第70話 宵の訪れ
部屋に戻った僕は、
ベッドに大の字で寝転んだ。
満腹感に加えて、
コチコチコチと時を刻む時計の音が
子守歌となり、
瞼が次第に重くなっていった。
眠りに落ちかけた瞬間、
僕はハッと目を開けた。
勢いよく体を起こしてから、
何度か頭を振った。
それから部屋を出た。
向かいの部屋のドアをノックしてから、
中を覗き込んだ。
暗い部屋の中で、
パソコンのモニターだけが、
ぼんやりと光を放っていた。
その前には
白いレジ袋を被った白露が座っていた。
白露は器用にマウスを操作しつつ、
時折キーボードを叩いていた。
「兄ちゃん、
ちょっといい?」
「あんっ?
見りゃわかるだろ。
今、忙しいんだ。
この『人類最強』を謳ってる
勘違い野郎を、
俺様の手で叩き潰さねば、
死人代表の名が廃るってもんだぜ」
白露はモニターに目を向けたまま答えた。
「あっそ。
じゃあいいよ。
かわいい弟が
危険な目に遭うかもしれないって時に、
兄ちゃんはゲームに夢中なんだね。
悲しいね」
僕は肩をすくめた。
「へっぷ!
どういう意味だよ!」
白露がようやくこちらを振り向いた。
僕はその問いに答えず、
ドアを閉めた。
次の瞬間。
白露がすぅっと壁を抜け、
目の前に現れた。
「待て待て待て。
忙しいとは言ったが、
話を聞かねえとは言ってねえだろ。
仕方ねえな。
話してみろよ。
聞いてやるから」
「行くところがあるから、
ついて来て欲しいんだ」
「おいおいおい。
今から出掛けるのかよ」
レジ袋に空いた2つの穴の奥の目が、
パチパチと瞬いた。
「嫌ならいいけどさ。
僕に何かあった場合、
困るのは兄ちゃんだと思うけどね」
「お、お前!
俺様を脅す気か!」
なおも喚く白露を背に、
僕は302号室を出た。
階段を下りてビルを出ると、
日はすっかり沈んでいた。
『ひととせ』の店の灯りが、
ぼんやりと辺りを照らしていた。
その時。
隣の家の塀の前に立っている
山田老人と目が合った。
「こんな時間にどこに行くんじゃ。
小学生が
出歩いていい時間じゃないぞ」
「ちょ、ちょっとね。
あと。
僕は中学2年生になったんだよ。
何度も言ってるよね。
いい加減覚えてよ」
「ほへー。
そうじゃったかのぅ。
中学生か。
女遊びはほどほどにするんじゃぞ」
「そんなことしないよ」
僕はすぐに否定し、
自転車に跨ると、
思いきりペダルを踏み込んだ。
「山田の爺さんも
そろそろ呆けてきたか」
いつの間にか白露が横に並んでいた。
「それは正しくないね。
山田の爺ちゃんは死ぬ前から、
少し呆けが始まってたんだよ。
兄ちゃんが家出した後のことだから、
知らないのも無理はないけど」
「へぇそうか。
で。
どこに行くんだよ」
「田村先生の家」
「へっぷ!」
白露の声が闇に吸い込まれていった。




