事故
終業式の日。
最近暑くなってきて、夏らしくなってきた。半袖の制服も着ていて暑いくらいだ。
嬉しいことがある。
「向日葵が咲いた!!」
朝、庭を見に行くと、向日葵が一輪、その大輪を綻ばせていた。
こちらまで嬉しい気持ちになってくる。
「よかったな、兄貴」
「ありがとう、哀音!」
同意してくれた哀音に思わず抱きつく。哀音はうわ、と言ったあと、黙りこくってしまった。
「あ、ごめんね。勝手に抱きついちゃって。あれ? 哀音、大丈夫?」
顔が赤い気がするのだけれど。熱中症だろうか。
すると哀音は僕の手を振り払い、足早に家を出ていってしまった。とうとう哀音は僕にまで反抗期かな。お兄ちゃん寂しい。
とにかく。
「ふふ、これで幸葵くんやみんなに報告できる」
今日は授業はない。終業式と軽いホームルームだけ。
幸葵くんはそそくさとどこかへ行ってしまった。今朝も何やらラブレターらしきものをごみ箱にポイしていたから、きっと呼び出しでもあったのだろう。
僕に目撃された一件以来、幸葵くんはラブレターを引き裂くことはなくなった。おそらく、もう見られるのは嫌なのだろう。
中身を確認しているか否かはわからないがラブレターがあんな悲惨なことにならずに済んでいることに、僕はどこかほっとしている。
本人に見られたら相当な衝撃だろうからね。
さて、向日葵のことは幸葵くんに真っ先に話したかったのだけれど、切り出すタイミングを逸してしまった。仕方ない、帰ろうか、と教室の戸を引く。
「わあっ」
「わあっ!?」
突如として目の前に見覚えのあるあほづ……こほん、顔が現れた。
夏帆さんだ。
後ろからさりげなく春子さんも現れる。
「どうしたの? 二人共」
「出待ち、及び救援要請」
「はい?」
僕が出待ちされるほどの人材だったとは驚きだが、一方の救援要請とは何だ。穏やかじゃないな。
夏帆さんは得意満面に告げる。
「緑化委員絶賛人手不足なう!」
「……お前はなんで使う言葉がいちいちJK意識高めなんだよ」
「いて」
夏帆さんが何か言うと春子さんが突っ込むところまでで一幕になる。
見ていて実に愉快だが、残念なことに伝えたい内容が全く入ってこない。
「人手不足って……委員会は各クラスから必要人数揃えているんじゃ?」
「我らが緑化委員が委員会に来ると思うかね? 相楽くん」
「……あ、確かに」
「夏帆は胸張って言うことじゃないし、相楽は納得するとこじゃないよ」
僕まで突っ込まれた。光栄だ。
は、さておき。
どうやら緑化委員絡みで何かあるのに、肝心の委員が集わない、と。
緑化委員はもはや何をしているか謎という認識レベルなのが問題だろう。
そんな今日の活動内容というのが。
「これ」
「うわあ」
春子さんたちに連れて来られたのは金次郎像並に学校にあるかもしれない小便小僧像のところ。
小便小僧の前は、池になっている。
問題はその池だ。鯉でも泳いでいれば風情がある、どころの問題ではない。泥地に住まうこともある実は外来生物である鯉ですら、少し入るのを躊躇うのではなかろうか。
要するに、汚いのである。
藻なのか何なのかわからないものがそこら中にある。藻だけならまだ可愛いものだが、池は触れなくともわかるくらいにへどろにまみれていた。時折紙くずやら紙コップらしきごみも見えるのは幻覚と思いたい。
「これを掃除せよとのことなのです、汀先輩」
池の前で合流した秋弥くんが言う。
何でも、夏休みに入る前にどうにかしておいた方がいいという先生のご意向。
だいぶ前からやっとくべきだったと、僕は思います。
「何故こうなるまで放置したかね……」
「わかりません。どうにかなるでしょうか、先輩」
秋弥くんが不安そうに見上げてくるのに、僕は肩を竦めるしかない。
「どうにかするしかないでしょう」
幸い、異臭を放つとかいうところまではいっていない。いく前に気づいてよかった。ファインプレイ、先生。
よし、気分が前向きになったところで作戦を立てよう。
夏帆さん、春子さんも含め、人員は四人。顔を付き合わせ、話し合う。
「とりあえず、素手で触りたくないよね」
「同意だ。へどろに触るなんて嫌だ」
「春子が珍しく女子らしいこと言ったー」
「黙れバカホ」
「ちょっと待ってひどい」
おろろーんと言い始めた夏帆さんを放置し、ひとまず職員室に行くことが決定した。
まさか素手でへどろに立ち向かうわけにもいくまい。僕はそんなに豪胆ではないし、他三人もそうだろう。
必要器具を揃えるところからスタートだ。
ゴム手袋、バケツ、長靴。
分別用に黒いごみ袋。水道が近くにあるため、延長コードならぬ延長ホースをする。
まあ、準備はこんなところだろう。問題は長靴が二足しかないため、池の中に入れる作業員が二人しかいないこと。少人数なのは、むしろよかったのかもしれない。
僕だけ聞いていなかったから、運動着とか着替えの準備がないんだが、このどろどろのへどろ池の中に女子二人を入れるのは男としてどうかと思ったため、制服のズボンを極限まで捲り上げ、制服のネクタイを取り、オペ前の医者みたいにゴム手袋をくっと嵌める。
無駄に格好をつけた最後の所作はさておき、これに保健室からいただいたマスクをつけたら、なんだか完全防備な気がする。
相棒となる秋弥くんも、運動着に手袋と長靴を着用。他二人はバケツに汲んだへどろを下水道に運ぶ係だ。
「さぁて、始めるとするか」
「すみません、先輩にこんなことに付き合わせて……」
「いいのいいの。もっとひどくなる前でよかったじゃん」
前向きな言葉を並べ立てながら、ちゃぷんとほぼへどろの水に足を入れる。まだ躊躇いが見られるのは仕方ないことだろう。
膝丈まである長靴の心強さよ。
池はそう深くない。ちょうど膝丈くらいだ。一歩間違うと僕は制服おじゃんになりそうで怖いが、間近で見ると、やはりこのへどろは女子に触らせるものではない。
「ひどいですね……」
最近口調がだいぶ砕けてきた秋弥くんが僕に続いて入ってくる。確かにひどい。
具体的にどうひどいかというと、へどろの中に溶けかかったごみが浮遊しているところだろう。空き缶とか、ガムの銀紙とか……誰だ、テスト用紙を捨てたのは。47点。赤点すれすれじゃないか。運よく名前部分がへどろで読めなくなっているが。
「花壇もそうだけど、ごみのポイ捨て禁止は呼び掛けるべきだね」
僕と秋弥くんはぬめぬめした足場で、しばらくごみ拾いをした。結構出てくるもので、途中、自転車の鍵なんかが出てきたときは呆れたものだ。
落とし物っぽいものは春子さんたちにへどろを落としてもらい、至急職員室に届けるようにしてもらった。自転車が使えないのでは困りものだろう。
ごみが圧倒的に多かったから、ごみ袋がどんどん溜まる溜まる。
「だいぶさらさらになりましたね」
「そうだねぇ」
へどろがさらさらになる頃にはほとんどの固形物が取り除かれていた。というか、ごみにほとんどのへどろがまとわりついていたようだ。
「だいぶ水嵩? が減りましたね」
秋弥くんの呟きが示すことは。
へどろの原因のほとんどがごみであったことだ。まあ、へどろってごみからできるんだなぁってことはなんとなく知っていたけれど、水嵩が膝から脛の辺りまでに変わるのだから、呆れたものである。
「とりあえず、残りのへどろを掻き出そうか」
「はい」
さらさらとした水も感じられる中、まだどろっとした重さを持つものを足元にかき集め、春子さんと夏帆さんが持つバケツに掬い上げていく。藻は魚の餌になるため取っておいた方がいいとのこと。魚飼う気なのか。
作業を続けるうちに日は15度ほど動いたけれど、まあ、なんとかなりはした。水嵩ほぼないけどね。足首くらいになったかな。
「こんなに変わるなんて」
唖然と自分の足元を見下ろす秋弥くんに同意だ。けれどまあ、藻のせいで緑がかってはいるが、水は透明度を取り戻したのでよしとしよう。
あとは水を張り直せば、この掃除は終了である。
僕は共に池の中で奮闘した秋弥くんを労うため、肩を叩こうと手を伸ばし、足を一歩踏み出した。
そこで、
がぽっ
「ぅあっ」
僕は落とし穴のようなピンポイントな溝にはまり、こけた。
ぱしゃぁんっ
僕が落ちたことによって跳ねた水。透明度は最初から見たらいい方だが、最初が最初だ。まだ、泥水といっても差し支えない程度には濁っている。
突然の転倒のため、何も準備できずにただ後ろにこける。間抜けに空中に伸ばされた手は救いを掴み取ることができぬまま、水に呑まれていく。
「先輩っ」
「うぇっほ」
泥水が口に入った。気持ち悪い。
慌てて秋弥くんが助け起こしてくれたが、水の不味さが口内を満たし、吐き出したい衝動に駆られる。なんとか抑えたのは、人前だからだ。
衣服が濡れたせいで体が重い。重力に引きずられるのがわかる。
「うわぁ……」
それしか言い様がない。それくらい悲惨な状況だった。
シャツが清潔感のある白色を失うわ、ズボンがびしょ濡れで気持ち悪いわ、髪からぽたぽた落ちる水滴が鬱陶しいわ……
救出しようと秋弥くんが伸ばした手を掴む。
が。
するっ
そんな擬音が聞こえそうなくらい僕の手からすんなりとゴム手袋が剥がれていく。
再びばしゃん。二度目ともなると、もはや聖性とすら呼べる諦念がつきまとってくる。
「わわわ、先輩っ」
僕の抜けたゴム手袋をあたふたと振り回す秋弥くん。ちょっと愉快だが、落ち着いてほしい。
「ちょっと相楽、大丈夫?」
「どう見える?」
駆け寄ってきた春子さんに苦笑いで返す。春子さんは黙って目を逸らした。ついでに目に留まったらしい、陰で密やかに笑う夏帆さんを鉄拳制裁してらっしゃった。
三度目の正直、と秋弥くんが手袋を外し、おっかなびっくり僕を引き揚げる。「二度あることは三度ある」の格言は適用されなかったようで一安心。
だが、思い出してみよう。今の面々の中で僕だけ着替えの準備をしていない。
つまりは、びっしょびしょの制服で下校、と。
随分な夏休みの始まりもあったもんだ。
「すみません、本当に、汀先輩……」
申し訳なさそうに僕にバスタオルをかけてくれる秋弥くん。タオルからも爽やかな洗剤の匂いがするって女子力高いっていうの? 男子だけど。
僕はタオルで頭や腕を拭きながら、ぼうっと新しい水が池に注がれる様を見ていた。春子さんと夏帆さんでやっている。夏帆さんが悪戯でホースの先を潰して持つのを春子さんがすかさず突っ込み、水浸しになるのを防いでいる。なんだかんだでいいコンビだ。
「しかし、困ったねぇ」
そう言ったのは、春子さんだった。
僕の濡れそぼった姿を頭から足先まで見る。改まって女子に眺められることなんてなかったから気恥ずかしい。
が、今はそんなことは問題ではない。
「相楽、着替え持ってないんでしょ?」
「うん。でも家近いし」
「いや、さすがに全身びしょ濡れのまま帰せないでしょ」
職質受けるよ、と言われた。受けたことがあるのだろうか。
「それに、手伝ってもらったのはこっちだしね」
「すみません、ぼくがあのとき汀先輩の手をちゃんと掴めていたら……」
「起こっちゃったことはしゃーないっしょ、にっしー」
「自分はほとんど何もしてなかった癖に威張るな夏帆」
夏帆さんが挟まるとコメディに変わってしまうが、まあ、彼女の言う通りだ。過去をああだこうだ言ってもどうにもならない。
けれど、やはり責任を感じているのか、秋弥くんが「ぼくの予備の着替えを」と言い出す。
しかし、それはできない。
春子さんが代答する。
「あんたじゃちょっとサイズ小さいでしょ」
「うっ……」
秋弥くんは僕より背が小さく、僕の見立てが正しければ、僕より頭一つ分小さい哀音と同じくらいだ。体格もどちらかというと華奢な方だし。
伸び代はあるだろうけれど、僕からするとサイズは小さいにちがいない。運動着もあまりぶかぶかというわけではないようだし。
そこからすると、最善策は……やはりびしょ濡れのような気がするが。
否、策がないわけではない。ただ、提案しづらいというか、体面が気になるというか。
しかし、僕が言えないでいることを、蛇口をきゅ、と締めて水を止めた春子さんがあっさり告げる。
「あたしの運動着貸すよ」
「……ええと」
それはまずいんじゃないかなぁ、と思う。
女子が男子の服を借りるのはありだと思う。少女漫画で言うところの胸キュンシーンに該当すると宣言しても過言ではない。
だが、その逆はどうだ? ──男子が女子の服を借りる。
確かに、春子さんは僕と身長が同じくらいだし、見た感じ、サイズも合わないことはないだろう。僕も男子の中で言ったら華奢な方だし。
しかしね。
男子が女子の服着るって世間体的にどうなのよ。
だが、そこに春子さんは的確にとどめを刺してくる。
「他に手はある?」
残念ながら、ない。
秋弥くんのだとサイズが小さいのは、先に言った通りだ。
春子さんより背丈の低い夏帆さんは論外である。何よりもまず、女子だ。
そんなことを言ったら、春子さんも女子だが。
「洗濯はされてるから気にすんな」
「いや、春子さんそういう問題じゃないんだよ」
「じゃあどういう問題なんだ?」
「うっ」
返答に詰まる僕を援護するためか、単に茶々を入れたいのか、夏帆さんが口を開く。
「これだから春子は男心がわからないんだよ」
「関係ないだろ、今」
超絶怒涛に関係あります。
が、夏帆さんの口出しによりむっとなった春子さんからの視線の威圧に、僕が勝利を収めることはなかった。
「ほれ」と渡された運動着を受け取り、僕はおずおずと、運動部が使う男子の更衣室に行くのだった。
どうしてこうなった……と思いながら体を拭きつつ、着替える。
いつまでも下着姿でいるわけにもいかないので、えいやっと着てしまう。もうどうにでもなれ。
柔軟剤の香りだろうか。フローラルな匂いがする。女子らしいな。春子さんの性格や見た目から考えて、もっと爽やかな──それこそ秋弥くんみたいな匂いがするかと思っていたんだが。
考えていて恥ずかしくなる。女子っぽい匂いにより、女子の着衣を着ているという意識が高まり、自然と頬に熱が集まってくる。幸い、今更衣室を使っている人物は他にはいないため、不審がられることはないが、落ち着け、僕。
こういうのは意識するからいけないんだ。女子のものだと思わなければいい。
…………
………
……
それだと春子さんを女子じゃないと思っているみたいで罪悪感が湧く。
運動着は男女大体同じデザインなのがせめてもの救いだ。胸元に余裕があるのは気にしたら負けだ。
僕は悶々としながら着替えを終えた。




