思い出してもらえない
あの事件から、17年。
おれの兄貴、汀相楽は記憶喪失を起こしてしまった。親兄弟のことも満足に覚えていないのだという。
特に弟のおれは全く思い出してもらえなかった。あの事件からずっと、兄貴を支えていこうという決意でいたのに、おれを見る兄貴の目は変貌してしまった。
「ええと、君は、誰?」
目を覚ました兄貴の第一声におれがどんな想いをしたか。
兄貴をこんな風にした原因たるあいつは一回殴ってやったが、もう一度殴りたいくらいに悔しかった。
けれど、忘れてしまうことが兄貴の最善にもなりうる、と医師に言われた。
よく考えてみれば、そうだろう。
兄貴はおれのことを忘れたが、あいつのことも忘れたのだ。
それなら、苦しんで絶食を続けていたあの頃より、ずっと楽であるにちがいない。
親父とお袋は、ほとんど赤の他人扱いにされるため、兄貴に顔を見せることはない。
おれだけが、まだ淡い希望を持っているのだ。
兄貴は当初の予定通り、伯父の経営していた花屋を引き継いだ。伯父のことも覚えていないらしく、善意ある第三者として伯父は花屋を引き渡したという。
一年経って、伯父が諦め、五年経って、両親が諦めた。
兄貴に思い出してもらうことを。
それが兄貴の幸せなら、とおれは何度も自分に言い聞かせた。けれど、おれの心は諦めてくれなかった。
苦しいだけなのに。
兄貴は若干の記憶障害があるようで、常連の顔も覚えていられないから、とメモを取るようになった。
言わずものがな、おれはすっかり常連だ。何かにつけて花を買っていく。部屋に飾ったり、庭に植えたりしている。
兄貴と一緒に花屋をやりたかったから、知識はあったんだ。
我ながら、女々しいとは思う。
「私を忘れないで」とか「貴方を忘れない」とか「幸福の再来」とか、届かないことは知っているのに、兄貴のために花を買ってしまう。
自分のためでもあるが。
会うたびに、「汀さんですか。僕と同じ苗字ですね」と言われ、傷つく。
兄貴と同じ苗字なのは当たり前だ。兄弟なんだから。婿養子にでも入らない限り、おれの「汀」という苗字は変わらないだろう。兄貴の苗字も然りだ。
今日も、名前を訊かれるんだろうな、と思いながら、花屋に足を向ける。
おれの職業は叔母の家のクリーニング屋の手伝い。手伝いというか、ほとんどのことはやっていて、一日交替くらいで仕事を請け負っている。
そうしたのも、叔母の家が伯父の花屋に近いからだ。
叔母は兄貴のことを諦めきれないおれの想いを知ってくれている。
だから、毎日定時であがり、兄貴の店に行くのを黙っていてくれるのだ。
その日は、いつもと変わらない日だった。そう思っていた。
土曜日で少し人通りのある中を抜けて、兄貴の店へと向かった。
店に入るといつも明るい出迎えの言葉が聞こえるはずなのだが……
今日は静かだ。
店は空いているのにいない?
「こんにちはー」
不審に思いながらも、店の奥へと入っていく。
こういうとき、大抵兄貴は庭の世話に行っているのだ。時間を忘れて花に囲まれていることもしばしば。客足があまりないのをいいことにそうするのはどうかと思うが、実に兄貴らしい。
だが、その日は違った。
いつもなら、声をかければ兄貴は返事をしながら慌てて出てきてくれるのだ。
だが、今日出てきたのは、
「どうかしまし──っ」
「てめぇ……!」
なんでもないような顔で、そこにいたのは、17年前、兄貴を苦しめた挙げ句失踪したあいつ──兄貴の高校時代の同級生、白崎幸葵だった。
互いに顔は知っている。あの事件のときには一度顔を合わせているのだから。
「兄貴はどうした?」
「眠っています」
「まさかまた何かしたんじゃないだろうな?」
問い詰めるおれの視線から逃れるようにそいつは顔を背けた。
おれはずかずかと歩み寄り、そいつの襟首を引っ掴んだ。
「てめぇ、今更どの面下げて兄貴に会いに来やがった!?」
するとそいつは顔を歪めて、泣きそうな顔で、掠れた声を出した。
「違うんです……」
「何が違うっていうんだよ!?」
兄貴を傷つけて、苦しめたくせに!!
何故17年前のあのときに何も罰を与えなかったのか。
憤怒で目の前が赤く染まる心地がした。
そいつはふるふると力なく、首を横に振った。
「俺が今日この店に来たのは本当に偶然です。まさか、会えると思っていなかった……
けれど彼は何も覚えていなかった」
「それはそうだろうさ! お前が兄貴を殺しかけた後、兄貴がどれだけ苦しんだか、お前は知らないだろう!?苦しんで苦しんで苦しんだ末に……兄貴は全部、忘れたんだよ……!」
悔しくて仕方ない。今目の前にいる男を殴り飛ばしてやりたいのに、兄貴が大切にしている花の前だから、それができなかった。
「忘れた、ですか……なら、そのままの方がよかったんですかね」
「どういう意味だ?」
そいつの口にした言葉に引っ掛かりを覚える。
まさか。
「相楽は、俺の名前を呼びました。はっきり、幸葵くん、と」
「そんな……まさか……」
おれは愕然として、そいつの襟首を掴まえていた手を放した。
思い出した?
あれだけ苦しんで、忘れたがっていた兄貴が、思い出した?
こんなにもあっさりと?
引き金はよりにもよって、こいつ?
到底認められる現実ではない。
「嘘だ……17年かかって、おれのことも思い出せなかったのに」
「でも、本当なんです」
「お前、兄貴に一体何したんだよ」
おれが疑り深く訊くと、そいつは俯いた。
まさかとは思うが。
「そんなに疚しいことでもしたのか?」
案の定、顔を背けるそいつに、おれの箍は飛んだ。
すぱぁん、と拳を振り抜く。平手なんて柔なことはしない。
おれは怒りに任せてそいつを殴りつけた。
苛々した。
そいつはこれも罰だと、受け入れるような顔をしていたからだ。
「今も昔も! いつだって兄貴を苦しめるのはお前だ!!」
怒りに任せた殴打音が、不規則に店の空気を揺らした。客がいなかったのは、幸いだったかもしれない。どうせ客がいたところで、おれは行動を変えようとはしなかっただろうが。
それが数分続いた。
そいつの両頬は腫れ上がり、口の中を切ったのか、唇の端から血を流していた。
おれの心が、それしきで収まるわけもなく、手を振り上げたところで、
「やめてください」
と、澄んだ声がした。
毎日聞いている馴染みの声。
「あに、き……」
店の奥から、鶯色の目がこちらを見つめている。そこに宿る感情は、あまり兄貴が発露しない、怒りのような類のものだった。
そこでおれは手を止める。
思い出したんなら、もういいじゃないか。
だが、
現実はそう甘くなかった。
「やめてください、汀さん!」
おれは目を見開き、絶句する。
兄貴はおれのことを、「汀さん」と呼んだ。店の常連の汀哀音であることは理解しているのだろう。
だが、それだけだ。
汀哀音が弟であることは思い出していない。
白崎の野郎が憐れみを湛えた目でおれを見てくる。それがむかつく。
おれは睨んでやった。
「お前はそうやって、いつもいつも、おれの居場所を奪っていく……」
恨みを込めてそう言った。
それから踵を返し、店から出る。兄貴が何か叫んでいる気がするが、それを気にする余裕がなかった。
これ以上いたら、泣いてしまう。
兄貴の馬鹿……!
汀さんの去った後で、僕は呆然とする。汀さんはひどく悲しそうな顔をしていた。
傍らに立つ、顔面を殴られた痕が痛ましい幸葵くん──かつての同級生を見上げる。
僕はまだぼんやりとしか記憶が戻っていないけれど、彼なら何か知っているのだろうか。
「ねぇ、さっきの汀さんって誰だったか知ってる?」
「……自分で思い出してあげてください」
ひどく悲しそうに幸葵くんは言った。




