第一話 宝田が海外出張から帰る ~世界一のホースマンの教え~
飛田牧場の朝は、今日も賑やかだった。
「ゆきゆめー! 待ってー! もうちょっとだけ抱っこさせてー!」
黒髪ポニーテールを揺らして走る白樺凛花の後ろを、赤と白の美しい斑模様の仔馬が、トコトコとついてくる。
1歳になる夢雪だ。
まだ体は小さいが、父・ドリームメーカー譲りの長い脚と、母・ユキヒメ譲りの甘えん坊っぷりは既に全開だった。
「リンか、危ないぞ。夢雪はもう少し大きくなってるから、転ばれたら大怪我するで」
そう声をかけたのは、牧場主・飛田雅樹だった。隣には妻の瑤子と、夏休みで帰省中の息子・遊馬(10歳)の姿もある。
そこへ、牧場入口のほうから聞き慣れた大阪弁が響いた。
「ただいまー! みんな元気にしてたかー!」
大型のワゴン車から降りてきたのは、大きなスポーツバッグを肩に担いだ男、宝田誠。
飛田牧場の実質ナンバー2であり、獣医師免許を持つ天才ホースマンだ。
陽気な笑顔と、少し日焼けした顔が、海外出張から無事帰還したことを物語っていた。
「宝田さん! おかえりなさい!」
凛花が夢雪の手綱を遊馬に預けて駆け寄る。
宝田はニカッと笑って、凛花の頭を軽く撫でた。
「リンちゃん、夏休みでばんえい目指して頑張ってるて聞いたで。
えらいなぁ。筋肉ちょっとついたか?」
「つ、ついてます! 遊馬くんのメニューで毎日死にそうですけど!」
遊馬が遠くから冷静に言った。
「死なない程度に調整してある。
死んだらデータが無駄になる」
「怖いこと言うな遊馬くん!」
牧場スタッフ一同が笑う中、瑤子が静かに宝田に近づいた。
「ご苦労様、宝田さん。報告は後でいいわ。まずはゆっくりして」
「いやいや、瑤子さん。実はな、えらいもん見せてもろたんや」
宝田はバッグから分厚いノートと、小さなUSBメモリを取り出した。表紙には英語とフランス語がびっしり書かれている。
「世界一のホースマン……って言ったら誰やと思う?」
雅樹が目を細めた。
「まさか……」
「ああ。ドリームメーカーが海外遠征の時に世話になった、あのベンゲル先生や。
今回はわざわざ俺を呼んで、3日間みっちり個人レッスンしてくれはった」
その名前が出た瞬間、牧場に緊張が走った。
ベンゲル。欧米を代表する伝説のホースマン。
サラブレッドだけでなく、障害馬、挽用馬、果てはポニーまで、あらゆる馬の扱いに精通し、「馬の心を読み、馬に語りかける男」と称される人物だ。
ドリームメーカーも彼の手で最終調整され、海外G1を制したと言われている。
宝田はノートを広げながら、いつになく真剣な顔で続けた。
「先生が言うにはな……『馬は道具やない。パートナーや。力でねじ伏せる前に、まず信頼を築け』って。ばんえいみたいに重い荷物を引かせる競技では、特に大事やて」
凛花の目がキラキラと輝いた。
「宝田さん……それ、夢雪にも当てはまりますか?」
「もちろんや。夢雪はまだ若い。父さんの闘志と母さんの甘えん坊が混ざってるから、扱いは特に難しい。でもな。」
宝田はしゃがみ込んで、夢雪の鼻先に手を差し出した。
夢雪は警戒しながらも、クンクンと匂いを嗅ぎ、すぐにペロッと舐めた。
「ほら、信頼は小さな積み重ねからや。
リンちゃんが毎日世話してるんは、めっちゃ正しいことやってるで」
シラユキが遠くの柵から「フゥーッ」と甘えた声で呼ぶと、夢雪が元気よく返事をした。
雅樹が笑いながら宝田の肩を叩いた。
「ちょうどいいタイミングだ。
凛花は武田師匠の指導も受けてるし、美保厩舎との連携も始まってる。
宝田さんが帰ってきたら心強い」
宝田はいつもの大阪弁で胸を張った。
「任せとき! 獣医としても、牧場の何でも屋としても、ばんえい編の夢雪を全力で支えるで! ……ただ、時々ツッコミ入れさせてもらうけどな。シリアスになりすぎるのもアカン」
瑤子が小さく微笑んだ。
「それがあなたの役割ですものね」
その日の夕方。
宝田は夢雪の健康診断を終え、凛花に世界一のホースマンから教わった「馬との対話術」の基礎を伝え始めた。
凛花は真剣な眼差しでノートを取り、遊馬は横でデータを取りながら時々鋭い指摘を入れる。
こうして、飛田牧場の夏は、新たな一歩を踏み出した。夢雪の1歳を目前に控え、ばんえいへの道はまだ始まったばかりだ。




