第3話 【起③】
〇
「本当に、申し訳ございません!」
混乱の熱と焦げた嫌な臭い、煙がまだ残る会場で、本日何度下げたかわからない頭。
パーティーを襲撃した賊どもは全員捉えられ、教師や兵士、学園の護衛たちが見張っている。
そのうちのひとりが、縛られたままなおも喚いていた。
「話が違う……! ガキどもばかりの楽な仕事って聞いてたんだぞ。……強すぎる」
この後、しかるべき場所へ連行され、事情聴取や尋問を受けるだろう。
負傷者は多数出ているが、今のところ生徒と来賓、関係者に死者は出ていない。
安否確認や会場封鎖、警備の再編に教師や大人たちは奔走している。
その傍らで、実行委員であり責任者としてのアタシは、来賓他への謝罪に駆け回っていた。
「サキ、会長。謝罪は、そろそろ大人に任せて、生徒のケアに回ってくれないか」
頭を下げ続けるアタシを見かねて、教師の1人が横からそう言ってくれる。
確かに会場を見れば、泣いている子供や呆然としている子供もいた。
そちらにも気を配るのが、首席であり生徒会長のアタシの役目でもある。大人より年の近いアタシの方が向いているのだから。
「わかりました」
そう返し、目の前の来賓たちへ、再度軽く頭を下げ、踵を返そうとしたところ。
「お嬢さんは、先ほど、ローゼンヴァルトと名乗っていたが、あのローゼンヴァルト辺境伯の家の者なのか」
目の前にいた来賓の1人、ひょろっとした白髪の老人に声を掛けられた。
そのまま去るわけにもいかず、再度その老人へ正対し、直立の姿勢を取る。
「はい! ローゼンヴァルト辺境伯であれば、私の父で間違いございません!」
実家の話を訊かれて気負い、つい力の籠った声で返してしまう。
老人は、目を細めてにこやかに笑うと言った。
「そうかそうか。父君とは若い時分に何度か轡を並べたことがある。先ほどの指揮と戦いぶり、言われてみれば、まさにあの男の生き写し。若い頃にそっくりだ。このような娘がいれば、さぞ鼻が高いであろうな」
「あ、ありがとう、ございます」
尊敬し、愛する父である。
あるのだが、その厳しい岩のような、獅子のような顔を思い浮かべてしまい、似ていると言われて、気分は複雑なところ。つい返事が詰まってしまう。
女性として、淑女として喜ぶべきなのか少しだけ悩む。
「して、父君はご健勝か?」
「はっ! 変わりなく、壮健であります!」
「それは重畳。武勇で鳴らし、王の信頼篤いローゼンヴァルトがあそこで目を光らせておるから、王国も安泰でいられるのだ。近頃は領地経営が少々うまくいっておらず、財政が苦しいと聞くが、事実であろうか?」
あくまで穏やかに話す老人の言葉に、少し胸がドキリとする。
軽く下唇の端を噛んで、その屈辱に耐えながら、答えた。
「……はい。恥ずかしながら巷の噂は事実にございます」
「そうかそうか。心配するな。ローゼンヴァルトを信頼し、恩義を忘れぬ者は王だけではない。何かあれば力になりたいと思っている者は多いぞ。……尤も、我等も、援助できるほどの金の余裕はないが」
そう言って、周囲へ、なあ、と同意を求める老人。周囲の貴族たちも、困ったような笑いを、それでも和やかに浮かべる。
「……ありがとうございます」
「うむ。ではな、ローゼンヴァルトの娘。達者で励めよ。一族の名に恥じぬよう」
「はい!」
力強く返事し、アタシは踵を返す。自分の責務に戻る。
まだあちこちに燻る煙の中を早足で歩きながら、すれ違い、泣いている女生徒の1人を励ますべく、軽く背中を叩いた。
〇
「まだあるのか。早く現場に戻りたいのだが」
「会長サマが弱音を吐くなんて珍しいじゃない」
「弱音と言うわけではないが……。みんなが心配だ。アタシが行かないと」
会場近くに設けられた仮の控室。
焦げた布と薬品の臭いが会場の方から漂っている。
署名をするための書類の束と格闘する、責任者のアタシと、同じく仮のチェックをしてくれている傍らのネモラ。
酷くショックを受けた様子の子たちに声を掛けていたところ、事務方の教師に書類仕事を頼まれた。
よって、今こうして、長机に向かい、署名の羽ペンを走らせている。
「向こうはサキがいなくても、なんとかなるわよ。他の卒業生や役員も頑張っているから。『我らユーヴィガン』を信じなさい」
「む……。ええい! 片っ端から片付けてやる」
アタシの時折出る日頃の口癖を真似して揶揄うネモラに、気合を入れてそう返す。
来賓の移送確認、会場封鎖の承認、救護班の受け入れ記録、生徒側の証言録。
もう現場は事後承諾で動き始めているものもあるが、出来上がった書類はアタシの前にどんどん運ばれてくる。
寮への帰還待機、封鎖領域の拡大、契約存在の身元確認。
1つ1つ内容を確認して。忙しい時こそミスが出る。綻びを見逃すな。
ただし、迅速に。書面の記載形式程度が間違っていようが、後で訂正も利くものはそのままに。
ひたすら羽ペンを走らせて署名を続ける。
ふう、とため息をついたそばから、追加の書面が運ばれてきた。
片端から、と勢いをつけたものの、それだけでは誤魔化しきれない数。
「まだあるのか」
「向こうが動いてる以上、こっちにも来るわよ」
ネモラが肩を竦め、上から順に紙を捲っていく。
印章、発行元、宛先、添付欄、署名欄。こういう時のネモラは本当に速い。ふざけているようで、頼りになる。
「救護班追加、夜間封鎖の増員、来賓側控室の振り分け変更……はい次、これも問題なし」
アタシの目の前へ置かれる書類。自分で確認していた書類から目を離し、ネモラがこちらへ渡してきたそれへ、署名する。
と。1つの書類を手に取った、それまで滑らかだったネモラの動きが止まった。
「……ん」
「どうした」
「いや。……何でもない。題が仰々しいだけね」
ネモラの動きが止まったこと。それ自体が気になり、アタシも覗き込む。
その書類は他より少し厚く、罫線が妙に整っていた。くすんだ深緑の飾り罫に縁どられ、表題にはこうある。
『契約災害対処に関する臨時従事同意書』
「臨時従事?」
思わず眉を寄せる。賊が契約存在を連れていたから、その処分、対処用だろうか。
ネモラは紙を傾け、印章と文書番号、欄外の小印、添付欄を、その白く長い指で追う。
そして、順にアタシに示しながら言った。
「体裁は整っていて、印章も通ってる。添付は標準約款と別表担保条項。……少し長いけれど」
小さく顔をしかめ、それでも署名欄の位置まで確かめてから、紙をアタシへ渡した。
ネモラが弾かなかった。
それだけで、胸の内に浮いた小さな違和感が少し薄れる。
アタシは書面へ目を落とした。
一条。契約災害対処のための臨時従事登録。
二条。監督者の指揮命令に服し、必要な同行、待機、事情確認その他を拒まないこと。
三条。必要時の指定施設への移送、収容、隔離その他の保全措置。
……
七条。違背があった場合、別表担保条項に従い処理。
硬い。いかにも有事の間だけ、人をまとめて動かすための文面だ。
書類の下端に、細かい字で記載がある。
『標準約款および別表担保条項を含む』
約款まで読むには長い。外はまだ喧騒と混乱の空気が尾を引いている。
ここで1枚止める方が、よほど全体を滞らせる。
「ネモラ、……なんだか、少し気になるな」
「好みではないけれど、署名して問題はないと思うわ」
ネモラはもう次の束へ手を伸ばしていた。
アタシは小さく息を吐き、署名欄へ羽ペンを置く。
対象者本人。署名欄に小さく書かれたその語だけが、ほんの一瞬引っかかる。
だが、横ではネモラが次の紙を捲っている。ここで止まるな。今は片付ける方が先だ。
ヴェルザキーナ・フォン・ローゼンヴァルト。
さらさらと、いつものように羽ペンが走る。
最後の一画を跳ね終えた瞬間、紙の縁の飾り罫が、濡れたように鈍く光った――ほんの一瞬。
「……?」
いや、気のせいだろう。目をこすっても何もない。
アタシはその紙を他の書類と同じく脇へ――係の者が運びやすい位置へ――重ね、次の書類へ手を伸ばした。
〇
「みんな、お疲れ様。それでは、本日――いや、もう日は変わっているな。とにかくこれで解散とする。卒業式は、今日の事件で、少し段取りも変わるかもしれない。悪いが、朝は少し早めに集合してくれ」
「「「はい!!」」」
会場の後始末をあらかた終え、来賓を見送り、生徒たちを寮へ帰した頃には、すでに夜更けも良いところだった。
役員5名と副会長を前に、パーティー会場だった大広間で解散の指示を出す。アタシたち以外には数名の教師が残っているだけだった。
それももう引き上げる支度をしている。
「あ~……つっかれた。サキ、帰りましょ」
そう言いながら、ネモラがアタシの肩に頭を落としてきた。
ごとん、と。鳴るように。
ふう、と一息ついて、アタシは断り謝罪する。
「すまない。生徒会室に式典用の細剣を置いたままなんだ。式の細則も確認しておきたい。寮へは先に帰っていてくれないか」
「あ~、はいはい。会長サマはこんな時でも、最後の1日まで気を抜かないのね。――じゃあ、引率は任せておいて。みんな、ついてきなさ~い」
大声で周囲へ呼びかけ、役員たちをネモラは集める。
そのままアタシへ手を振り、ネモラは外灯の明かりが点々と続く寮への道を歩き出した。
その背に頼もしさを感じ、アタシは生徒会室へ急ぐ。
〇
生徒会室から細剣を回収し、それを片手に帰り道を歩く。
これがあれば、パーティーの襲撃ももう少し対応が早かっただろうか。
式典用とはいえ、切れないわけではない。教練でも使っているものだ。十分実用に足りる。
いけない。襲撃はもう過去だ。負傷者は出たとはいえ、生死に関わるような生徒は、今のところいない。
なぜアタシが会長の年に限って、と恨み言の1つも言いたくなるが、将来に関わるような失態は犯していない。そのはずだ。
そう思いながら、寮へ続く道で、履いた革靴を急がせる。
寮への道には点々とした外灯に照らされて、桜並木がずっと続いている。
その下を、軽く散った花びらを踏みつけながら、歩く、その途中で。
冷たい夜気の中に、針のように細い違和感が混じっていた。
何もない前方の空間に、松の葉ほどの細さ、大きさの嫌な気配が、す、と差し込まれているような。
手を振ったネモラの後ろ姿。その頼もしさを思い出し、嫌な妄想を打ち砕く。寮に帰れば、親愛を込めた嫌味の1つも言って、アタシを出迎えるネモラがいるはずだ、と。
自然、早足になる行先の向こう。落ちている花びらと湿った土のにおいに混ざって。
――明らかに、鉄臭い血の匂いがする。どんどん強くなるそれに、思わず駆け出した先、寮へもう少しの地点にそれは、その光景はあった。
オレンジの外灯に照らされて、桜並木の下、点々とする花びらより明らかに多い血だまり。
6人の男女がその中に倒れていた。
「うわあああああああああああ!!!」
理解の出来ないその光景に、思わず悲鳴のような叫び声を上げる。
その1人、制服を着てうつぶせに倒れた人影。
薄暗く顔までは見えない。だが、流れた長い紫髪は明らかにネモラのもので。
――アタシはそれに駆け寄ろうとして、――背後、上空から降ってきた気配を感じ、無意識に鞘のままの細剣を振り上げた。
ガゴォォォン!!
切れ味はない、重い物体同士がぶつかり合う衝撃音。
「ぐっ!!」
何かを受け止めた、と感じると同時、とっさにその場からアタシは飛び退り、一瞬前まで自分がいた場所を見た。
大きな男だった。
おそらく頭2つ分はアタシより優に高い。
外灯のオレンジに照らされたその灰銀の髪は、夜の冷気の中でも、より冷たく見える。
長い手足を包む、ぴったりとした黒に近い紺の装束。革めいた光沢があり、飾りはない。
革手袋で覆われた手が握る、アタシを背後から襲ったであろうその得物は、アタシの細剣と同じく鞘に入ったままのロングソード。細剣と違い、長さだけで威圧感がある。
「貴様がこれをやったのか!?」
目の前にある惨劇の現場。それを男に向かって叫び、問う。
ただし隙の無いその男の挙動から目を離せずに、仲間の安否は確認できない。
本当は今すぐ駆け寄りたいが、目を離した瞬間、アタシも同じ姿になるのは、想像に難くなかった。
男はアタシの質問に答えず、言った。
「――黒の瞳に、黒の1つ結びの髪。お前が竜持ちの少女だな。見当たらないと思っていた」
低く、重く、冷たい声だった。
そして、その言葉はアタシの質問に答えたも同然。犯人はコイツだ。パーティーを襲った賊の残党だろうか。
竜持ち。グラファリエルのことだろう。倒れている6人の中で、竜と契約している者はいない。
――つまり、コイツの目的はアタシで、倒れた仲間はその巻き添えだ。
許せない。コイツも許せないし、訳のわからないまま、仲間を巻き込んだアタシ自身も許せない。
怒りのままに、アタシは細剣を抜き放った。
男までの距離はアタシの普段の歩幅で7歩。
「はあああああぁぁぁ!!!!」
正眼に構え、裂帛の気合とともに、その距離を突進する。
怒りの中でもアタシの剣先は乱れることは無い。心は炎、剣は水。王国伝統剣術、その教えのままに。
上半身を中心に10を超える虚実を織り交ぜ、狙いは喉。
――だが本命はそこではない。瞬間、受けようと鞘のまま喉を守ろうと男が動かした剣。
それに届く寸前に手首を中心に返した刃。
心の臓へ、刃を横に突き立てる――。
取った。そう思った、その瞬間。
男の手首が、わずかに沈んだ。
喉を守るはずだった鞘が、紙一重で角度を変える。
細剣の切っ先は、吸い込まれるようにその鞘の硬い腹を滑り、男の胸を裂く寸前で、外へと流された。
「な――っ」
読まれていた。
いや、それだけではない。喉を庇ったあの動きすら、アタシにそう思わせるための誘い。
鞘に流された細剣の切っ先を立て直せず、踏み込みきったアタシの体が、勢いのままわずかに前へ泳ぐ。
――マズイ。
そう思った、いや思考ではなく、感じた瞬間には、男の足の脛がアタシのみぞおちに食い込んでいた。
「がっ――!」
重い。
蹴られたというより、叩きつけられたその脚の感触は、攻城槌に使う太い丸太を、横薙ぎに振るわれたようで。
肺から空気が強制的に排出され、体が浮く。
アタシの体は男に突進する前よりも遠くへ吹き飛ばされ、地面の上を、散った花びらを巻き上げながら転がった。
「ぐうっ――!」
細剣を握る右手を離さないよう必死で握り、それ以外の3本の手足で受け身と、不格好ながら体勢を必死で立て直す。
もたげた首の横から、黒い髪が乱れて胸の高さまで落ちてきた。
1つ結びとしていた髪留めが外れたらしい。
見上げるアタシのその先で、鞘からロングソードを抜こうともせずに男は言った。
「よせ。大人しく付いてきてくれれば、危害を加えるつもりはない」
アタシの仲間を、友を血の海に倒れさせておいて、よく言う。
耳を貸すつもりはない。
はっ、はっ、と荒い息で呼吸を整えながら戦闘意欲を失わないアタシを見て、男は続けて言った。
「……仕方ない。怪我をさせたら、少々面倒だが、後で回復魔法でもかけてもらえ」
そう言って、鞘から抜かれたロングソード。その刀身は黒っぽく、外灯の下の十分でない明かりでも上質な鋼に見える。
軽く剣先を下にして構えたその立ち姿に――。
――アタシは動けない。戦慄していた。
鞘のまま、アタシの初撃をあしらったこともそうだが、体全体が、その持つ無骨な鋼以上に隙がない。
アタシの剣の腕はそれなりで、悪くはない。
学院の交流試合で、中等部や高等部の選抜生を相手にしても、負けたことはない。
武勇の誉れ高き、父上やローゼンヴァルトの家庭教師には敵わないが、学院の剣術教師を相手にしても10本中8本はアタシが取る。試合形式なら、の話だ。従軍経験もある剣術教師の方が実戦では上かも知れないけれど。
ともかく、そのアタシの腕を評価もせずに、男はそこに立っている。言うまでもないことだが、殺意のある場では、剣は受ける方が攻めるよりずっと難しい。
肌が粟立つ。少なくとも、構えただけで剣のみなら話にならない差がある。
――剣のみなら。
そう、剣のみであればだ。剣が通じぬなら魔法を使え。
竦む脚を踏ん張り、細剣を構えたまま、アタシは剣の前に魔力を浮かべた。普段の訓練や演武では分かりやすく、手を掲げているが、今この場ではその必要はない。
「『炎の、斉射』!」
無詠唱で、力ある言葉とともに、魔力の塊から最初の拍で、アタシの頭より大きな火球を2つ――喰らえば骨まで溶かすそれを――放ち、一瞬遅れて後半の拍。時間差で同じ大きさの塊を2つ放つ。
後ろの2つを放つと同時に、アタシは前方へ、再度突進した。
最初の2つの火球、後ろの2つに加えてアタシ。凡人ならば同時と感じる程度の時間差。熟練の剣士ならばどれが虚でどれが実かわからない程度の時間差での着弾。
魔力も見せずに、4つの火球の着弾と、アタシの剣をしのぎ切れるはずなど無い。
無心で鍛錬の成果とともに突っ込むアタシの目の前、触れそうな切っ先を感じるほどの近く。
男の剣は2回振るわれた。――追えない速さで。
次の瞬間には、4つの火球はもう崩れていた。
術式の芯を断たれた――であろう、としかわからない――それらは、真っ二つに裂けた断ち目だけを残して霧散する。
見えたのは結果だけ。2回の斬撃で4つ。その斬られた断ち目の揃った形状だけが、『おそらく2回振るわれた剣でまとめて切られたのだろう』と伝えてくる。
いや、伝えてきた、と言うべきか。4つの火球が崩れるその一瞬の後には、剣を握ったままの革の拳が、真正面からアタシの顔面にめり込んでいた。
「――ぶげっ……」
視界に火花が飛び、涙と鼻血があふれ、一瞬後に、殴られた箇所を中心に熱と痛みがじんじんと広がる。
必死で、再度後ろへ飛び、距離を取る。
「くっ……」
痛みと屈辱に顔を歪ませ、呻く。追撃されれば、命はなかっただろう。そしてそれをするだけの男の余力も、アタシの隙も十分にあった。
男から目を離さず、顔をぬぐった左手に、べったりと血が付く。鼻血は止まらず、そのまま左の平手で抑えつける。
ダメだ。勝てない。
一刻も早く、倒れたネモラたちの安否を確かめたいのに、この男を前にそれは出来ない。時間をかけたとて、アタシだけでは勝ち目があるか怪しい相手だ。
瞬間、この男の後ろにある寮の生徒たちの顔が脳裏に浮かぶ。アタシですらこれなのだ。応援で誰かが来ても、足手まといになるだけだ。教師ですら、戦えるものは少ないだろう。
平手の指の間から男を睨みつけながら、最後の一手を繰り出すべく、決意とともに――。
宣言しようとしたところ、気配を察したか、男が言った。
「竜を呼ぶつもりか。やめておけ。破滅を招くぞ」
やかましい。そんな妄言を聞くほどアタシは愚かではない。ローゼンヴァルトの教えの1つにある。『戦闘中の敵の言葉は惑わすだけ』だ。聞くな。
破滅を招く? 舐めたことを。これから呼ぶのは貴様の破滅だ。誇り高き王国の剣を敵に回したこと、後悔するが良い。
顔を抑えた左手。その左手首のタリスマンの宝石を見せつけるように、アタシは呼ぶ。
「――『顕現』!!」
瞬間、アタシの左腕に嵌めた腕輪が光を放ち、アタシは金色の光に包まれた。
アタシの頭上へ、首を突き出すように輝く黄金の竜が軽やかに顕れる。
眩い光の中、空中に身を浮かべて。
光に照らされ、男は焦ったように叫んだ。口調が初めて荒れる。
「やめろと言っているのに。そこまでにしておけ! いいか、絶対に力を通すな、使うなよ! 死んでも知らんぞ!」
うるさい。死ぬのは貴様だ。我が誇りの力を見るが良い。
下級魔法を上級以上の威力にするその力。肉体の強化も例外ではない。
尊きその名をアタシは叫ぶ。目の前の無作法な闖入者だけでなく、この世の全員に聞こえるように。知らしめるように。
「力をちょうだい、グラファリエル!!!」
「アオオオオオォォォォンンンン……」
昂る信頼と親愛に、黄金竜は遠吠えのように吠えた。
アタシとともに男を睨みつけながら。
ローゼンヴァルトが対峙する隣国や魔獣領、その誰もが畏れる我が家の威光さながらに。
アタシの視界の端が金色に光り、全身に力が――。
通るはずのその時、視界が金から朱に染まった。鮮やかな赤に。
「ぐああああああああああっっっ……!」
痛い。熱い。痛い痛い痛い。
アタシの喉から苦痛が絞り出る。みっともなく苦悶の悲鳴を上げるなど、ローゼンヴァルトのすることではない。
しかし、我慢が出来なかった。雷撃魔法で焼かれたような激痛が、その何倍も強い熱さと強さでアタシの全身を駆け巡る。
目の端が赤いのは血だ。目じりと目頭から血が噴き出ている。同様に全身から感じる、一瞬熱くてすぐに冷たくなる感覚。吹き出た血が夜の冷気で冷える感覚。
鼻先、口の端、耳、指の先、爪と肉の間、脇と腕の間接、太ももの横、ふくらはぎ、とにかく全身からそれを感じる。身体の皮膚が弱い箇所から皮膚が裂け、血が噴き出ている。
カァン……ッ。
細剣を取り落とした。手の平ですらも、駆け巡る痛さに、耐えられない。
何をされた……、と、思う間もなく、予想もしていなかった激痛に、アタシの意識は闇に落ちた。
〇




