14.危機に、瀕しました
【注意】
※女性に対する暴力的・性的な脅迫を含む描写があります。苦手な方は、次の話をお待ちください。
頬を軽く叩かれる衝撃に、意識が覚醒した。
どうやらしばらくの間、意識を失っていたらしい。
最後の記憶は、布のような物を口に押し当てられたことと――あの、鼻を刺すような甘い香り。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、ぼやけた視界の向こうで、セルジュがネアの顔を覗き込んでいた。
「お、やっと起きたか」
にやついたその顔に、ぞっと背筋が冷える。
慌てて身を起こし、周囲に視線を巡らせると、そこには見知らぬ部屋が広がっていた。
ワインレッドのカーテンに、ところどころに金の装飾が施された濃い灰色の壁。調度品は高価な物ばかりだが、どれもこれもギラついていて趣味が悪い。
「ここは――」
「僕の家だ。君が眠っている間に、ここまで連れてきた」
誘拐した、の間違いだろう。
訂正したところで、この男が耳を貸すはずもないが。
「ベッドの寝心地は気に入ったか? 君の――いや、君と僕のために一流の職人にあつらえさせたんだ。ベッドだけじゃない。カーテンも、調度品も、浴室にある湯船だって、全部君を思いながら選んだんだぜ」
あまりに不快なセルジュの言葉に、吐き気がこみ上げてくる。
ネアを連れ去る直前、セルジュは『もう君を迎える準備は整ってる』と言っていた。
つまりこの部屋は、ネアを愛人として囲うためだけに用意された檻なのだ。
「……気持ち悪い」
「あ?」
思わず零れた呟きに、ピクリと、セルジュが片眉を上げる。にやついた笑みは瞬く間に消え、瞳には確かな怒りが宿っていた。
それでもネアは怯まなかった。
「勝手に人を攫っておいて、何が〝僕たちのため〟ですか! あなたはただ、自分の思い通りにならない相手を無理矢理閉じ込めているだけです!」
「黙れよ、ネア」
低く押し殺したような声が、ネアを制止しようとする。
だが、ネアはそれを鼻で笑って無視した。
「愛人? 冗談じゃない。誰が、あなたみたいな最低男の愛人になんてなるものですか!」
決して、怖くない訳ではない。
傍若無人なセルジュが、己の意に背く相手をどのように扱うか、想像しただけで恐ろしかった。
ヴィルに出会う前のネアだったら――。
あるいは、暴力の気配に怯えて震えることしかできなかったかもしれない。
己の身に起こった不遇を嘆きながらも、最後は諦めて、無気力にセルジュに従っていたかもしれない。
それでも、ここで屈するわけにはいかないと思ったのは、ヴィルが言ってくれたからだ。
『あなたは何も悪くない。悪いのは、人の気持ちも考えず自分勝手に振る舞ったあの男だ』
あの時ネアの心を救ってくれたヴィルの言葉が、今、恐怖に怯えるネアに勇気を与えてくれている。
「わたしは絶対に、あなたの思い通りにはなりません!! ――〝ソール・マイト〟!!」
それは五級魔法士には使用が禁じられている、上級魔法の呪文。だけど――空から雷を呼ぶこの呪文であれば、屋敷の外の人間に異変を知らせられるかもしれない。
だが、そんな期待は直後に打ち砕かれた。
――魔法が、発動しない。
それどころか、魔力の波動すら感じない。
「……え?」
全身の血の気が引いていく。
虚空に伸ばしたネアの手――その両手首に嵌められた金色の腕輪が、鈍く光っている。
それは今のネアにとって、絶望の色に他ならなかった。
「くっ、あはははははは! 忘れたのか? 言っただろ、魔力を封印させてもらうってな」
心底愉しそうに、セルジュが腹を抱えながら笑う。
まるで、溺れた犬を棒でつついて喜ぶ子供のような残酷さで。
「っ――」
背筋を悪寒が駆け上り、ネアは転がるように寝台から飛び降りる。
窓はひとつしかなく、人が通れる大きさではない。だとすれば、逃げるなら扉から外に出るしかない。
しかし着地の瞬間、膝ががくりと揺れた。
嗅がされた薬がまだ残っているせいだろうか。身体の感覚が妙に重い。
それでもネアは力の入らない足を叱咤するように、扉へ駆け出した。
逃げなければ。
早く。
一刻も早く。
そうして扉を開けようとした瞬間――。
「痛っ……!」
背後から乱暴に髪を鷲づかみにされる。
「黙って甘い顔してりゃ、付けあがりやがって……」
セルジュの声から先ほどまでの気障な空気は完全に消え失せ、剥き出しの苛立ちが滲んでいた。
「いやっ、やめて! 痛い……!!」
抵抗するネアを引きずるように、セルジュが髪を乱暴に引っ張る。ぷつぷつと何本か髪の抜ける音がしたが、彼が力を弱める気配はなかった。
痛みに顔を歪めるネアを、セルジュはそのまま強引に寝台へ連れ戻す。
仰向けに倒れたネアの上に圧し掛かると、息がかかるほど至近距離で顔を覗き込み、愉悦の笑みを浮かべた。
「大人しく従えば優しくしてやろうと思ってたが……。どうやらネアは、乱暴にされるほうが好みらしいな?」
「やめて! 離して……っ!」
四肢を押さえ込まれ、動きを封じられる中、なんとか藻掻いて逃れようとする。
しかしセルジュは小さく舌打ちをすると、そんなネアの頬を平手で打った。
熱すら感じるような、鮮烈な痛み。
そして、口中に広がる鉄錆の味。
誰かにこんな風にぶたれたことなど、今まで一度もなかった。
それゆえに、これまで必死で保っていた平静が音を立てて崩れそうになる。
「多少の抵抗は場を盛り上げるスパイスにもなるけど、あまりに暴れられると興ざめだぜ?」
「ひっ……」
「ああ、ほら。せっかくの可愛い顔がこんなに赤く腫れて、勿体ない」
凍り付き身動きのとれないネアの頬を、セルジュがそっと撫でる。
優しい手つきはしかし、今この瞬間、ネアにこれ以上ないほどの恐怖を与えていた。
ガクガク震えながら目を潤ませるネアに、セルジュはたった今暴力を振るったことが嘘のように穏やかな笑みを向けた。
「ネアも痛いのは嫌だろう? 僕も、できれば優しくしてやりたいと思ってる。だから――君にはほんの少し、素直になる薬を飲ませてやろう」
「な、何を……」
「誰か! 例の薬を!」
扉の外へ向かって、セルジュが声をかける。
間もなく従者がやってきて、銀盆の上に載せた小瓶をセルジュに差し出した。
「助け――」
一縷の希望を胸に従者へ声を掛けるが、彼はネアを一瞥もしようとせず去って行く。
扉を閉じる音と共に、室内には再びセルジュとネアのふたりだけが残された。
「さあ、ネア。口を開けて」
「嫌――」
「口を、開けるんだ」
顔を背け、なんとか飲むまいと唇を噛みしめる。
しかしセルジュはそんなネアの顎を掴み、強引に正面を向かせた。
鼻を摘ままれ、酸素を求めるため口を開いたところに、小瓶の中身を流し込まれる。
どろりとした液体が、喉にへばりつきながら胃に向かって流れ落ちていった。
「っ、ごほ……っ!」
舌にまとわりつく、不自然で不快な甘さ。
即座に吐き出したかったが、セルジュがそれを許さない。
ネアの喉の動きで、薬を飲み下したのを確認したのだろう。
「ははっ、無理矢理飲まされるのは嫌か? だけど、すぐに楽になるさ」
上機嫌なセルジュの指先が、震えるネアの唇をなぞる。
彼はその手で自身のタイを緩めると、遠慮なくネアに顔を寄せた。
額に、頬に、首筋に。
セルジュの唇がなぞるように触れ、時折舌が肌を舐っていく。
そうしている間にもセルジュの手がワンピースの裾をたくし上げ、むき出しになった太股を撫でる。
その全てが――まるで、なめくじが肌の上を這い回っているような不快さだった。
「っ、嫌……」
気持ち悪い。
怖い。
逃げたい。
そう思うのに。
「ほら――身体が熱くなってきただろう?」
身体の奥はセルジュが言うように、じわじわと熱を持ち始めている。
呼吸が浅くなる。
頭がぼうっと霞み、心臓だけがやけに速く脈打っている。
(なに、これ……)
まるで身体と心が完全に切り離され、身体だけが何か自分とは違う、別の物に浸食されていくようだ。
「ほら、素直になれよネア。そうすれば、たっぷり可愛がってやるから――」
獣のように爛々と目を光らせながら、セルジュが、無情にもネアの唇を奪おうと迫る。
荒い鼻息を間近に感じても、もはやネアには、ぎゅっと目を瞑ることしかできなかった。
そして今にも唇と唇が触れそうになったその瞬間。
――ガンッ!
鈍い轟音が響いた。
分厚い扉が大きく軋み、蝶番が悲鳴のような音を立てる。
「……なんだぁ?」
セルジュが訝しげに振り返る。
――ガンッ!
二度目の轟音と共に、重厚な扉が内側へ大きく歪んだ。
――ガンッ!!
三度目。
蝶番が砕ける音が響く。
「なっ!? おい、一体何が起こって――」
初めて、セルジュの声に明確な焦りが浮かんだ。
――ガンッ!!
四度目。
扉に大きな亀裂が走る。
そして。
――ガンッ!!
五度目の衝撃と共に、破壊された扉が地響きのような音を立てながら、室内へ倒れ込んだ。
濛々と立ち上る埃の向こう。
そこに立っていた男を見た瞬間、ネアは目を大きく見開く。
「――ヴィル、さん……?」
斧を手にしたヴィルが、静かにそこに佇んでいた。




