第15話 【結③】前
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拳が痛い。
殴っている最中は何も感じなかったが、熱が引いた今になって、骨の奥の、鍛錬で何度も潰れた箇所が鈍く脈打っている。
部屋の中は、まだ夜だった。
携帯照明の淡い光の下、アタシの腰かける椅子の前、机の上には木蓋の閉じられた瓶。
中では『忘れ虫』が、何事もなかったようにうっすら蠢いている。
返り鳥の青も、アタシの緑も、吐き出した当人は知らぬ顔だ。
知らぬ顔をしたいのは、こちらの方だ。
見なかったことにしたい。
シンは少し離れた場所で黙って立っている。
少しの冷静を取り戻した思考の中、ひっかかることがあった。
「……だが、おかしくないか。『忘れ虫』を取ってきたのは私と貴様だ。それを使って、私の記録の改竄をするのは、少々綱渡りに過ぎるというか。計画として破綻しているだろう」
支部へ運び、記載した帳簿は、扱いに関わらず、期限を待っていずれ全てが円座とやらに送られるのだ。
仮にアタシとシンが『忘れ虫』回収に失敗したら、扱いの過ちも含めてすべてが露見する。
「……以前からの計画ではなかったのだろう。お前という存在を知って、改竄がバレる、そのリスクを冒しても手に入れたかったのかもしれん。……あの時も『至急』とは言っていたしな。『忘れ虫』の回収すら出来ないようなら、失っても諦めはつく、と考えていたのかも。……欲に目がくらみ、だからこそ、今になって『返り鳥』にさえ手を出して、こうしてオレたちにバレて破綻した」
「そうか……」
「お前の有能さを見れば、欲しがるのもわからんでもない。通常の工作員が何か月もかける案件を、オレと組んでとはいえ一晩で終わらせる。それを何件も連続して。それを円座へ送るだけでも、相当な実績になるだろう。お前は、フェルナーにとっての、金の卵を産む鶏かもな」
「鶏か。……ぞっとしない話だ」
「あるいは……いや、そんなことはないか。ないはずだ」
そこまで言って、シンはまた押し黙った。
語りは、その迷いを反映するように、雄弁だが、顔はずっと憔悴しきっている。
携帯照明の明かりが頼りない部屋で、しばしの沈黙が空間を支配する。
「で」
アタシは言った。
「どうするんだ?」
「どうする、とは」
「貴様、監視役なのだろう。こうして『完全なる秩序』をフェルナーが裏切っているのが分かった今、報告に行く、ではないのか」
「あ、ああ」
軽く顔を上げたシンは、アタシを見た。その後、また視線を床に落とす。
そのまま何度かアタシと床を、シンの視線が往復する。
「……以前も言ったとおり、円座の位置は移動する。現在の位置は、都度支部長の下へ送られてくるのだが……最近、フェルナーからそれを受け取った記憶が無い……。日の出を待ち、フェルナーのところへ行こう。円座の位置を探る以外に、やはりあいつの真意を聞いておきたい。何もなしであいつが裏切ったとは、オレは思いたくないのだ」
つくづく、お人よしだな。コイツ。
「……わかったよ。じゃあ日の出前まで軽く休んで……装備はいつもの任務の服装で行くぞ」
万が一、フェルナーが勘付いていて、逆上でもされたら、普段の布の服に丸腰では戦えない。
そもそも、フェルナーの戦闘能力すらアタシは知らないのだ。支部長なのだから、全くの無と言うことは無いはずだが。
コイツのお人よしにアタシまで付き合う義理はない。
「……ああ。後で呼びに来る」
言うと、扉からシンは出て行った。
回廊の闇に消える大男の背中は、頼りなく、小さかった。
〇
「行くぞ」
シンの短い呼びかけに、無言の頷きで応じる。
地平線が見える場所であったのなら、太陽はそこに顔をのぞかせる間際であろう、夜明けまですぐそこの明るい時間。
アタシもシンも、黒に近い紺色の、革のような上下揃いの服に音のしないブーツ。腰には、いつものショートソードに、シンはロングソード。
髪は、任務時と同じできっちり後ろで1つ結びにしてある。
なんとなく嫌な予感がする。髪留めはいつもより少しきつく。
シンが軽くフェルナーの私室の扉を叩いた。
「――入れ。鍵はかかっていない」
中から時を置かず、声がした。
シンが扉を開く。
その後に続いて、部屋へ入った。
――待っていたのだ、とすぐにわかった。
フェルナーは、任務帰りのアタシたちを出迎えるときのような、いつもの寝間着ではなかった。
司祭を思わせる黒い修道服めいたローブ――アタシがここへ初めて連れてこられた日と同じもの――をきっちりと着込み、襟も袖も乱れなく、髪まで整えられている。
机の上には、帳簿、羽ペン、封の切られていない書簡がいくつか。整頓されている。
その目の光は、朝が早いというより、夜のうちから起きていたような。
アタシを半ば背中に隠すように、斜め前のシンは立った。
「おはよう、シン。おはよう、私のヴェルザキーナ」
口元だけで笑いながら、フェルナーが言う。
座ったままかけられるその言葉は、いつものように、アタシの胸に絡みつくように。
いや、コイツの悪辣を知った今は、いつも以上にアタシの胸をざわめかせる。
「おはよう、フェルナー。……現在の円座の位置が記された書簡を見せてくれ」
「ああ。――これか」
机の引き出しから、1つの封書をフェルナーは取り出し、こちらへ空中を滑るように、それを投げて寄越した。
シンはそれを何となしに受け取り、開いて中を見た。
「――少し遠いな。『門』をいくつか経由して……。いや、問題ない」
考え込みながら、呟くように言い、シンはフェルナーに視線を戻す。
「なあ、フェルナー……。頭の良いお前のことだ。どうしてオレが今ここに来て、これを見ているのか、わかっているんだろう?」
憐れむような、哀し気な気配を、シンの背中から感じる。
「薄々はな。……昨晩から『忘れ虫』が行方不明だ」
「なぜだ。なぜ我が組織を裏切った。それほどコイツが欲しかったのか?」
コイツ――アタシのことか。
切実さをさえ感じるシンの声に。
「ああ、欲しかった。それに、裏切ったわけではない。――私が、最もその女の価値を理解している。その女が元居た場所の貴族や王族、そして円座よりも私がよりよく活かせる。その女が私の手元にあることで、結果として我らが組織のためになるなら、それで良いのではないか?」
淡々と、笑みさえ浮かべフェルナーは応える。
「そんな……だが……。規則は絶対。自分で記録した文字の色だろう? それに従おうとは思わなかったか? このままでは、オレはお前を断罪せざるを得ない……」
「ふん。断罪だと? ふふ。笑わせるな。シン、お前が持つのは監察権までだ。この場で私を処断する権利は与えられていないはずだぞ」
「……報告し、許可を得る。それだけだ。……最後に、お前の弁明を聞こうとしたが無駄だったようだ」
肩を落とすシンと、あくまで姿勢を崩さないフェルナー。
その温度差は、もう――見ていられなかった。
「シン、退け。私が、この卑劣な裏切り者を……」
「私のヴェルザキーナよ。忘れたのか。契約があるのだぞ。私に手出しをすればどうなるか……」
「ぐっ……」
ショートソードに伸びた手と、踏み出しかけた足が止まる。
契約がここでもアタシを縛る。
――いや、待て。
しかし、脳裏に閃くものがあった。今のフェルナーは『完全なる秩序』の裏切り者だ。
コイツへ危害を加えることは、契約の執行条件になるのだろうか?
――一瞬の思考を中断せざるを得なかったのは、次の続くフェルナーの言葉だった。
「シンよ。円座へ報告したければ行くが良い。ただ、戻る頃には、何もかも遅いがな」
「何?」
「お前が行くならば、戻る前に、その『門』は壊す。時間さえ稼げば、我らが組織の追及など、何とでも逃れられるのだ。証拠も消す。『忘れ虫』は……お前たちどちらかの部屋か? 居住区か。痕跡も消しておかねばな。子供や非戦闘員も巻き添えになるかもしれないが、多少は仕方のない犠牲だろう。……ふふふふふ。……シン、ここにいた監視役が、お前のような頭の使えない猪武者で大変助かった」
「お、お前! それは……」
戸惑うシンを相手に、フェルナーは、見せつけるようにローブの左袖を捲った。
その手首には、宝石を埋め込んだタリスマンの腕輪。
「――『顕現』」
瞬間、宝石が赤い光を放ち、空間からも同じ色の光――大鷲くらいの赤い猛禽が、フェルナーの左肩へ止まるように、姿を現した。
――『返り鳥』。
「……お前が行かないにしても、……こうなった以上、証拠は消しておこう」
赤く目を光らせ――『返り鳥』と力を通した証拠だ――ながら、フェルナーはねっとりと、絡みつくような粘っこい声で言った。
ぞるり、と。
その机の足元から、人だったであろう、動く死体がいくつも這い出してきた。
皮膚はない、赤黒い肌。目玉は無く、黒く眼窩は落ち、腐乱臭を漂わせて。
「バカな! フェルナー、やめろ、何を考えている……っ!」
焦り、叫ぶシン。
――後ろにも気配を感じてアタシは振り返る。
閉めたはずの入り口の扉が開いている。
何か湿ったものを引きずるような音がして、鼻を突く腐乱臭。
腐った肉と血の混ざった、嫌な匂い。
机の下から出たものと同じ種類、人だったものが、ぞろぞろと。扉を下から上から、這い出して来ていた。その奥が見えないくらい。
「くそっ!」
シンが叫んだ――、と、思う間もなく、アタシの隣を抜け、入り口の方へ走り抜けている。
そのまま、ロングソードを抜き払い、扉の周りの死体の群れを、爆散させるように。
瞬時に原型をとどめぬ肉の細切れと嫌な色の雨としながら、つられて入り口の方へ身体を何歩か移動させたアタシに、シンは叫んだ。
「退くぞ!」
「あ、ああ」
振り返って見れば、フェルナーまでの道も動く死体たちによって、完全に防がれていた。
契約が有効であるか、迷ったのが仇となったか。仮に契約の影響下に無くても、近寄ることは……試すことは出来そうもない。
入口へ駆けるアタシの背中へ、フェルナーの声がまとわりつく。
「どこへ行く。私のヴェルザキーナ。私の物でいるのがお前の幸せだと言うのに」
アタシがこんな境遇になっている根本原因である貴様の下へだと?
おぞましい。殺してやる、と一瞬思ったが、脚を止めずにシンに追いついた。
挑発か本心かわからぬ男の言葉などどうでもいい。かなり頭には来ているが。
扉を抜け、聖堂や居住区へ続く、石畳の道へ駆け上がる。
フェルナーの私室周辺にも、すでに動く死体がそこかしこに這い出して来ている。
「おい、どうするんだ!?」
「……どうすればいいんだ。とりあえず、聖堂まで……」
混乱した様子のシンが、焦燥した表情を見せる。
眉を下げ、泣きそうな顔は、如何にも情けない。なんだそのツラは。
石畳の道へ駆け上がったところ、先日清掃を行った、集団墓所の広い窪地が目に入る。
意識していれば、案外全体も見える……と、感慨にふける余裕はない。
集団墓所は、地面よりも多いのではないかと思わせる、蠢く死体で覆いつくされていた。
明らかに人のそれだけではない。翼を持つ鳥や蝙蝠、四つ足の獣やモンスター、大型の亜人の死体までが見える。
人と契約存在の墓所と聞く其れは、その存在意義を見せつけていた。卑劣な男の持つ鳥の、邪悪な力の恰好の発揮場所として。
だが、その数は、墓標の数より多い。多すぎる。
墓標1つにつき複数の骨が納められていると想定しても、明らかにそんな数がいたとは思えない。
夜の暗い厨房で、ゴキブリの群れを見たときのような、ほとんど黒い塊が蠢く数、嫌悪感もそっくりだ。大きさだけが違うけれど。
「退いてどうなるものでもないだろう。……くそっ、使えない監視役め。貴様の見通しの甘さと、お人よしのせいで最悪だ」
「……すまん。……すまん、だが……」
文句を言いながら、聖堂までの道を走る。動く死体の群れは、幸い速度は遅い。羽ばたく鳥のようなもの――それも、群れを成して竜巻に巻き上げられる砂のように見える規模となっていた――を除けば、ゆっくりと歩くか、這うだけ。走ることは難しそうだ。
聖堂まで戻るにしても、時間は稼げるだろう。
「……オレが守らなければ、ここはあれで壊滅する。だが、報告へ向かわねば、フェルナーを処断することは出来ない……」
はっ、はっ、と、小さく息を吐きながら、明らかに平常心でない顔つきのシンが言う。
「……言っておくが、私に期待するなよ。貴様らが同士討ちをするのならちょうどいい。私は契約で手出しができないだけで、貴様ら組織が損害を受けるのなら、都合が良いだけだ。やり合えばどちらも無事では済まないだろう。残った方をいつか殺す。それだけだからな。……大体、貴様が言うように本来ここにいるべき人間ではないのだし」
走りながら、アタシは言った。当たり前の前提を。
「あ、ああ。……どうすれば。どうすれば」
相槌と言うでもなく、独り言のようにシンは繰り返す。
そのまま走り抜け、聖堂の前の広場まで戻ってきた。
朝日に照らされた石畳の広場、汲み上げ式の水場で、水桶に水を溜める3つの人影。
アタシとシンは、それに走り寄る。
イコマと幼い子2人が水を汲んでいた。
「おはようございます、シンさん、サキさん」「おはようございます、シン様、サキ様」
イコマと子らが、笑顔で口々にアタシたちに言った。まだ何が起こっているかも知らない。
シンの動きが止まり、イコマたちの前で、肩を落として立ち尽くした。どうしていいのかわからないと言った風で。
「シン様?」
怪訝な顔の子が見上げる。
――クソっ……。
瞬間、思い出した。思い出してしまった。
アタシはコイツらに、先日、将来見るであろう夜空の話をしてしまっている。
将来、シンやフェルナーと同じ姿……未来の敵を見ておきながら……愚かなことをしたものだ。
「行け」
立ち尽くすシンの背中にアタシは言った。
眉を落とし、情けない顔の大男が振り返る。
「――サキ?」
「黙って報告へ走れ。ここは何とかしてやる」
「だ、だが」
「クソっ……クソクソクソ……畜生っ!」
愚かな自分に腹が立つ。
軽はずみな発言に腹が立つ。どこまで未熟なのだ、アタシは。
だが、言ってしまった。子供たちに未来の夜空を約束しておきながら、それを奪う者が迫っている。
見過ごす真似をすれば、仮に故郷へ帰れたとしても、アタシは一生の笑いものだろう。両親へ、弟妹へ、一族へ顔向けできるものか。
大きく深呼吸をし、シンの目を見据えてアタシは言った。
「……行くことが貴様の使命だろう。間違えるな」
「あ、ああ。すまん、頼む。耐えてくれ。必ず戻る。全力で……可能な限り」
言うと踵を返し、泣きそうな顔のシンは大聖堂の扉へ向かって走り出した。
『門』を抜け、円座へ向かうのだろう。




