好意の差異
西園くんと僕は結構仲良くなって、西園くんは当番の日のみならず、毎日のように緑化委員の仕事に勤しむようになった。もちろん、春子さんや夏帆さんもちょくちょく顔を出す。
ただ、西園くんと一緒に草むしりをしていたら、春子さんは面食らったような顔をしていた。
「あんたたち、随分仲良くなったわね」
「そうかな?」
「ぼくは相楽先輩を尊敬しています!」
西園くんは何故か敬礼。
尊敬されるとやはり先輩として嬉しい。
ただちょっと堅苦しいかな、と思う。
「西園くん、そろそろもうちょっと砕けた口調で話さない?」
「えっ、そんな、敬愛する先輩に対して失礼な……」
「失礼とかじゃないからさ、尊敬語とか謙譲語とか使いこなさなくていいから、普通に丁寧語で喋ってくれないかな? 僕、君のこと秋弥くんって呼ぶからさ」
「そんな、畏れ多い」
僕、彼の中でどういう位置づけなんだろう。
「でね、秋弥くんがね」
「兄貴さっきからそいつの話ばっかり」
不機嫌な我が家の王子様に僕は学校であったことを語り聞かせていた。ちょっと理不尽に思ったのでむっとする。
「哀音が、『学校であったことを話してほしい』って言い出したんでしょう?」
「そうだけど……同じ話を五回も六回も繰り返すとか……老人かよ」
はて、そんなに繰り返しただろうか。
まあ、確かに話のテーマはずっと「後輩が可愛い件について」だったが。
「でも本当にいい子なんだよ? 秋弥くん」
「いつの間にか名前呼びになってるし……」
名前呼びなぁ。そんなにいけないことだろうか。
ほとんど初対面から春子さんや夏帆さんは名前呼びだったから、僕としちゃ遅いくらいなんだけど。
「親しく感じるから好きなんだけどな、名前呼び」
「そうか?」
我が弟は猜疑的だ。
「小学校とか中学校とかならまだわかるさ。でも高校生だぜ? 普通苗字とかじゃない?」
「それは人それぞれじゃないかなぁ」
確かに、小説や漫画で描かれる高校生は名前呼びより苗字呼びの方が圧倒的に多い気がするが、それが全て現実に当てはまるとは思えない。
それに、秋弥くんの場合は苗字呼びから入っているし、何か問題があるのだろうか。
「兄貴の懐の広さにおれは感嘆するよ」
「ありがとう」
「褒めてない」
あれ?
懐が広いは褒め言葉じゃなかったっけ?
「何がそんなに不満なのさ、哀音」
「別に」
哀音がちょっとそっぽを向き、口元に手を当ててぼそぼそという。
「別に兄貴が高校に馴染んで楽しそうにしているのが羨ましいとか妬ましいとか思ってないし」
ちょっと哀音さん、言っちゃってますよ。全部声に出ちゃってますよ。
全く、ツンデレさんで可愛いんだから。
僕は哀音の頭をくしゃくしゃと撫でる。哀音はくすぐったそうに肩を竦めた。
「んだよ? いきなり」
「哀音ってば可愛いー。つまり嫉妬?」
「んなっ」
わかりやすい。頬が上気している。全く、照れ屋さんなんだから。
──そして、心配症なんだから。
「言ったでしょ? 哀音。僕たちは何があろうと兄弟なんだから」
「兄貴……」
少し潤んだ目をした後、哀音は花が咲いたように笑った。向日葵みたいな大輪だ。
そう、向日葵といえば。
順調に庭ですくすく育ち、開花へ向けて成長している。
「向日葵咲いたら、春子さんとか夏帆さんとか秋弥くんに見に来てもらおうかな」
「兄貴待って、春子と夏帆は何者だ」
たちまち哀音の表情に険しさが戻る。
「兄貴に変な虫がつかないようにするためだ!」と言っているけれど、そんなに心配する必要はないのになぁ。
そう思いながら、春子さんと夏帆さんについても話して聞かせた。
本当に、兄貴は油断ならない。
おれは兄貴の高校生活を聞きながら思った。
兄貴は、誰とでも打ち解けるというか、壁を作らないというか、異様なまでに懐が広い。
懐が広いことは悪いことではない。だが、兄貴の場合は広すぎた。それがまだ悪影響をもたらしていないが、兄貴はいつか人に喜んで利用されてしまうのではないだろうか? 満足に人を怒ることもできず、何もかもを許してしまって、自分だけ苦しむようになってしまうんじゃないだろうか?
不安は尽きない。兄貴は優しすぎるのだ。
例えば、一度小学校の頃、転校を経験した。
兄貴のクラスはいじめ問題が如実なクラスで転校生いびりがあったらしい。
そんな中兄貴は嫌がらせを全てスルーした。媚びたわけではない。持ち前の懐の広さで気に留めなかったのだ。
その後そのクラスがどうなったか詳しくは知らないが、噂によれば、いじめっ子たちが精神的に狂ったらしい。
兄貴のせいかはわからないが、兄貴の性格が一役買ったことは否定できない。
優しさは時に残酷だ。
何もかもを許されてしまうと、悪いことをしている自覚のある者は許されているのだと倒錯し、狂う。または罪悪感に押し潰されて、狂う。
そう、優しさは時に人を狂わせるのだ。
兄貴の優しさは人の心を安らかにするものだが、ずっと何もかもに対して優しいままだとしたら、いつかどこかで、誰かを壊す。そして兄貴も壊されてしまう。
そんな予感が頭の中で渦巻いている。
兄貴の話す西園とやらが、実は悪人だったら。
春子という女が何かを企てていたら。
夏帆が馬鹿の仮面を被った狡猾な人間だったら。
可能性は考えれば考えるほどに不安となっておれの心を押し潰す。
きっと、誰かの箍が外れた瞬間に兄貴は傷つけられるのだ。仮に兄貴が傷つけられなかったとしても、兄貴はその誰かのために罪悪感に苛まれるだろう。
兄貴が傷つくのは、嫌だった。
だから、兄貴が傷つかないように、兄貴を傷つける要因となるものをおれは把握しておかなければならない。
兄貴が傷つくことのないうちにそいつが壊れたらそっと縁を切らせるのだ。どんな手段を使っても。
兄貴は不安になりがちなおれを癒してくれる。幼い頃からずっと、嫌な顔一つせずにおれの話を聞いてくれる。
これはそれに対する恩返しのようなものだ。
おれの傷を癒して、守ってくれる兄貴。今度はおれが守る番なのだと思う。
中学生と高校生で学校はばらばらだけれど、それでもおれには何かできると思うんだ。そうじゃなきゃ、おれが生きている意味がない。
少し異常であることは知っている。
守るというのは半分言い訳で、本当はおれはただただ兄貴という存在に執着しているだけなんだ。
優しい言葉をかけてくれる、おれだけの兄貴。
それを守りたかった。
独り占めしたかった。
兄貴は知らないことだが、学校で悪口を言われているのは、大抵兄貴のことで、だ。
容姿が似ていない、雰囲気が似ていない、勉強ができるできない、性格が違いすぎる……おれと兄貴の違いなんて山のようにあるから、数えたらきりがない。
奴らはおれが兄貴をどれだけ大切に思っているか知っているからこそ、貶してくる。人の大切なものを貶すことで、優越を得ているのだ。
可哀想な奴ら、と無視することもできたが、兄貴が絡むと、どうも抑えが効かない。
「おれと兄貴が兄弟で、何が悪い!?」
いつも絶叫していることだ。
おれの中に宿る執着心により、大抵の者が引き下がるが、一部は馬鹿にする。
「お前、兄貴のことが好きなのかよ? 兄弟のくせに!」
その言葉はおれの感情を的確に言い当てていて、言葉を失いそうになった。
おれは兄貴が好きなのだ。恋愛的な意味で。
だが、おれは違うことを叫んだ。
「兄弟に親愛を持って何が悪い?」
兄弟愛、というものが世には存在する。
それを笠に着て、恋愛感情を誤魔化したのだ、おれは。周囲の目を欺いた。
そうだよ、兄貴が好きだよ? 家族としてな。それの何が悪い?
そうやって自分をも誤魔化したのだ。
ずっと、この心は隠さなくてはならない。兄貴にも知られるわけにはいかない。
おれは影に徹して、兄貴を守っていればいい。
そう思いながらも、どこかで恐れていた。
──兄貴がいつか自分の手の届く範囲から、目の届く範囲から、いなくなってしまうのではないか、と。
この期に及んで、やはりおれはおれの兄貴を誰にも盗られたくなかったのだ。
そのときおれはまだ、ずっと一緒にいるのは難しいことだとちゃんと理解していなかった。




