10.閉ざされた扉
洗い物を終えた後、ネアは「顔を洗ってきます」と照れ笑いを浮かべながら、先に二階へ上がっていった。
片付け残したものがないか店内を見回したヴィルはふと、厨房の台の上に放置されている物に気づく。
(これは、ネアさんが持って帰ってきた――……)
大量の紙と、雑貨店の紙袋。
赤く腫れた目のことを気にするあまり、これらの存在を忘れてしまったのだろう。
(いやしかし、勝手に触ってもいいものだろうか)
二階へ持って行こうと手を伸ばしかけ、直前で思いとどまる。
女性の私物に勝手に触れるなんて、気色悪いと罵られても文句は言えない。
ひとまず忘れ物はここに置いておき、ネアには後で声をかけるとしよう。
そう決めて自身も二階へ上がろうとしたヴィルだったが、不意に、チラシに書かれていた文字が目に飛び込んでくる。
『高級酒場・給仕大募集!』
『お酒と会話でお客様を癒やす、簡単なお仕事です』
『未経験・容姿や接客に自信がある方大歓迎。華やかなドレスの貸与・個室接客手当あり』
『特別なお客様への対応が可能な方は更に優遇いたします』
羅列された文章は明らかに普通の酒場ではなく『色を売り物とした夜の店』のための求人情報である。
「……は?」
自分でも信じられないほど、低い声が零れた。
『女性の私物に勝手に触れるなんて』という躊躇いは完全に消え去り、ヴィルはむんずと数枚のチラシを引っ掴むと、三段飛ばしで階段を駆け上がる。
二階では、ちょうど顔の保湿を終えたところらしいネアが、洗面所から出てくるところだった。
「あれ。どうしたんですか、そんなに慌てて珍しい――」
のんきに笑っている彼女にずかずかと大股で近寄ると、ヴィルはやや緊張しながら口を開く。
「ネアさん、正直に話してください」
「え? は、はい」
尋常ではないヴィルの様子に気づいたのだろう。ネアもまた、少し緊張した面持ちで答える。
「――失礼ですが、もしかしてお金に困ったりしていますか?」
「い、いえ。前の職場で貯めたお金がまだ残っていますし、伯母さまからきちんとお給金をいただいてますから」
だったらなぜ! と詰め寄りたい気持ちを堪え、ヴィルはなるだけ冷静に話を続けようと深呼吸を繰り返した。
「でも、新しい職を探しているんですよね?」
「へっ!? どうしてヴィルさんがそれを――」
「これは、職業斡旋所でもらったんですか?」
ヴィルが差し出した数枚のチラシを見た瞬間、ネアの肩がびくりと跳ねた。
「あ、えっと……その……」
露骨に目を逸らす彼女に、ヴィルは額を押さえたくなる。
接待酒場の意味を知らずに、軽い気持ちでチラシを貰ってきたのだと言ってくれたほうがまだよかった。
だがネアのこの反応は、接待酒場というのがどういうものか、少なくともある程度は分かっている者の反応だ。
「まさか、本気で働くつもりだったんですか?」
「ち、違います! ただ、魔法関係のお仕事が全然なくて……!」
「だから、繋ぎで働こうと? 接待酒場がどういうことをする場所か、わかっていて?」
ネアは十九歳。立派な成人だ。
だから彼女が接待酒場で働くことを選ぼうと、赤の他人であるヴィルには口出しする権利はない。
それなのにふつふつと、自分でも理由のわからない怒りが腹の奥からこみ上げ、胸の奥を焦がす。
「お酒を注いで、愛想よく笑って終わりだとでも思ったんですか」
低く抑えた声に、ネアの肩がびくりと震えた。
「客に手を握られることも、腰を抱かれることもあるでしょう。酔った男に絡まれることや、それ以上に酷いことだって――」
「っ……ヴィルさん、話を──」
「それでも、働けると?」
セルジュに腰を抱かれただけで青ざめていたネアの姿が、脳裏を過ぎる。
(そんな場所に、この娘が? ――冗談じゃない)
ぐしゃりと、ヴィルの手の中でチラシが音を立てて歪んだ。
その瞬間。
「ですから!」
今まで黙っていたネアが、珍しく声を張り上げた。
「働く気なんてありません! 斡旋所の人に勝手に押しつけられただけです!」
「ネアさん――」
「確かに、わたしはヴィルさんよりずっと年下です! 頼りなく見えるのかもしれません! でも、そんなふうに言われなくたって、危ない仕事だってことくらい分かってます!」
ハァハァと肩で息をしながら、ネアがヴィルを睨みつける。その濃い紫の瞳には涙が浮かんでおり、迫力はまったくなかった。
けれど。
「……ヴィルさんも、わたしのこと世間知らずの役立たずだと思ってたんですね」
なぜだろうか。
力なく落とされたその呟きが、今にも泣き出しそうな表情が、どんな鋭い刃物よりも強くヴィルの胸を抉る。
「っ、ネアさん、私は――」
言い訳をしようとした。
だが、言葉は乾いた喉にひっかかり、出てこなかった。
(大体、なんと言うつもりだ)
あなたを危険から守りたくて?
そんな場所で働いてほしくなくて?
――それは、ヴィルの身勝手な感情ではないのか。
そもそも自分は、何者なのだ。
名前も。
身分も。
過去すら曖昧な、素性の知れない男。
ネアに拾われ、住む場所を与えられているだけの居候に過ぎない。
そんな自分が、彼女の生き方に口を出す資格などあるのか。
下手な言葉を重ねれば、余計に彼女を傷つけるだけかもしれない。
「もう、部屋に戻ります。失礼します」
沈黙したままのヴィルに律儀にぺこりと頭を下げ、ネアが自身の部屋に引っ込む。
固く閉ざされた扉を見つめたまま、ヴィルはしばらくその場から動けなかった。
『ヴィルさんも、わたしのこと世間知らずの役立たずだと思ってたんですね』
(違う)
そんなこと、一度だって思ったことはない。
だが、ネアの部屋の扉を叩く勇気も資格も、今のヴィルにはなかった。




