11.本音を、知られてしまいました
明くる朝。
ネアは厨房で、朝食のサンドウィッチとスープを作っていた。
心は昨日と変わらずうち沈んだまま――むしろ寝不足のせいで、昨日よりずっと重くなっている。
みずみずしいレタスやトマトを切り、ベーコンを炒め、目玉焼きを作る。
トーストの焼き目も完璧で、いつも以上に美味しそうなサンドウィッチができあがった。
普段なら、そんなことでさえ嬉しくなって『今日は良い日になるかも』などと前向きな気持ちになれたものだ。
しかし今は、そんなことで気分が上がるような心境ではない。
『お酒を注いで、愛想よく笑って終わりだとでも思ったんですか』
昨日、ヴィルに言われた言葉がまだ、頭の中でぐるぐる回っている。
『客に手を握られることも、腰を抱かれることもあるでしょう。酔った男に絡まれることや、それ以上に酷いことだって――』
(そのくらい、わたしだってわかってるのに……)
突き放すような物言いと表情、冷ややかな目を思い出すと、つんと鼻の奥が熱くなり、目の縁にじわりと涙が浮かぶ。
『平民出身の五級魔法士に任せる仕事なんてない』
『ノルディス伯爵の口利きだから仕方なく入れたけど、あなたって本当頼りにならない役立たずねぇ』
かつて魔法塔で上司や同僚に言われた言葉が、今更ネアを苦しめる。
面白がってネアを貶めていた彼らとヴィルは、違う。
ヴィルがネアのことを心配して、あのような厳しい発言をしたことも、本当は頭では理解している。
だけど――。
好きになってしまった相手だからこそ、余計にあんな言い方が苦しかったのかもしれない。
(少しくらい、わたしのこと信用してくれたって……)
胸の奥のモヤモヤがどんどん膨れていき、このままでは抱えきれなくなってしまいそうだ。
皿に料理を盛り付けていると、階段を降りてくる音が聞こえた。
ほどなくして、ヴィルが姿を現す。
「……おはようございます」
僅かに振り向いて挨拶をしたネアに、ヴィルは居心地の悪そうな顔を向けた。
「おはようございます。あの、昨日は――」
「朝ご飯用意しておきました。わたしは食欲がないので、ひとりで召し上がってください」
何事かを言いかけたヴィルに背を向けたままそう伝えると、ネアは余り物のスープを白雪ノ舟に入れる。
この白雪ノ舟という魔法道具は、庫内に刻印板――正式名称『魔法術式刻印板』による氷冷魔法を施した、箱形の食品保管庫だ。
一般家庭には中々普及していない高級品だが、食材を扱う飲食店では重宝されている。特に琥珀亭のような喫茶店にとって、生乳や果物を長持ちさせられる恩恵は大きい。
「では、わたしは開店準備まで二階で休んでいますので、何かあったら呼んでください」
必要なことだけを早口で言い終え、ネアはそのままさっさとヴィルに背を向け、階段を上っていった。
途中、ちらりと背後を気にし、ヴィルが追いかけてきていないことに落胆する。
そんな身勝手な自分に、ほとほと嫌気がさした。
ヴィルに失礼な態度をとっておきながら、一体自分は何を期待しているのだろう。
後悔するくらいだったら、初めからあんな態度をとらなければよかったのに。
(だから、子供扱いされるのかな……)
ネアがもっと、ヴィルの心配を素直に受け取れるような性格だったら、彼からも信用されたのかもしれない。
店が開いてからも、ネアの気持ちが晴れることはなかった。
伯母や親しくなった常連客に話しかけられても、どこか上の空。オーダーミスをするわ、食器を落とすわ、釣り銭を渡し忘れそうになるわ、散々だった。
幸いにして今日はほとんどが常連客で、ネアの失敗を温かく見守ってくれるばかりか、具合でも悪いのかと心配させてしまう始末である。
ヴィルのサポートもあり、今のところ大きな失敗には繋がっていないが、そのことが余計にネアを落ち込ませた。
(ヴィルさんはいつも通りなのに、わたしって迷惑かけてばかり……)
沈んだ心に自己嫌悪まで加わり、昼食時を過ぎる頃にはネアの気分は浮上不可能なほどになっていた。
「――ちょっとちょっと。ネアちゃん、あなた今日変よ」
伯母がネアを厨房に呼び出し、そう言ってきたのはちょうど昼のピークが過ぎ去った頃だった。
ヴィルは表で売り上げの計算をしており、厨房には伯母とネアのふたりきりである。
「大丈夫? また具合悪くなった?」
「ご迷惑おかけしてごめんなさい……。具合が悪いわけじゃないんです。ただ……」
「ただ?」
「……ヴィルさんに、嫌われたかもしれません……」
口にするなり、自身の発言が重く心に圧しかかる。
目の奥が熱を持ち、視界が涙で滲んだ。
「ヴィルさんと喧嘩したの?」
ふるふると、首を横に振る。
喧嘩だったら、どんなによかったことか。
喧嘩というのは、対等な相手同士でやるものだ。でも、今回のこれはネアが一方的に腹を立てているだけ。
至極真っ当なことを言ったヴィルに対して、子供のように理不尽な怒りをぶつけてしまった。
「あー……」
うつむき、唇を噛みしめるネアをルヴェナは困ったような微笑を浮かべながらしばらく見つめていた。
やがて彼女はネアの背を、そっと温かい手で抱き寄せる。
「……ヴィルさんのこと、好きになっちゃった?」
いつから気づいていたのだろう。疑問の形を取りながらも、伯母のその発言は確信に満ちていた。
抱きしめられたまま、こくりと頷く。そのはずみで目から涙がこぼれ落ち、止まらなくなった。
「っ、好きになったらいけない人だって、わかってるんです……っ。でも……」
青灰色の目を、少し細めて笑う顔が好きだ。
いつもネアを気遣い、柔らかな言葉を紡いでくれる形のよい唇も。
落ち着いた仕草や、穏やかな低い声も。
たまに見せる、慌てたような表情も全部。
「名前も、年齢も、出身地すら知らないのに……っ」
彼の全部が好きで、だからこそ苦しかった。
口にして初めて、ネアは気づく。
自分は何も、彼に信頼されていないという思いだけであんなに頭にきていたわけではない。
いつかいなくなる相手に心配され、もっと好きになってしまうことが怖くて――知らず知らずの内に、そんな不安から自身を守ろうとしていたのだ。
ただの八つ当たりだったのだと気づいた瞬間、自分のみっともなさが堪らなく恥ずかしくなった。
しゃくり上げ、泣き続けるネアの背中をぽんぽんと優しくたたきながら、伯母は優しく語りかける。
「でも、恋って苦しいものよ。好きになるのに理由や条件を並べて止まれるなら、誰も苦労しないわ」
「伯母さま……」
実感のこもった言葉に、もしかすると伯母もかつてどこかで、苦しい恋をしたことがあるのかもしれないと思った。
顔を上げたネアに、ルヴェナは優しく問いかける。
「じゃあ、もしヴィルさんが――実は貧しい旅人でした、ってなったら? 借金持ちで、その日食べるにも困る生活を送っていたら? ネアちゃんは、彼に恋をしなかったと思う?」
ネアは涙を拭うことも忘れ、大きく瞬きを繰り返した。
そんなの、考えるまでもない。
「……いいえ。きっと、好きになってました」
たとえ彼がどこの誰だったとしても。
きっとネアは、あの穏やかな声に安心して。
優しい笑顔に胸を高鳴らせて。
やっぱり今と同じように、恋をしていたと思う。
「それでこそあたしの姪っ子よ!」
ドン、と伯母が気合いを入れるように豪快にネアの背を叩く。
その衝撃に、涙も引っ込んだ。
「もう伯母さまったら、痛いです!」
十九歳にもなって、伯母の腕の中でボロボロ泣いた気恥ずかしさをごまかすように、あえて軽い口調で言う。
「ごめんごめん」
ルヴェナは軽い調子で謝罪すると、改めてネアの顔を見つめた。
「早いとこヴィルさんと仲直りしなさいよ~……と言いたいところだけど。その顔じゃ、戻りたくないわよね」
「……そんなに酷い顔、してます?」
「そりゃもう。目は真っ赤っかだし、瞼は腫れてるし、いかにも〝泣きました〟って顔よぉ」
それは困ったことだ。
ヴィルに泣き腫らした顔を見られるのが気まずいのはもちろん、そんな顔で接客をするわけにもいかない。
客が喫茶店に来るのは、緩やかで落ち着いた空気や美味しい珈琲を楽しむためであって、見るからに落ち込んだ店員を気遣うためではない。
「目を冷やしたらマシになるでしょうか……」
困り果てているネアを見て、伯母は少し「んー……」と悩んだ後「そうだ!」と両手を打ち鳴らした。
「ほら、こないだ天井のランプの調子が悪くって刻印板を修理に出したじゃない? ちょうど今日、修理が終わる予定だったのよぉ。ネアちゃん、あたしの代わりに受け取りに行ってくれる?」
「は、はい。もちろん――」
「それじゃこれ、修理代ね。おつりでお菓子とかアクセサリーとか、何か好きなもの買ってらっしゃい。女の子はいつだって笑顔が一番なんだから」
伯母なりの優しい気遣いが、弱っている心に染みる。ネアはしっかりと頷き、伯母に手を振って店を後にした。
「……聞いてた?」
ネアが去った後、ルヴェナは振り向きもしないまま、物陰に向かって問いかけた。
「――わざと聞かせたんでしょう」
渋い顔をしたヴィルが、物陰から姿を現す。
どこから聞いていたのか――なんて、彼のその表情を見れば明らかだ。
「あら、濡れ衣よぉ。あなたが勝手に盗み聞きしただけでしょ」
ルヴェナは口元を覆い、しれっとヴィルに罪をなすりつけた。
もちろん、それで納得するヴィルではなかったが。
「あんなにあからさまにネアさんだけ呼び出しておいて、聞きに来いと言っているようなものです。店長も人が悪い」
「でも、あなたも薄々気づいてたんじゃなぁい?」
ルヴェナの問いかけに、ヴィルの眉間の皺がますます深くなる。
彼は額を押さえながら、小さくため息をついた。
「気のせいだったら、よかったのですが」
「……迷惑?」
「いいえ。ですが――こんな正体不明の男に向けられるには、ネアさんの感情はあまりにもまっすぐで眩しい。想いを受け取る資格もないのに……気づいているなんて言えませんよ」
自嘲するように微笑んだヴィルが、更にこう付け加える。
「それなのに……これ以上あの微笑みを向けられたら。こちらの箍まで外れてしまいそうになる」
「あなたも難儀な人ねぇ。多分、記憶が戻ってもその律儀でドが付くほど真面目なところは変わらないと思うわ」
「からかわないでくださいよ、こんな中年を」
「あら。あたしからしたら、あなたもネアちゃんもそう変わらないわよ」
もう五十も半ばを過ぎたルヴェナにとって、四十だろうと十九だろうと、年下には変わりない。
ふたりとも若くて、不器用で、だからこそ必死でもがいている姿を愛おしく思う。
恐らく記憶を失う前から、若造扱いに慣れてはいないのだろう。
困惑した顔のヴィルに、ルヴェナはにやりと笑ってこう付け足した。
「安心なさい。ネアちゃんもあれで相当頑固だから」




