13.静かな激情
そろそろネアが帰って来る頃だろうか。
食器を磨きながら、ヴィルはいつになくそわそわした気持ちで、飴色の壁掛け時計に何度も目をやる。
幸いにしてピークを過ぎた店内に客はおらず、ヴィルの浮ついた行動を見とがめる者はいない。
(ネアさんが帰ってきたら、まず謝罪しなければ)
昨日の自分の物言いは、自立したひとりの女性にかけるものとしてあまりに礼を欠いたものであった。
心配ゆえにと言えば聞こえはいいが、裏を返せばそれは確かにネアの言ったとおり、彼女を信頼していないからということになる。
それに――実のところヴィルがあれほど頭にきたのは、彼女の身を案じたからというだけが理由ではない。
あの時頭によぎったのは、露出の多い華やかなドレスで甘えたように男にしなだれかかるネアの姿。
一晩悶々と悩み、辿り着いた答えがそれなのだから笑えない。
結局のところヴィルは、ネアの好意に気づかないふりをしながら、彼女のその感情が別の男に向けられることを恐れていたのだ。
なんと滑稽なのだろう。
ネアの好意に答える資格がない――というのが、自己保身のための綺麗事でしかなかったなんて。
『じゃあ、もしヴィルさんが――実は貧しい旅人でした、ってなったら? 借金持ちで、その日食べるにも困る生活を送っていたら? ネアちゃんは、彼に恋をしなかったと思う?』
『……いいえ。きっと、好きになってました』
ルヴェナの問いに、迷いなくはっきりと答えたネアの声が、今も耳に残って離れない。
あの言葉を聞いた瞬間、ヴィルの胸にこみ上げたのは間違いなく、どうしようもないほどの歓喜だった。
まっすぐに自分を慕ってくれる、ネアが愛おしかった。
くるくるとよく変わる表情。
『ヴィルさん』と自分を呼ぶ、明るい声。
傷ついた心を抱えながらも、懸命に前を向こうとする健気な眼差し。
そして自分の気持ちに向き合った今だからこそ、綺麗ごとではなく理解してしまった。
(もうこれ以上、踏み込んではいけない)
ネアに笑いかけられるたび。
無防備に名前を呼ばれるたび。
取り返しのつかないほど、彼女を欲してしまう自分がいる。
(たとえ貧しい借金持ちでも、彼女は私を好きになると言ってくれた。……だが、もし私が既婚者だったら? 恋人や婚約者がいたら?)
ネアは婚約者に裏切られ上に魔法塔を解雇され、伯母であるルヴェナを頼ってここまでやってきたのだと聞いている。
もし、自分までもが彼女にそんな思いを味わわせることになったら――。
(私は自分で自分を赦せない)
拳を握りしめた、その時だった。
――カランカラン!
いつもより激しいベルの音と共に、店の出入り口が激しく開け放たれる。
「いらっしゃいま――」
「すみません! あの、ここにセレネアさんって方が働いていらっしゃいませんか!?」
ヴィルの言葉を遮るように焦った様子で声を張り上げたのは、見覚えのない若い娘だった。
茶髪に、緑の目。年の頃はネアと同じくらい。白いエプロンを見るに、どこか飲食店の従業員だろうか。
乱れた髪や息を切らした様子から、恐らく辻馬車の停留所からここまで走ってきたことが窺える。
「セレネア・フェルンは確かにうちの従業員ですが……。どうされました?」
外出先で怪我でもしたのだろうか。あるいは、具合を悪くして倒れでもしたか。
ただごとではない娘の様子に不安を煽られ、フォークを磨く手が止まる。
「ああ、よかった。琥珀亭って言っていたから、ここで間違いないと――」
ヴィルの言葉に、娘は安堵した表情を見せた。
しかしそれも一瞬のこと。
「ネ、ネアさんが……」
再びネアの名前を口にした途端、彼女はたちまち顔を歪ませ、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「ネアさんが……っ、領主の息子に連れ去られて……っ」
――ガシャン!
ヴィルの手から磨きかけのフォークが滑り落ち、耳障りな音を立てる。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
次いで、心臓を冷たい刃で抉られたような感覚が走る。
(ネアさんが? あのセルジュという男に?)
その事実を理解した途端、頭の奥から余計な熱がすべて消えた。
「ヴィルさん、今の音は何!? そのお嬢さんは――?」
金属音を聞きつけたルヴェナが慌てて店の奥から顔を出すが、その問いに答えている余裕はなかった。
「……ネアさんは、どこへ?」
唸るような低い声が、その場に落ちた。
娘はびくりと肩を震わせ、それでも気丈にヴィルの質問に答える。
「さ、攫われたのは三区の辻馬車停留所の近くです……! 屋敷に連れて行くって……ネアさんのこと愛人にするって……」
一体、どこまで腐りきっているのか。
セルジュがネアを目当てに店に来るたび、追い払っていた。そうしている内に、いつか諦めるだろう――と。
だがこんなことになるなら、警告だけで済ませるべきではなかった。
そしてなにより、ネアをひとりで出歩かせるべきではなかった。
己の失態に、自分自身にも怒りがこみ上げる。
恐らくセルジュが町中でこれほど強硬な手段に出たのは、簡単に手に入ると思っていたネアが中々自分の物にならない焦りもあったのだろう。
「巡察隊にも助けを求めたのに、相手が領主の息子だからって取り合ってくれなくて……。私……。わ、私、何もできなくて……」
「落ち着いてください、お嬢さん。あなたの責任ではありません」
泣きじゃくる娘を宥め、ヴィルはルヴェナを振り向く。
「店長。……少し、席を外します」
「待って、あたしも行くわ。領主のランベル子爵には大きな貸しがあるの。長いこと病で伏せっているようだけど、面会を希望すれば――」
「それでは遅い」
断ち切るようにルヴェナの言葉を遮ると、ヴィルは店のエプロンを脱ぎ捨てた。
胸の奥では煮えたぎるような怒りが渦巻いているはずなのに、頭だけが異様なほど冷えている。
「これ以上、あの男の側に置いておけない」
自分でも驚くほど、冷え切った声だった。
「ネアさんは、必ず私が連れ戻します」




