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抗い 結ぶ  作者: すら氏
第1章「ネズミは闇夜に溶けはしる」
6/23

第6話 【承②】前

 〇


 第八支部とシンが呼ぶこの敷地は、穏やかそうな気候の場所にある。

 ローゼンヴァルト領の居城周辺より暖かいし、樹木の種類が多い。

 地面に咲く花の種類も多く、知らない花が多い。


 敷地全体は、山の中腹、軽く抉れたような盆地にある。

 正面には谷があり、他の3方は崖や急斜面となっていた。上から見下ろされづらく、下からも木々で視界が遮られ、ここにそれがあると知らねばまず見つからないだろう。

 街道(かいどう)は谷の外側だ。


 敷地内の移動は自由だ。というか、移動以外も不自由はない。

 その気になれば逃げだすことも出来ると思う。この谷地からどう降りるのかもわからないが、出てしまえばなんとかなるのではないか。

 それでも拘束や柵が要らないのは、むしろ『完全なる秩序』との契約の重さと、それへの信頼の証に思われた。破れば即座に罰があるのだろう。

 


 敷地内。敷地の中心には、最初に連れてこられた円形の大聖堂がある。

 木造の居住区はその周りに沿うように建てられていて、出入りには大聖堂を通る必要があった。

 アタシ以外の構成員もいるが、すれ違うだけで会話はほぼない。ただ、家族単位の人はいないようだった。

 炊事場も洗濯場所も天然浴場も。リタに案内された、岩肌の温泉は気持ちが良かった。

 炊事場の中心にいるのはほぼリタだ。食事時になると、めいめいが炊事場へ行き、盆に盛られた食事を受け取って自室へ戻る。

 見たことのない食材や調理法が多い。豆を発酵させたものだという茶色のスープは、変わった味と匂いだが美味しい。

 家族はいないのに、案外下働きのリタのような子供は多い。掃除も洗濯も。一生懸命働いている。

 住み込みで、子供は共同部屋としているようだった。その部屋を管理する構成員も、読み書きを教える部屋もある。

 見慣れぬアタシを遠巻きに見ている。興味深そうに、近くまで寄ってくる幼い子もいた。どう声を掛けていいかわからないので、まだ話してはいない。


 支部長であるフェルナーは、大聖堂周辺の居住区には住んでいない。

 保管庫とシンが呼ぶ、契約存在を保管・管理する宝物庫のような場所が、敷地内の少し離れた場所にあり、隣接する石造りの建物を自室としていた。

 

 これが、初日のうちにアタシが見て取れた、第八支部の概要である。


 〇


「サキ、フェルナーが呼んでいる。急ぎらしい。一緒に来てくれ」


「そうか」


「昨夜は、部屋から綺麗な光が出ていた、と子供たちが噂していたぞ。与えたものは無いはずだが、何か運びこんだのか?」


「……別に、何も」


「別に(とが)めるつもりはない。何か使ったのかと思っただけだ」


 支部に(とら)われて2日目。朝食後に自室にいたところをシンに呼ばれる。

 仕事、とやらをさせられるのだろう。

 昨晩の光、と言うのは魔力の訓練のことだろう。狭い場所でも、精密動作や集中持続、出来ることはいくらでもある。

 だが、子供たちを驚かせてはマズイ。学院の寮では安全のためにやっていたが、ここで魔力に光を込めるのは考えた方が良いかもしれない。


 アタシに与えられた部屋よりずっと広い支部長フェルナーの自室には、金属製の調度がやけに多かった。

 香炉も、細工箱も、鏡も、知識として知ってはいるし、他の貴族の館で見たこともある。

 学院の中でも、どれだけ美しいものが家にあるかという自慢話をする者もいる。自分にとって価値があるものであっても、相手がそれに価値を感じるかはわからないのだから、話題に出すことに品があるとは思えない。

 ローゼンヴァルトの館には、どれもあまり縁がない。あってももっと実用本位で、こんなふうに光沢や飾りだけを前に出した品ではなかった。

 魔力を使うのであろう古い燭台など、動いているところを初めて見た。アンティーク趣味の男なのだろうか。


「来たか、ヴェルザキーナ。お前には、我が組織の工作員として仕事へ行ってもらう。内容は……シンを同行させる。そこで聞け。期限は……そうだな、明日の昼までとしよう」


「わかった」


 一枚板の豪奢な机。それを前に座るフェルナーは、聖堂で遠くから見たときよりも、狡猾に見える。

 肥えてはいても、醜いとまでは言えない。

 短く、返事をする。

 仕事の中身は気になった。だが、やらぬという選択肢はない。

 まずは、ここで生き抜く。成果を上げれば期間も短くなるらしい。……尤も、どれほど期待できるのか、わかったものではないが。


「シン、『試し』もいれておけ。どれだけやれるのか後で報告を入れてくれると良い」


「ああ。そのつもりだ」


 何と言うか、下品な、……いやらしい笑みで言うフェルナーに、シンは簡潔に返す。


「試し?」


「ヴェルザキーナ、お前は、まだ知らなくて良い」

 

 引っ掛かる言い方だったため、訊くアタシだったが、フェルナーが妙な応えをする。

 その言い方は何か含むものがあるのは明白だったが、聞きたい答えが返ってきそうにはなかった。


「では、準備をして、発つことにしよう」


 そう言って踵を返すシン。

 アタシもそれに従い、部屋を出ることにした。

 なんというか、落ち着かない部屋だ。


「待て、ヴェルザキーナ」


 背中から声を掛けられた。

 振り返るアタシに、フェルナーは言う。

 

「下級工作員の決まりだ。まずは連絡と補助に使う契約存在を持ってもらう」


「契約存在?」


 言うと、フェルナーは机上の小さな金属箱へ手を伸ばした。

 かちり、と。留め金が外れる。

 蓋を持ち上げた瞬間、中で何かがかさりと動いた。


「……っ」


 灰色のネズミが2匹、箱の内側を這っていた。

 木屑とも布屑ともつかぬものが敷かれ、呼吸の湿った熱気がこもっている。

 フェルナーはそのうち1匹の尾をつまみ上げると、ぶらりとこちらへ掲げて見せた。

 『持ってもらう』。言われずとも意図はわかる。

 低位な有機存在との契約を行えと言うのだろう。


「契約だ。やり方はわかるな」


 唇の歪んだ、いやらしい笑みを浮かべてフェルナーは言う。

 嫌悪感しかない。契約が無ければ即座に手討ちにしたいところだ。

 

「……ああ」


 屈辱に耐えながら返事をする。契約があり、『決まり』だと言う以上、拒む選択肢はない。

 フェルナーは机に茶色い簡素な布を敷くと、そこにネズミを乗せた。

 畜生、と。

 内心、毒づきながら、アタシは右手親指の爪に、肉体を強化する魔力を通す。その爪で左の手の平、下の部分を切り裂いた。皮膚が裂け、血がにじむ。

 大人しく簡素な布の上に留まるネズミ。その上部に手を近づけ、魔力を少し込め、血を垂らした。

 ネズミが、それを舐めるようにする。契約を受け入れた証だ。

 血絆(ブラッド・リンク)。契約存在との契約は、ほぼここから始まる。

 ネズミが血を舐めた瞬間、その小さな身体が淡く光った。

 その暗い灰色の輪郭がほどけるように揺れ、次の瞬間には光とともに、宙へ沈むように消える。

 血絆(ブラッド・リンク)の成立と同時に、契約の内側へと。物理的には何もない。

 契約存在は、呼ばれぬ時にはそうして契約の向こうへ退いている。アタシはそう教わった。


「ネズミとは言え、ただのネズミではない。低級だが契約を結ぶ価値のあるものだ。大事にするのだな」


「……」


 恩を着せたつもりか、丁寧にそう言ったフェルナーを睨みつけ、アタシは無言で踵を返し、部屋を出る。

 屈辱だ。

 黄金竜(グラファリエル)を失ったことは理解している。だが、その直後に、穀物を荒らし疫病を運ぶこんな汚らしい小動物へ、血を与える日が来るとは思わなかった。

 栄光をはぎ取られ、恥辱に塗れさせる。生き抜くと決めたものの、すでに誇りはズタズタだ。


「ではな、ヴェルザキーナ。期待しているぞ」


 背中から来る声に唇を噛む。

 先ほどから、必要以上に何度も名前を呼ばれている気がする。

 ただ呼ばれているだけのはずなのに、妙に肌と胸が(あわ)立った。

 まるで、名前を呼ぶのが楽しくて仕方ないというような。口の中で弄ばれているような。

 両親のつけてくれた誇るべき名だ。生理的嫌悪を抱くような男に、軽々しく呼んで欲しくはない。


 〇


 昼食後、自室で用意された外出用の服に着替える。すこしゆったりした、頭からかぶる茶色い上着に、ズボン。

 薄い外套を上から羽織る。

 外套が無ければ、どこにでもいる、アタシより少し年下くらいの町娘に見えるだろうか。外套を羽織ると旅人にも見えるので、少しちぐはぐかもしれない。ファッションにはあまり詳しくないが。

 少し待機しているとシンが来た。外套の上から荷物の入った大きな麻袋を肩から下げている。

 外套の下、腰にはアタシを襲った時と同じロングソード。

 完全に隠れる長さではないが、シンほどの体格なら、それを()いていても不自然には見えない。 目立たないと言えば嘘になるが、腕の立ちそうな旅人と思えばそれまでだ。

 

「準備は大丈夫か。行くぞ」


「ああ。だが、どこへ行くんだ? この敷地から通じる道は見当たらなかったが」

 

「各地に通じる門がある。ついてきてくれ。……ああ、第八支部の担当区域は広くてな、お前がいた王国内ではない。知り合いに顔を合わせられては、困るだろうからな」


「……ん」


 情報漏洩が契約への違背に当たるならば、知り合いに顔を見られただけでも、それに当たるのだろうか。

 怪しげな組織に関与していると勘付かれれば、罰があるのか。線引きは今のところ不明だ。


 〇

 

 シンの後について歩く。

 木造の居住区を抜けると、やがて敷地の中心にある円形の大聖堂が見えてきた。


 近くで見ると、やはり大きい。

 白とも灰ともつかぬ石で組まれた壁には、長い歳月が染みついている。風雨に削られた跡もあるのに、正面の石段と大扉だけは妙に整っている。

 滞在して日も浅く、儀式が今も行われているかはわからない。だが、ここが古くからの第八支部の中心のように見える。


 扉の前には石畳のひらけた空間がある。

 そのまま礼拝のための前庭にも見えるし、人を集める場所にも見える。

 扉の向こうには、聖堂本体へ続く石の内回廊があり、そこから居住区の各棟へも抜けられる造りだ。


 もっとも、シンは正面から堂内へ入ると、すぐ礼拝の場へ向かったわけではない。

 暗い石の回廊を少し進んだところで脇へ折れ、下へ降りる階段を示した。


「こっちだ」


 地下へ続く階段は、思ったより急で、空気はひんやりしていた。

 門が各地に通じると言われても、こうして地の底へ降りていくと、どこかへ行くというより、何かの内側へ潜っていく気がする。

 門……。門か。


 〇

 

「――ここは……? ……すごいな、これは」


 思わず感嘆の声を漏らす。

 降りて行った場所は広い空間だった。

 床面積だけで言えば、上の大聖堂よりもなお広いかもしれない。地下にこれだけ広い場所があるとは。

 磨かれたように滑らかな、見慣れぬつるりとした不思議な石で組まれた天井は高く、柱が何本も並んでいる。地下だというのに、ただの地下倉ではない。古い祭室か、何かの儀礼のための間に見えた。

 壁や床のところどころに青く光る明かりが埋め込まれていて、うすぼんやりと、部屋全体を照らしている。


 門は1つではなく、立ち並んでいた。

 空間の光量が十分ではなく、奥の方は見えない。だが、それでも相当な数があるとわかる。

 広間の床には、ところどころに大きな円環紋が刻まれ、その奥には人が2人並んで通れそうな幅の、アーチ状の石の門が立っている。

 円環紋の溝には青白い線が細く沈んでいた。近づくと、それが生き物の息のように、ごく弱く脈打って見えた。

 石の門の奥はゆらいで、よく見えない。

 契約存在が契約の内側へ消えるとき、一瞬だけ見えるゆらぎに似ていた。


「これが、我らが『門』だ。各地へ通じていて、ここから我らは旅立つ。通る条件はいくつかあるが、部外者はまず通れない。いかなる関所も検閲所も、我らには無意味だ」


 シンが淡々と――いや、少しばかり誇らしげに、門を片手で示しながら言った。

 遠く離れた地へ、人や物を送る門の存在は、聞いたことがある。自分が使うとは思っていなかった。

 きょろきょろ、と。物珍し気に辺りを見回すアタシに、不愛想な顔が、なんだか上機嫌のようにも見える。


「こっちだ。今回使うのは」


 言われるがままについていく。

 1つの門の前に立ったシンが言った。


「さあ……いや、少し待て」


 言うが早いか、シンは門のゆらぎの中へ、右半身を無造作に突っ込んだ。


「む……、問題なさそうだな」


 ごそごそとやるような動作で、何かを確認した様子のシンに尋ねる。


「どうしたんだ?」


「向こう側を確かめた。いきなり水中や、……便所の中は嫌だろう?」


「……当然だ」


 そういうこともあるらしい。

 便利なものでも、弱点はあるものだ。


 〇


 シンとともに入った門。

 一瞬、馬車に揺られて酔った時のようなふらつきに襲われる。

 眩暈(めまい)のような感覚の後、アタシとシンは見慣れぬ屋内にいた。


 積まれた木箱や麻袋。壁際には樽や、荷をまとめるための縄が雑に掛けられている。

 乾いた埃と麻布の匂い。少しだけ、古い酒か油のようなにおいも混じる。

 民家の納屋か物置だろうか。


 天井は低い。明かりはないが、板張りの壁の隙間から細い光が差していた。

 正面の壁には、荷馬車ごと入れそうな大きな両開きの戸があった。

 だが今、出入りに使えそうなのは、その脇に切られた人ひとり分の小さな戸だけだった。


「ここは……街の中か?」


 辺りを見回しながら小声で訊く。

 明らかに先ほどいた大聖堂の地下とは別な場所だ。

 どういう仕掛けかわからないが、本当に別な地へ来たらしい。

 後ろを振り向くと、小さな、門の向こうで見たゆらぎがあった。帰りもここを使うにしては、人が入れる大きさではないが。


「ああ。外れの倉庫だ。表の通りからは見つかりにくい」


 シンはそう言うと、戸口の脇へ寄り、耳を澄ませるようにして外の様子をうかがった。

 アタシも息を殺す。


 外からは、人の話し声。

 荷車の車輪が石を鳴らす音。

 遠く、怒鳴るような男の声。

 それから、甲高く笑う女の声まで聞こえた。


「……何という街だ?」


「まだ、知る必要はない」


 短く返し、シンは小さな戸を開ける。

 外は、陽の高いうちだというのに薄暗かった。


 出た先は、建物と建物の隙間に押し込められたような細い路地だった。

 両脇にはくすんだ石壁と、薄汚れた木の壁。上を見れば、洗いざらしの衣服や布切れが縄に干され、向かいの建物どうしが近すぎるせいで、空は帯のように細い。

 地面は乾き切らない汚泥と、何か汚い物を流したような黒ずみが点々と。いや点々というには、多すぎてまだらな面になっている。


 鼻をつくのは、腐りかけた生ごみ、ぶちまけた酒、獣脂、下水。

 王国の町にも路地裏はある。だが、ここはそれらを集めて煮詰めたような濃い臭気がした。

 湿気が多いせいもあるかもしれない。


「……ひどい場所だな」


「だから都合が良い」


 シンは平然と言う。

 外套の襟を少し引き上げ、路地を迷いなく進んでいく。

 アタシもその後を追った。


 細い路地を何度か折れる。

 開けた通りには出ない。表へ出れば、荷車や人通り、妙に派手な色布を垂らした店なんかが並んでいるのが一瞬見えたが、シンの足はすぐまた裏通りへ向いた。

 昼間だというのに、どこかの窓の向こうから女の媚びるような笑い声が聞こえる。

 別の建物からは、男の怒鳴り声と、甲高い罵声。

 さらに少し歩けば、また違うところから、わざとらしく甘ったるい歌声まで漏れてきた。


「……ここだ。今日の宿だな」


 シンが軽く目線で示した先に、それはあった。


 安普請の2階建て。

 板壁は黒ずみ、窓枠は歪み、入口の上に掛かった看板は字が擦れて読めない。

 扉の脇には、客引きなのか、昼間から化粧の濃い女が気だるそうに壁にもたれていた。アタシたちを一瞥し、興味の無いあくびをする。


 建物の中からは、酒と汗の匂い。

 それに混じって、昼間だと言うのに娼婦の嬌声が聞こえた。

 知識が無いわけではない。

 笑っているのか、喘いでいるのか、泣いているのか、よくわからない声だった。


「……ここに入るのか」


「ああ」


「最底辺の宿だな」


「目立たない。聞かれない。余計なことも見ない。前払いで、出るのも自由。そういう場所だ」


 言われて、アタシは黙る。

 確かに、そういう意味では隠密行動なら理にかなっている。

 だが、ここに泊まるのかと思うと、胸の奥がじわりと重くなる。

 この宿が放つ空気の濁りは、肌にまとわりつくようで苦手だった。においと雰囲気が気持ち悪くて吐き気すら感じる。


「手続きは任せてくれて問題ない。無理に話そうとするなよ」


 そう言ったシンは何でもないことのように、宿の扉を押し開けた。


 中へ入った途端、むわりと生温かい空気がまとわりつく。

 安酒と汗と、煮崩れた豆のような夕食の残り香。そこへ、キツイ香油の臭いまで混じっていて、……立ち去りたい。


 正面には、帳場(カウンター)と呼ぶには粗末な木の台があった。

 その向こうで、歳のわからぬ女が肘をついている。濃い化粧が崩れ、人相が悪い。女将なのか、ただの古株なのかもわからない。


「部屋だ。女は要らない」


 シンが短く言う。

 女はアタシをちらと見た。

 値踏みするような、だが深く興味を持つでもない視線。

 その視線が、アタシを外れ、シンへ戻った。


「妹だ」


 シンがアタシのことを説明する。

 女はふうん、と鼻で笑った。


「ふぅん、妹。……お兄さんもいい趣味してるよ」


「……」


 言うと、女は嫌な笑みでアタシとシンを見た。シンは応えない。

 木台の下から鍵をひとつ取り出し、放るように寄越す。


「3階の突き当たり。騒がしいが、文句は受けないよ」


「十分だ」


 金を払う音。

 枚数も確かめず、女はそれを引き寄せた。


 シンが顎で階段を示す。


「行くぞ」


 帳場の脇を抜け、軋む木の階段を上るシンに、無言で続く。

 2階へ上がる途中、半開きの扉の向こうに、派手な色布をまとった女の足が見えた。その向こうで男が笑っている。

 どう見ても下品な光景に視線を逸らす。見たいものではない。


 3階へ続く階段はさらに狭く、踏むたびにみしみしと鳴った。

 廊下は細く、左右に並ぶ扉のどれも歪んでいる。

 床には掃除しきれぬ埃が溜まっている。安宿というより、粗末な作業小屋に近い。


 窓は小さめで、路地の向かいの壁に光を遮られるせいか、昼だというのに部屋は薄暗い。


 2つ下の階から、女の嬌声。

 どこかの部屋から、酒に酔った男の笑い。

 少し離れたところでは、口論がそのまま喧嘩に変わったらしく、鈍い殴打音と短い悲鳴が混じる。

 誰も止めに行かない。ここでは、珍しくもないことなのだろう。

 おくびにも出さないが、正直に言えば、内心震え怯えているアタシがいる。

 慣れぬ場所に、ほとんど会ったことのない層の人々。


 廊下の突き当たりで足を止め、シンが鍵を差し込んだ。

 がちゃり、と。かみ合わせのあまり良くない鍵の金属音がして扉が開く。


「入れ」


 短く言ったシンに促され、先に入ろうとした入り口で足が止まる。

 部屋にはベッドが1つしか無かった。


 昼間から聞こえる嬌声。

 女将の嫌な笑み。

 兄妹だと告げたシンへの、あの含み。


 そこまで一息に繋がって、――悟った。

 ――アタシの純潔は、今日、ここで終わるのだ、と。


 〇

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