16.温かな場所に、帰ってきました
目覚めた時、ネアの目の前には見慣れた天井が広がっていた。
上半身をゆっくりと起こし、深呼吸をする。
微かな珈琲の匂いと、愛用のアロマの香り。どこかほっとする温かな気配。
――助かったのだ、と。
否、助けてもらったのだと。
それだけで理解した。
安堵が胸いっぱいに広がり、そしてすぐに不安へと変わる。
ヴィルの言うとおりに目を瞑り、耳を塞ぎ、魔法計算式を唱えることで気を逸らしてはいた。
しかしそれでも、その場で起こった出来事の全てを遮断できていたわけではない。
塞いだ耳に微かに届く、セルジュの悲鳴。
再び目を開けた時、ネアの前にはヴィルが視界を塞ぐように佇んでおり、セルジュの姿は見えなかった。
が、ネアは確かに見た。
ヴィルの拳に、白いシャツに、鮮血の痕があるのを。
――コンコン。
突然に、扉を叩く音が響く。
「……ネアさん。起きていますか?」
聞き慣れた低い声に、肩がぴくりと震えた。
「は、はい。どうぞ入ってください……」
促してすぐ扉が開かれ、ヴィルが顔を出す。
彼の片手にある小さな木盆の上にはマグカップが載っており、湯気を立ち上らせていた。
「蜂蜜入りのホットミルクです。よかったら」
「ありがとうございます」
差し出されたマグカップを受け取ると、手のひらにじんわりとした熱が広がっていく。
しばしその温もりを確かめた後、ネアはゆっくりとホットミルクを口にした。
蜂蜜の優しい甘さに、強張っていた肩からふっと力が抜ける。
「……美味しい」
ぽつりと零れた言葉に、ヴィルが僅かに目を細めた。
「……どこか、痛いところはありませんか? 具合が悪いとか、吐き気がするとか」
「大丈夫です。どこも問題ありません」
「よかった……」
大きく安堵のため息をつくヴィルの姿は、もうすっかり、ネアの知っている普段の彼だ。
穏やかで、優しくて――助けに来てくれた時の、あの凍てつくような空気はもう片鱗すらない。
「ヴィルさんのほうこそ、どこか怪我したりしてませんか?」
ネアの問いかけに、ヴィルが軽く目を瞠るのが見えた。
彼はぎゅっと眉根を寄せると、どこか辛そうな顔をする。
「私のことなんて、気にしなくていいんですよ」
「でも、心配です。それに……ヴィルさんはどうやって、わたしのいる場所を知ったんですか? あの部屋の側には、あの男――セルジュの従者だっていたはずです」
駆けつけたヴィルは、手に斧を持っていた。
だがセルジュの従者とて、護衛としての心得はあったはずだ。
もし、ヴィルが怪我をしてしまったのだとしたら、それはきっと迂闊に誘拐された自分のせいだ。
「わたしが……わたしのせいで、あなたを危険な目に遭わせてしまった。それに、きっとセルジュからの報復だって――」
「ネアさん」
悪い方にばかり傾く思考を止めるような、少し強めの呼びかけだった。
いつの間にか俯いていた顔をぱっと上げると、ヴィルが真剣な眼差しでネアを見つめていた。
「こんな時にまで自分を責めないでください。あなたは被害者です。悪いのは全てセルジュと、その行いを止められなかった者たちです」
「ヴィルさん……」
「それに、報復の件でしたら心配はいりませんよ。今、店長がランベル子爵邸に話し合いに行っています」
思いもよらぬ展開に、ネアはまたたきを繰り返す。
「伯母さまが? 大丈夫、なのでしょうか……」
ランベル子爵がどのような人となりなのかは知らないが、あのセルジュの父というくらいだ。
平民である伯母が話し合いに行ったところで、せいぜい門前払いが関の山。最悪、不条理な言いがかりを付けられ酷い目に遭わされるのではないだろうか。
顔を曇らせるネアに、ヴィルが苦笑を浮かべる。
「ネアさんは、店長が経営する貿易会社がどの程度の規模なのかご存じですか?」
「い、いえ。でもそういえば伯母さまが前に〝そこそこの会社〟と仰っていたような……」
「イルフェン地方の貴族のほとんどは、店長の商会から流れてくる品と資金がなければ立ちゆきません。魔道具の素材、香辛料、薬品、燃料……。そこそこ、なんてとんでもない。あなたの伯母上は、この地方の物流と商流を実質的に牛耳っている存在です」
想像もしていなかった規模感に一瞬理解が追いつかず、思考停止してしまう。
あの、ルヴェナが?
いつものんびりとした口調で、おっとりと笑っている伯母が?
「ちなみに王都にも支部があるそうです」
「ええっ!?」
付け足された一言に、更に開いた口が塞がらなくなる。
伯母がそんなに凄い人だなんて、少しも知らなかった。
「ランベル子爵も財政難の折にかなり助けられたそうで、店長には頭が上がらないのだとか。ですから、本当にあなたが心配することは何もないんです」
ネアを安心させるように穏やかに言ってから、ヴィルは続ける。
「……恐らく、セルジュは子爵家の後継の座から外されることでしょう。エレノール様も、その件についてはランベル子爵に強く訴えると仰っていました」
「エレノール様が……?」
思いも寄らぬ名前に、ネアは目を見開く。
いつもセルジュと共に琥珀亭に来ていた、双子の妹。彼女はネアのことを嫌っていたはずだ。
複雑な表情から、何を考えているのか伝わってしまったのだろう。
ヴィルは眉を下げ、小さく息を吐いた。
「今回、私をあなたのいた離れの監禁部屋に案内してくれたのは、エレノール様です」
「え……?」
「急に言われても混乱しますよね。今からあの時のことを、順を追って説明します」
そう言うと、ヴィルはネアが誘拐された時のことを話し始める。
リーゼが琥珀亭に掛けこんできて、ヴィルに助けを求めたこと。
巡察隊は頼りにならず、ネアを救出するためには直接子爵邸に赴かねばならなかったこと。
近所の顔馴染みから馬を借り、それに乗って子爵邸に駆けつけたこと。
ちびちびとホットミルクを啜りながら、ネアは信じられない思いで耳を傾けていた。
馬に乗るには――それも乗りこなすには、特別な訓練が必要だ。普通の平民では、まず馬に跨がることすら難しいだろう。
子爵邸は二区。琥珀亭のある五区からそこまで辿り着くには、少なくとも二十分は馬を走らせ続けなければならない。
「斧は店の裏手に保管してある薪割り用を拝借しました。ですが……うっかり子爵邸に忘れてきてしまいましたね」
軽くそう言うと、ヴィルは話を続けた。
「子爵邸に駆けつけた私を、門衛は追い返そうとしました。ですがそこにエレノール様がやってきて、私を通すよう命じてくれたんです」
エレノールは以前より、兄がネアの誘拐及び監禁計画を立てていたことを知っていた。
だが、それを誰かに打ち明けることはしなかった。
ネアが兄のものになってしまえば――ヴィルの側にいる邪魔な女が消えると思ったからだ。
「ですが、実際にあなたが誘拐されてきたのを見て。眠らされたあなたが離れに運び込まれるのを見て、エレノール様は急に怖くなったそうです」
好きな人が自分のものになるかもしれない、という甘美な夢想は、兄がこれから犯すであろう罪への恐怖にかき消された。
エレノールは確かに善人ではない。
だが、兄の犯罪に見て見ぬふりを貫けるほど悪人ではなかった。
「その後はまあ……。従者たちにも多少抵抗されましたが、その。少し強引に通らせてもらいました」
「あの斧で……ですか?」
「まさか! 武器なんて使いませんよ。うっかり殺してしまっては、こちらも無罪ではいられませんからね」
あまりにも自然にそう口にするものだから、逆にネアは何も言えなくなる。
セルジュの従者は、ネアの見た限りでも四人。だけど屋敷にいた人数を含めると、それどころの人数ではなかっただろう。
数の上では、明らかに不利だった。
しかしヴィルはそれをいとも簡単に制圧した上、命を奪うことすら可能だったと言うのだ。
(ヴィルさんは、一体……)
以前冗談で口にした、裏社会のボスという言葉がにわかに現実味を帯びる。
だが、少なくとも今目の前にいるヴィルという人は、傷ついたネアを気遣う優しいひとりの男性でしかなかった。
「あの……。わたし、あの後からの記憶が曖昧で」
「あの後?」
「ヴィルさんが立てるかと言って、わたしに手を差し伸べてくれた辺りです。急に息が苦しくなって、目眩がして――」
その後ヴィルと何か会話を交わしたような気もするが、朦朧としていてあまり覚えていない。
覚えているのは、身を蝕む恐ろしいほどの熱と、容赦のない渇望。
あの時、確かにネアは何かを強く欲していた。だが、その『何か』がなんなのか、本人であるネアにも正体がわからない。
「多分、セルジュに妙な薬を飲まされたせいだと……。あれはなんの薬だったんでしょうか」
「――毒の一種です。ですが安心してください。エレノール様が解毒剤を持っていたので、すぐに飲ませました。もう体内には残っていませんし、後遺症の心配もありません」
「そうですか……。それならよかったです」
胸の奥に張り付いていた不安が、ようやく少しずつ解けていく。
あの苦しさも、身体を焼くような熱も、もう完全に消え去ったのだ。
それに何より、ヴィルがいつものように穏やかな表情で傍にいてくれることが、ネアにはひどく心強かった。
「……本当に、何も覚えていませんね?」
何かを確認するように、ヴィルが少し緊張した面持ちで問い掛ける。
「? はい。ご迷惑をお掛けしたことくらいしか……」
もしかすると今後ランベル子爵との話し合いの上で、ネアの証言が必要になることを見越しているのかもしれない。
だとすれば、途中から詳細を覚えていなくて申し訳ないことだ。
俯くネアとは正反対に、ヴィルは目に見えて安堵したように肩の力を抜いた。
「それならよかった」
ぽつりと零された声からは、先ほどまでの緊張は消えており、少し力が抜けたようにも聞こえる。
ずっと、心配してくれていたのだ。
その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……ヴィルさん。助けに来てくださって、本当にありがとうございました。ヴィルさんはわたしの恩人です」
改めてそう告げると、ヴィルは少し気恥ずかしそうに笑う。
「……当然のことをしたまでです」
蜂蜜入りのホットミルクから、甘い香りが立ち上る。
心地のよい静けさの中で、ネアはようやく、自分が帰ってこられたのだと実感していた。




