第五話 ばん馬の背中
十勝農業大学・北斗寮の朝はまだ暗かった。
白樺凛花は目覚ましより30分早く起き、寮の薄暗い部屋で
ストレッチを済ませた。
今日は特別な日だ。
美保厩舎で、本格的な騎乗練習が始まる。
「緊張する……でも、夢雪のためにも絶対に乗りこなせるようにならないと」
ポニーテールをきっちり結び、大学指定の乗馬用アンダーウェアの上にトレーナーを重ねる。
握力強化で握った拳を何度も開閉させた。
遊馬が作った最新メニューは、容赦なかった。
朝6時。凛花は自転車を飛ばして美保厩舎に到着した。
すると、厩舎の前に見慣れた軽トラが停まっていた。
「宝田さん!?」
「よっ、リンちゃん! おはようさん!」
宝田誠がいつもの明るい大阪弁で手を振っていた。
白衣姿で、獣医バッグを肩にかけている。
「今日は大学休講の日やろ? 聞いたで、騎乗初日やって。
見守りに来てしもたわ。獣医としても、牧場のスタッフとしても、責任重大やからな」
凛花の顔がパッと明るくなった。
「宝田さん……来てくれたんですね! めっちゃ心強いです!」
武田文吉師匠が腕を組んだまま近づいてきた。
隣に美保晋三もいる。
「ふん。余計な人間が増えたな。まあ、獣医がいるのは悪くない。凛花、準備はいいか?」
「はいっ! いつでも!」
今日は美保厩舎の若馬の中でも、特に温厚で体格の良い去勢馬「オトカリ」が練習相手に選ばれていた。
美保が馬の脚や背中を丁寧に触診しながら凛花に説明した。
「今日はまだ本番の重いソリはなしや。
背中に乗馬して重量感を覚えよう。
まずは騎乗姿勢とバランス、脚の合図を体に覚えさせる。
オトカリは優しい子やけど、ばんえいは馬の負担がデカい。
常に『信頼』と『体重移動』を意識せえよ」
「わかりました……!」
凛花は深呼吸をして、オトカリの背に跨った。
最初はただ乗っているだけ。武田師匠の声が飛ぶ。
「背筋伸ばせ! 腰を落とせ! 手は優しく、でもしっかりを握れ!
馬の口に負担をかけるな!」
凛花の太ももと体幹がすぐに悲鳴を上げた。
遊馬の肉体改造メニューで強化してきたはずなのに、実際に動く馬の上では全く違う。
「うっ……重い……!」
「当然や。ばんえいは200kg超のソリを引かせるんや。騎手の体重移動一つで馬の負担が変わる。甘えんな!」
武田のスパルタ指導が続く中、宝田が横からフォローした。
「リンちゃん、息を吐きながら腰を沈めろ。
馬は君の緊張を全部感じてるで。リラックス……そう、それや!」
30分後。凛花は汗だくでオトカリから降りた。
脚がガクガクしていた。美保晋三が苦笑しながらタオルを渡す。
「初日としては上出来や。
けど、まだまだこれからやで。毎日少しずつ時間を伸ばしていく」
宝田はオトカリの様子をチェックしながら、凛花に近づいた。
「えらい頑張りやったな。
ちょっと筋肉痛になると思うけど、今日のデータは遊馬坊ちゃんに送っとくわ。……それにしても、リンちゃんの本気、めっちゃ伝わってきたで」
凛花は息を荒げながらも、笑顔で頷いた。
「宝田さん、来てくれてありがとうございます。
……私、夢雪をちゃんと引ける騎手になります。
絶対に」
その言葉を聞いた宝田は、珍しく少し真剣な顔になった。
「リンちゃんが本気なら、俺も全力で支えるで。
獣医として、牧場の人間として……夢雪の体調管理も、これまで以上にしっかりやるわ」
武田師匠が小さく頷いた。
「次の騎乗はソリをつける。大学と厩舎の両立を崩すな。体が資本だぞ」
夕方、学生寮に戻った凛花はベッドに倒れ込みながらスマホを握った。
凛花: 遊馬くん、今日の本格騎乗初日終わりました!
データ送ります。脚がプルプルです(笑)
遊馬: 了解。心拍数と筋肉疲労の推移を分析する。
次回までに調整プログラムを更新しておく。よく頑張った。
凛花は天井を見つめながら小さく微笑んだ。
(夢雪……もう少し待ってて。今は基礎を固めてるよ。いつか一緒に、ばんえいの直線を走ろうね)
寮の窓から見える十勝の空は、今日も広く、静かに彼女の挑戦を見守っていた。




