09.間接キス、しちゃいました
確かに、世の中には弱者を装い他人を害そうと目論む者もいると聞く。
(でも、ヴィルさんが悪人?)
そんなの、今は想像も付かない話だ。
だからネアは、正直に答えることにした。
「考えもしませんでした。それに、ヴィルさんは実際すごくいい方ですし」
「信頼してもらえるのは嬉しいですが、わかりませんよ? もしかすると記憶を失う前の私は、大悪党だったかもしれません。例えば犯罪組織のボスとか」
「ふふ。だとしたらきっと、すごく部下から慕われてるボスだったんじゃないかと思います」
大勢の部下に囲まれ、ワイングラス片手に葉巻を吸っているヴィルは、それはそれですごくしっくり来る気もする。
ネアの言葉に、ヴィルは眉を下げて絶妙な笑みを浮かべた。
「それは、褒め言葉として受けとってもいいのでしょうか」
「もちろんです! 黒い毛皮のコートを着て、ふわふわの白猫を撫でてるヴィルさんなんて、すごく格好いいと思います」
下心なしの純粋な感想だったが、言い終えた後に『格好いい』なんて余計なことを口にしたと気づき、赤面する。
だがヴィルは、特に追求することもなく降参するように両手を軽く挙げる。
「……まったく、あなたには敵いませんね」
そのまま自然な手つきで、白ワインのグラスに手を伸ばした。
ヴィルがグラスを、指先でゆるく持ち上げる。
透き通った蜂蜜色の液体が、照明の灯りを受けてゆらりと揺れた。
ヴィルは一度静かに香りを確かめるように目を細め、それから薄い唇がグラスの縁に触れる。
ゆっくりと喉を鳴らし、飲み下したあと、ヴィルは小さく息を吐いた。
「……なるほど。これは確かに、オレンジのタルトによく合いますね」
低く落ち着いた声に、ネアの心臓がまた大きく跳ねる。変に意識しないと決めたばかりなのに、どうしてこんなにも、ひとつひとつの所作に反応してしまうのだろう。
(だってヴィルさんが、いちいち色っぽいから!)
動揺を振り払うように無理矢理ヴィルに責任転嫁し、ネアはウィスキーの瓶を手に取り、中身の減ったグラスに注いだ。
「ありがとうございます」
ヴィルは酒と共に。
そしてネアは珈琲と共に。
ふたりしてケーキを味わい、そして時折、空いたグラスにまたネアが酒を注ぐ。
そうしてケーキを食べ終える頃、ネアはふと気づいた。
「ヴィルさん……なんかすごく、お酒に強くないですか?」
「そうでしょうか?」
「だって、あんなに飲んだのに顔色ぜんっぜん変わってないですよ!」
合計でウィスキーを三杯と、白ワインを二杯ほどだろうか。少し陽に焼けたヴィルの肌はいつも通りの色をしており、まったく赤くなる気配がない。
今思えば、飲むペースも異常に早かった気がする。
「これ、本当にお酒なんですか?」
あまりの変化のなさに、ルヴェナが瓶の中に別の飲み物を入れていたのではないかと疑ってしまう。
「飲んでみますか?」
「えっ」
「先ほどからずっとネアさんにお酌していただいてたので、お返しです」
先ほどまでヴィルが飲んでいたグラスを軽い調子で差し出され、ネアは石のように固まった。
(い、今ヴィルさん、このグラスで飲んで……っ)
ヴィルに深い考えがないことは分かっている。だが、ほんの数秒前まで彼の唇が触れていた場所を凝視してしまい、心臓が一気に暴れ出す。
「ネアさん? ――あ、すみません。まだお酒が飲める年齢ではなかったでしょうか」
ここレメディア王国では、酒を飲めるのは十六歳以上と定められている。
まさかヴィルの目に、自分はそこまで子供っぽく映っていたのだろうか。
気遣わしげなヴィルの表情に、ネアは軽いショックを受けつつも、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「い、いえ! わたし! もう十九歳ですから!」
ウィスキーは飲んだことがないが、これまでルシアンに伴われていった社交の場で、シャンパンくらいは口にしたことがある。
「いただきますっ」
震える手でグラスを受け取ると、そこにヴィルがウィスキーを三分の一ほど注ぐ。
ネアは覚悟を決めるようにグラスを口元へ運び、一気に煽った。
その直後。
「っ!? ごほ、ごほっ!」
喉が焼けるように熱い。
舌の上がぴりぴりと痺れる。
咳き込みながらもなんとか飲み込むと、今度は鼻の奥へつんとした刺激が抜けた。
慣れない刺激に、目尻にじわりと涙が滲む。
「だ、大丈夫ですか!?」
「だ、だいじょうぶ、です……っ。ごほっ。ウィスキーって、こんなに強いお酒だったんですね……っけほ、けほ……っ」
ヴィルがあんなに平然と飲んでいたので、自分も飲めるだろうと思い込んでいたが、とんでもない。
「ヴィルさんって、本当にげほっ、お酒に強いんですねぇ……ごほっ」
ヴィルを安心させようと喋るたび、口の中に残る酒の刺激が邪魔して、喉がひりつく。そうして涙目になりながら答えるネアの様子が、よほど痛々しかったのだろう。
「落ち着いてください、ネアさん。喋らなくていいですから」
いつになく慌てふためいたヴィルが、咳き込むネアの背中を大きな手でさすり始めた。
優しいぬくもりと心地よい力加減に、段々と喉の違和感も落ち着いていく。
(ああ、なんだかすごく、良い気持ちかも……)
撫でられるたび、ぽかぽかと身体の内側から温かくなっていくよう。
それは小さな頃、母の胸に抱かれた時のような安心感に似ていた。
「ありがとうございます、ヴィルさん。もう大丈夫ですよぉ」
「そうですか? それならよかったですが……。ネアさんがまさか、こんなにお酒に弱いとは……」
「弱くありませんよぉ! ちょっと……ひっく、驚いただけです……ひくっ」
やけにしゃっくりが出るが、不快な感覚ではない。
なんだか無性に楽しくなってきて、ネアは意味もなくクスクスと笑い声を上げる。
「――ネアさん、もしかして酔ってます?」
「酔ってませんってばぁ! ふふ、ちょっとふわふわして、ぼーっとする……だけ、ひくっ」
「それを、世間では酔っていると言うんですよ……」
困ったような、呆れたような声でそう言うなり、ヴィルが無言で椅子から立ち上がる。
どこかへ去って行く彼の背中をぼんやりと見送りながら、ネアは残ったウィスキーを空にすべく、グラスを口元に運ぶ。
全て飲み終える前に戻ってきたヴィルは、そんなネアの姿にぎょっとしたように目を見開いていた。
「何を飲んでいるんですか、ネアさんっ!」
「? 何って、ウィスキーですけど……ひっく」
「それは見ればわかります! あなたはもうこれ以上飲んだら駄目です!」
「でも、残したらもったいないですし……」
「だったら私が飲みますから! あなたはこっち!」
完全に酔っ払いと化したネアの手から半ば強引にグラスを奪い去ると、ヴィルは代わりに水の入ったコップを差し出した。
どうやら彼は、ネアのために水を汲みに行ってくれていたらしい。
「わぁ、ありがとうございます!」
ネアがコップに口を付けたのを確認し、彼はそのまま残ったウィスキーをごくごくと飲み干す。
ぼーっとその様子を眺めながら、ネアはへらりと笑った。
「これって、間接キスですねぇ」
「げほっ……!!」
口元を手の甲で覆いながら、ヴィルが盛大に噎せる。少しばかり、酒も噴き出してしまったようだ。
彼の手の甲からは、ぽたぽたと琥珀色の雫が零れている。
「ネアさん!? いきなり何を言うんですか!」
「ふふ、ヴィルさん慌ててる。珍しい~」
「っ――~~~~」
酔っ払いに何を言っても無意味だと悟ったのだろう。ヴィルは前髪をくしゃりと掻き上げ、押し黙る。
それからしばらく経ってもヴィルは軽く俯いたまま、口を開くことはなかった。
ずっと黙っているヴィルを見て、酔って浮かれたネアも段々と心配になってくる。
さっきまであんなに楽しかったはずなのに、胸の奥が急に苦しくなってきた。
「……怒っちゃいました?」
「いえ、怒ってなんかいません」
そう言うヴィルはやはり相変わらず俯いたままで、ネアと視線が合うことはない。
「でも、呆れてますよね? わたしが、変なこと言った、せいで……」
堪えていたのに、語尾が涙で滲む。
声が震えたことに、ヴィルも気づいたのだろう。怪訝そうに顔を上げたヴィルが、ネアの頬を濡らす雫に気づくなり、驚いたように目を見開く。
「ネッ、アさん!? えっ、なぜ泣いて……」
「いつもこうなんです。ルシアンも〝お前はいつも気の利かない発言ばかりして、イライラする〟って言ってましたし……。本当に、ごめんなさい……」
ルシアンのことなんて、もはやどうでもいい過去のことだったはず。
悪いのは、身勝手な行動をした彼のほうだ。
――頭ではわかっている。
だが、酔って心が不安定になっているのだろうか。
今更になって当時のことを思い出し、勝手に落ち込んでしまう。
「あの、本当に怒っているわけではなくて! ただ少し、動揺しただけですからね?」
「やっぱり、嫌でし――」
「嫌ではありません!」
ぐしぐしと泣きながら言うネアの言葉を遮るような、勢いのよい即答だった。
ヴィル自身、それを口にしてから気づいたように目を見開く。
「あ、い、いえ! 嫌じゃなかったというのはネアさんの発言に対してで、グラスを共有したことに関してはその、私が迂闊だったと言いますか……」
大慌てで言い訳をしているヴィルを見ている内に、沈んでいた気分が段々と浮かび上がってくる。
この様子を見ていると、本当に、彼は怒っていたわけではなさそうだと信じることができた。
「あの、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、わたしのほうこそ、びっくりさせちゃってごめんなさい」
その頃には段々と酔いも冷めてきて、自身の不安定な言動が急に恥ずかしくなってくる。
ネアが気まずそうに視線を逸らすと、ヴィルもまた、どこか居心地悪そうに咳払いをした。
そして次の瞬間、ふたりの視線がふとぶつかる。
「……ふふっ」
「……はは」
どちらからともなく、照れ隠しのような笑い声が零れた。
「それじゃあ、そろそろ片付けましょうか」
椅子から立ち上がったヴィルが、空になった食器をまとめ始める。
ネアもケーキの入っていた箱を畳みながら、あらためてヴィルに頭を下げた。
「その、今日はご迷惑をおかけしました。せっかく、お礼をしようと思ったのにとんだ醜態を……」
「いいえ。私でよければ、いつでも話し相手になりますよ」
そう言うと、ヴィルは苦笑しながら付け加える。
「でも、次からネアさんは飲酒禁止です」
優しい言葉は、ネアの胸を自然と弾ませる。
(次があるんだ……)
ヴィルがそう言ってくれたことが、心底嬉しかった。
ヴィルさんに下心はありません、今のところ。




