ふたりの間に会話はなかった。
ただ、並んで歩くだけ。
それだけのことが幸せで、だからこそ鼻の奥がつんと痛くなる。
ヴィルは、相変わらず空を眺めていた。
手を伸ばせば届く距離にいるのに。
その横顔が、酷く遠かった。
§
翌朝、ルヴェナが琥珀亭にやってきた。
祭りの翌朝、話があるから来てほしい――。
そう言っていたにも拘わらず、カウンターで珈琲を飲んでいるヴィルを見て、彼女は心底つまらなさそうな顔をする。
「なぁんだ、結局泊まってこなかったの~? ちょっと期待してたのに」
「こんな身元不明の男が、手を出していいわけないでしょう」
「身元不明じゃなかったら出してたんだ?」
からかうような言葉に、ヴィルは黙秘を貫く。それに答えてしまうこともまた、自分の立場では許されないことだと思った。
「ネアちゃんはまだ寝てるの?」
「ネアさんは毎日、決まった時間にしか起きてきませんからね」
そう。だからこそ、ルヴェナをこの時間に呼び出したのだ。
ネアに決して聞かれないように。
「――それで、話って何?」
ルヴェナがヴィルの隣に腰掛ける。
問いかけに、ヴィルはしばらく沈黙したままカップの中で揺れる珈琲を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「近々、ここを出ていこうと思っています」
その言葉に、ルヴェナは驚かなかった。
「そう」
まるで最初から分かっていたと言わんばかりに、軽く相づちを打つ。
「近々って、いつ?」
「そうですね。明日の深夜にしようかと。元々大して荷物はありませんし、旅は身軽なほうが楽ですから」
「随分急ね。ネアちゃんには……伝えないの?」
「伝えたら、きっと決心が鈍ってしまうので。……昨夜、祭りへ行ってよく分かりました」
楽しそうな笑顔も。
嬉しそうに目を輝かせる姿も。
花火を見上げていた、美しい横顔も。
このまま一緒にい続けたら、きっともっと手放せなくなる。
「もし、彼女に〝行かないで〟と言われたら、私はきっと従ってしまいます。泣かれでもしたら、なおさらです」
だから言えない。
言ってはいけない。
家族がいるのかも、婚約者がいるのかも、帰りを待つ誰かがいるのかもわからない。
そんな男が、未来ある若い女性の人生を縛る資格などない。
「だから、ネアさんが眠っているうちに出て行きます。決心が揺らがない内に」
「……あなたって、本当にネアちゃんのことが好きね」
呆れたような感心したような声で言った後、ルヴェナは少し寂しそうに笑った。
「わかったわ。そこまで考えているっていうなら、止めはしない。ただ……ひとつだけ、お願いを聞いてもらってもいい?」
「もちろんです」
ネアはもちろん、ルヴェナにも大変世話になった。
自分にできることなら、なんでもしたい。
頷くヴィルの目の前で、ルヴェナは自身の持っていた鞄から小さな銀色のプレートを取り出した。
プレートの表面には『ベルレイン商会特別通行証』の文字が目立つように彫られている。その下には『本札を携える者はベルレイン商会の保護下にある』という記載も。
「うちの商会の特別通行証よ。よほどの僻地なら知らないけど、大抵の場所では役にたつと思う。少なくとも、宿探しと馬車の手配くらいなら融通してもらえるわ」
「いけません、店長。こんな大事な物……!」
ヴィルは即座に首を横へ振った。
これは、商会の信用そのものと言っていい品だ。
身元不明の自分が預かっていい代物ではない。
しかしルヴェナは気にした様子もなく、プレートをヴィルの手に握らせる。
「いいのよ。無事に旅を終えて、ちゃんと返しに来て」
「……店長」
「死ぬのも、行方不明になるのも、また記憶を失うのも却下。だってその通行証は貸すだけで、あげるわけじゃないんだから」
有無を言わせぬ口調でそう言ってから、ルヴェナは少し表情を和らげる。
「ネアちゃんには黙って送り出してあげる。でもね。記憶が戻ろうと戻るまいと、帰ってくる場所くらいは、残しておきなさい。これが、あたしからの〝お願い〟」
ヴィルはしばらく何も言えなかった。
手のひらに収まった冷たい銀のプレートが、不思議なほどに温かく感じられた。
この先、記憶が戻るかもしれない。
戻らないかもしれない。
自分が何者なのかも、どこへ向かうべきなのかもわからない。
そんな男に、それでも帰ってきていいと言ってくれる人がいる。
その事実が胸に沁みた。
思えば記憶を失ってからというもの、自分はずっと居場所を探していたのかもしれない。
だが、いつの間にかそれはもう与えられていた。
琥珀亭という場所に。
やがてヴィルは、小さく目を伏せる。
「……ありがとうございます。必ず、返しに来ます」
それは約束だった。
ルヴェナに対しての。
そして、自分自身に対しての。




