第九話 夏の特訓
夏休み初日。飛田牧場の朝はいつもより少しだけ慌ただしかった。
白樺凛花(17)は、黒髪のポニーテールを高く結び直し、鏡の前で自分の頰を両手で叩いた。
「よし……今日から本気モードだ!
学業も、牧場作業も、騎手訓練も全部やる!」
宣言した直後、すでに息が上がっていた自分が少し心配になったが、そこは笑顔で誤魔化した。
朝の勉強タイムは午前6時半から。
高校3年生の課題と予習を1時間半こなしたあと、すぐに牧場作業へ。
厩舎の掃除、馬たちの餌やり、ユキヒメの甘えん坊攻撃をかわしながらのブラッシング……。
午前中だけで既に汗だくである。
そこへ、夏休みで帰省してきた飛田遊馬がデータタブレット片手に現れた。
「凛花さん、おはようございます。
昨夜中に作っておいたトレーニング・ロードマップのβ版です。
君の現在の身体データ、ユキヒメの過去レース記録と適性指数を統合して最適化したものだよ」
13歳(中1)とは思えない落ち着いた口調で、眼鏡の奥の瞳が真剣に光っている。
名門私立中学に通う天才血統師は、夏休みも牧場を「研究の場」と位置づけていた。
「遊馬くん……これ、めっちゃ細かくない? 『左後肢の可動域をあと8%伸ばしたい』とか書いてあるけど……」
「現実的な数値だよ。
ばんえいは体重800kg超の馬を引くんだ。
凛花さんの現在の握力と体幹では、半年以内に限界が来る。肉体改造、始めよう」
そう言って遊馬は、牧場の一角に簡易トレーニングエリアをすでに設営済みだった。
午後の訓練は、練習相手・ドリームメーカーとの特別メニューからスタート。
元英雄サラブレッド(約700kg)は、今や立派な種牡馬体型ながら、かつての闘志は健在だった。
遊馬がハーネスを装着して軽いソリを引かせると、ドリームメーカーは鼻を鳴らして「本気でやる気か?」とでも言いたげに歩き始めた。(遊馬の言うことは聞く)
「うわっ……重い! でもこれ、夢雪が1歳になったらもっと重くなるよね……!」
凛花は歯を食いしばりながら、遊馬が作成したフォームチェックリストを頭の中で反芻する。
腰を落とし、背筋を伸ばし、地面を蹴るようにして進む。
汗が目に入って視界が滲む。
「フォームが崩れてます。
もう一回。ドリームメーカーも『もっとちゃんと引け』って顔してるよ」
遊馬が冷静に指摘。
横では瑤子が腕組みしながら見守り、時折「水飲みなさい」と麦茶を差し入れてくる。
夕方近くになると、夢雪が厩舎から顔を出して「キュンキュン」と可愛い声で凛花を呼んだ。
赤と白の美しい斑模様が夕陽に輝いている。
「夢雪~、待っててね。今お母さん(自分)頑張ってるから……!」
凛花が手を振ると、夢雪はユキヒメに甘えながらも、時々凛花の方をチラチラ見る。
まるで「早く遊ぼうよ」と言っているようだった。
夜。飛田宅(合宿中)
勉強机に向かいながら、凛花は今日の筋肉痛に顔を歪めていた。
「うう……明日もこれ?
学業と両立って、本当にできるのかな……」
そこへ瑤子が入ってきて、静かに頭を撫でた。
「無理はしないで。
でも、逃げないで。
私が一生面倒見るって言ったでしょ?
凛花が本気なら、私は本気で支える」
凛花の目が少し潤んだ。
「……はい。私、ばんえい騎手になります。夢雪を、ちゃんと自分で引いて走らせたいんです」
窓の外では、遊馬がタブレットでさらにデータを更新し、ドリームメーカーがのんびり草を食んでいた。
ユキヒメは夢雪を優しく舐め回している。
夏休みはまだ始まったばかり。
学業、牧場作業、そして本格的な肉体改造。
白樺凛花の「三重苦」生活が、こうして幕を開けた。




