第六話 ばんえいジョッキー ~ソリの上から~
美保厩舎の調教場。
朝の冷たい空気がまだ残る中、白樺凛花は初めて本格的なばんえい用ソリに跨がっていた。
今日は軽量ソリ(約300kg)に調整済み。
オトカリの後ろに繋がれたソリの上に、凛花は77kgに調整された検量服姿で座っている。
武田文吉師匠が厳しい目で指示を出す。
「いいか、凛花。ばんえいジョッキーは馬の背中に乗るんじゃない。
ソリの上から馬を操る。
これが最大の違いだ。
距離はハミから約3メートル。
手綱を通じて意志を伝えるしかない。理解したか?」
「はい……! ソリの上から、です!」
宝田誠が少し離れた場所で馬の様子を観察しながら、メモを取っている。
ばんえいジョッキーの基本操作法武田師匠が一つずつ、具体的に解説していった。
1. 基本姿勢(ソリ上ディープシート)
「腰を深く落とせ。
ソリに体重を預け、背筋を伸ばした低重心姿勢を保て。
普通の騎乗みたいに前傾になるな。
馬がソリを引く力を、ソリを通じて全身で感じろ。
坐骨と太ももでしっかりと固定するイメージだ。」
凛花はソリに深く腰を沈めた。
脚は鐙に軽く乗せ、体重移動の準備をする。
2. 手綱操作(ソフトコンタクト&タイミング)
「手綱は長く持て。
力任せに引くな。
包み込むように支える意識。
馬の口に負担をかけすぎると、すぐに止まってしまう。
スタートや障害前は、馬の耳をしっかり見ろ。
耳が前を向いていればGO、ピクピク後ろを向けば
『今はキツイ』というサインだ。」
凛花が軽く手綱を調整すると、オトカリが耳をピクッと動かした。
3. 体重移動(最も重要)
「これがばんえいの生命線だ。
平地・引き始め:体重を中央〜やや後ろ
障害を登る瞬間:少し後方に体重を移動させて馬の後駆(後ろ脚)を助ける
降坂時:前へ体重を預けて勢いを活かす
一瞬の体重移動で馬の負担が劇的に変わる。馬はソリの重さと騎手の動きを全部感じてるぞ。」
4. 刻み(きざむ)と駆け(一気)の判断
「ばんえいはスピード競走じゃない。
戦略だ。第一障害と第二障害の間で『刻み』(馬を一旦止めて休ませる)をするかどうか、それが勝負を分ける。
馬が苦しそうなら無理に追わず、呼吸を整えさせてから一気に『駆け』ろ。
声かけも大事だ。『よし!』『行け!』で馬を鼓舞する。」
美保晋三が大阪弁で補足した。
「実際のレースはもっとシビアや。
200mちょっとの直線やけど、第二障害越えたらもうほとんど止められへん。
そこまでのペース配分が全てやで。」
5. 呼吸と一体感
「馬と自分の呼吸を合わせろ。
吐くタイミングで腰を入れて推進を助ける。
馬は神経質や。
騎手の緊張は全部伝わる。
リラックスせなアカン。」
30分間の軽い引き練習を終え、凛花はソリから降りた。
全身が汗だくで、特に腰と太ももが熱を持っていた。
「うわ……ソリの上って、思ったよりバランス取るの難しい……!」
宝田が笑いながら近づいてくる。
「リンちゃん、ええ感じやったで。
オトカリもストレス少なめやったわ。
獣医的にOKや。
遊馬坊ちゃんにデータ送っとくから安心せえ。」
武田師匠が珍しく少しだけ口元を緩めた。
「今日のはまだ序の口だ。
次はもっと重いソリでやる。
大学講義と寮生活を崩すなよ。
体が悲鳴を上げたら即報告しろ。
夢雪に乗る時は、今日の10倍はシビアになるからな。」
凛花は息を整えながら、力強く頷いた。
「わかりました……! ソリの上から夢雪の耳を見て、手綱を通じて想いを伝えて……絶対に、いいコンビを組みます。」
その夜、学生寮の自室で。
凛花はノートに今日教わった操作法を丁寧にまとめていた。ソリ上低重心姿勢
手綱は長く・ソフトに
体重移動で馬の後駆を助ける
馬の耳と呼吸を常に観察
刻みと駆けの判断力
スマホに遊馬からの返信が届く。
遊馬: 「体重移動の左右差を修正。
次回は動画撮影推奨。
夢雪の性格を考慮したシミュレーションも作成中。」
凛花は小さく笑って天井を見つめた。
(夢雪……もう少し待っててね。
ソリの上から、ちゃんと君を引けるジョッキーになるから。)
十勝の夜風が、寮の窓を優しく叩いていた。




