第十話 武田文吉 ばんえいを学ぶ
北海道・帯広。美保晋三厩舎の朝は、重く湿った空気と馬のいななきで満ちていた。
武田文吉(68)は、いつものように背筋を伸ばし、帽子を深く被って厩舎の通路を歩いていた。
JRAの調教師時代は「鬼の武田」と恐れられた男だ。
サラブレッドの繊細な血統管理と、徹底したスパルタ調教で数々の重賞勝ち馬を送り出してきた。
だが今、彼はまったく違う世界に足を踏み入れていた。
「師匠、どうです? こっちの馬たち」
美保晋三が、照れくさそうに笑いながら声をかけてきた。
実家が農家三代目のばんえい調教師は、武田の元弟子の中でも特に朴訥で実直な男だった。
「ふむ……」
武田は最初の馬の前に立ち止まった。
そこにいたのは、黒鹿毛の巨体。体高は170cmを超え、体重は950kgを軽くオーバーしている。
ばんえい競馬の現役トップホース、「オオシマダイナミック」だ。
サラブレッドの華奢な体躯とはまるで違う。
分厚い胸板、太い首、岩のような後肢。
武田は馬の肩を叩き、脚を一本ずつ確かめた。
「……やはり品種が違う。筋肉の付き方、骨格の密度、すべてが違う。サラブレッドをここに連れてきたら、初日で脚を壊すな」
美保が頷いた。
「そうです。ばんえいは『引く』競馬です。
スピードよりパワーと粘り。
師匠が教えてくれた『根性』が、こいつらにはそのまま通用するんですよ」
武田は次の馬へ移動した。
芦毛の牝馬「キタノユキカゼ」。
ユキヒメの遠い親戚にあたる血統で、今年の重賞を2勝している強者だ。
馬房の中で大人しくしているように見えたが、武田が近づくと、耳をピンと立て、鼻を大きく鳴らした。
その目が、強かった。
「おいおい……これはただの農耕馬じゃないぞ」
武田は思わず笑みを漏らした。
彼はこれまで、馬を「品種」と「血統」で見てきた。サラブレッド至上主義の中で、速さを追求し、脆さを補う調教を重ねてきた。
しかしここ、ばんえいの世界は違った。
美保が言った。
「師匠、昔よくおっしゃってましたよね。
『馬は血統書じゃ走らない。気合いと根性で走る』って。あの言葉、ばんえいではそのまま真理なんですよ」
その時、オオシマダイナミックが重いハーネスを付けられ、練習コースへ連れ出された。
200kgを超える鉄ソリを引きながら、坂を上がる。ズン……ズン……ズン……地面が震えるような重低音。馬の息が白く凍り、汗が飛び散る。
騎手が鞭を入れるでもなく、ただ声をかけ続けている。
武田は腕組みをしたまま、じっと見つめた。
「……なるほどな」
サラブレッドの瞬発力とは違う。
一歩一歩を、魂で刻むような歩み。
諦めない姿勢。
重いものを引くことでしか得られない、誇り。
武田はポツリと呟いた。
「馬は品種じゃなくて、やっぱり気合いと根性だ。……俺の目を、ばんえいが開かせたな」
美保が嬉しそうに笑った。
「師匠がそう言ってくれると、弟子冥利に尽きます。
これからよろしくお願いします。アドバイザーとして、そして……一緒に強い馬を作りましょう」
夕方近く、武田は美保厩舎のベンチに腰掛け、煙草をくわえながら遠くの雪景色を眺めていた。
スマホに飛田牧場からのメッセージが届く。
『武田さん、ばんえいどうですか? 夢雪も1歳。凛花が本気で騎手目指して頑張ってます』
武田は小さく笑って返信した。
『馬はどこも同じだ。根性のあるやつが勝つ。
穣ちゃんに伝えておけ。
「お前もソリを引く時は、馬の心と自分の心を同じにしろ」と。
……俺も、そろそろ本腰を入れる』
彼は立ち上がり、美保厩舎の看板をもう一度見た。
JRAの華やかな世界から、ばんえいの泥臭い世界へ。
老練の調教師は、新たな挑戦に胸を熱くしていた。
一方、飛田牧場では、
「武田さんから連絡きたよ! 『根性だ』だって!変わらないね、武田さんは。」
凛花が夢雪の首に抱きつきながら嬉しそうに叫んでいた。
夢雪は「キュン!」と甘えた声を返し、赤と白の斑模様を輝かせて凛花の顔をペロペロ舐めた。
夏休みの肉体改造は、まだまだ続く。




