第七話 武田師匠の忠告 ~現実という名の直線~
美保厩舎の休憩スペース。
午後の騎乗練習を終えたばかりの白樺凛花は、汗で濡れたタオルを首にかけ、スポーツドリンクを一気に飲んでいた。
全身が熱を持ち、太ももと腰が重い。
武田文吉師匠が、いつものように腕を組んで立っていた。今日は特に表情が硬い。
「凛花、ちょっと来い」
「はい……!」
師匠に連れられて厩舎の裏手、馬たちが休む柵の近くへ移動した。
宝田誠と美保晋三も少し離れた場所から様子を見守っている。
武田は低く、しかし重い声で切り出した。
「アスリート気分でこの世界に入れるのも、今のうちだ」
凛花の背筋がピンと伸びた。
「……師匠?」
「お前はまだ18歳。頑張れば報われる、努力が花開く、そんな綺麗な世界だと思ってるやろう。
だがな、競馬は、ギャンブルの世界だ。
見てる客はみんな、金を賭けている。
お前がどれだけ練習を積もうが、どれだけ夢雪と絆を深めようが、レースで負けた瞬間、客は容赦なくヤジを飛ばす。
『下手くそ!』『金返せ!』『そんなん乗るんやったら降りろ!』……それが現実だ。」
凛花の指が、無意識に自分の乗馬パンツの裾を強く握った。
武田は容赦なく続けた。
「JRA時代、俺は何度も見てきた。
G1を勝ったジョッキーが、次のレースで凡走しただけでネット中傷の嵐。
ばんえいも同じだ。
地方競馬は客との距離が近い分、もっと生々しい。
頑張ってるお前を応援してくれる人もいる。
だが、負けた時の罵声は、全部お前が受け止めることになる。
それでも騎手になりたいと言うのか?」
静かな風が、二人の間を通り抜けた。凛花は唇を噛み、しばらく沈黙した後、震える声で答えた。
「……怖いです。
でも、知りたかったです。本当の現実を。
私、アスリートみたいに『努力すれば必ず勝てる』なんて思ってるつもりはないです。
ただ……夢雪を、ちゃんと引いて走らせたい。
サラブレッド(ドリームメーカー)の血を引いた子が、ばんえいの直線で輝くところを、見せたいんです。
それが、たとえお客さんに罵られても……私にとっての価値なんです。」
武田は目を細め、凛花をじっと見つめた。
「ふん。綺麗事だけじゃ済まない世界だぞ。
それを分かった上で、それでもやるというなら……俺は本気で、お前を鍛える。
甘やかさん。
大学との両立で潰れそうになっても、泣き言は聞かん。いいな?」
「はい……! 覚悟の上です、師匠!」
その時、後ろから宝田誠の明るい大阪弁が割って入った。
「武田先生、ちょっと待ってや〜!
リンちゃん、まだ高校卒業したてやで。
現実も大事やけど、夢も大事やろ?」
宝田は笑いながら近づき、凛花の頭を軽く撫でた。
「確かに客は金を賭けてる。
でもな、ばんえいには『がんばってる子を応援したい』って温かいお客さんもようけおるんや。
リンちゃんが一生懸命やってる姿見て、夢雪が走るの見に来てくれる人も絶対出てくるで。
俺が保証するわ。」
美保晋三も頷いた。
「まあ、武田先生の言うことは正しいけどのう。
最初から現実だけ見とったら、誰も騎手なんか目指さへんわ。
バランスや、バランス。」
武田は「ふん」と鼻を鳴らしたが、口元がわずかに緩んだ。
「まあいい。今日はここまでだ。
寮に帰ってしっかり休め。明日は大学講義の前にまた朝練だ。
現実を知ったからには、逃げんなよ。」
「はいっ!」
凛花は深く頭を下げた。
胸の奥はまだざわついていたが、目は何より強く輝いていた。
その夜、学生寮のベッドで。
凛花はノートに今日の言葉を書き留めていた。
『競馬はギャンブル。負ければヤジが飛ぶ。
それでも、私は夢雪を引く。』
スマホに遊馬からのメッセージが届く。
遊馬: 「宝田さんから聞いた。
現実の話、しっかり受け止めたみたいだな。
精神的な負荷もデータに入れて、調整プログラムを更新する。」
凛花は小さく微笑んで返信した。
凛花: 「うん。大丈夫。現実を知った分、夢がより大事になったよ。」
十勝の夜空の下で、彼女の挑戦はまた一つ、現実味を帯びて続いていく。




