第四話 侯爵夫人を怒らせた!
十六歳の秋、私とアデライドは、式部部に研修に出された。
式部部は、王宮の儀式や夜会の段取りを司る部署で、招待状と席次表を扱う。
夜会の準備は、まるで戦場である。
招待状の控え、卓番号の案内札、席札、卓の図面、花の配置。
式部部の机には、紙の山がいくつも築かれていた。
今年の秋の夜会は、招待客が百五十人。
夜会の最後には、ある発表があるという。
私たちは、それが何かを知っているが、三つ目の心得で、固く口を閉じている。
式部官のルノー様は、書類に埋もれた、三十代の働き者である。
私たちに任された仕事は、発送済みの招待状の控えと、卓番号の案内札、
席次表の突き合わせだった。
「発送は、すでに終わっています。
確認だけで結構です。……何も起こらないことを、祈っています」
その祈りは、二日目の朝に、破れた。
◇
「式部官殿! これはどういうことです!」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、背筋の針金のような初老の婦人。
手には、一通の招待状と案内札を握りしめていた。
クレルモン侯爵夫人である。
「侯爵家の私が、第九卓とは。九番といえば、扉に近い末席ではありませんか!
昨年は、王妃陛下のお卓でしたのよ!」
ルノー様が、顔色を失った。
間もなく、扉の陰から、もう一人の婦人が、小さくなって入ってきた。
同じ名字の、別の家のクレルモン子爵夫人である。
「あの……私のところに、第一卓の案内札が……。
王妃陛下のお隣など、畏れ多くて、胃が痛くて……」
二人の婦人は、顔を見合わせた。
侯爵夫人の眉が、跳ね上がった。
私は数字が好きなので、こういうときに、じっとしていられない。
そっと、発送票の控えを広げて、クレルモンの名を探した。
人の席が、一枚の紙で入れ替わる。
王宮の秩序は、案外、紙の上に載っている。
二行、並んでいる。
宛名は、どちらも「クレルモン夫人」
卓番号だけが、一と、九。
「……式部官様。この宛名、略されています」
「略?」
「宛名札の紙が小さいので、爵位が省かれていると思います。
どちらも『クレルモン夫人』とのみ、書かれています。
案内札を同封するとき、宛名だけを頼りにすれば、
一と九を取り違えても不思議はありません」
ルノー様は、頭を抱えた。
「……私の確認不足です。誠に申し訳ございません、侯爵夫人。
正しい案内札を、本日中にお届けいたします」
侯爵夫人は、まだ納得しかねる様子だった。
「では、私の席は、第一卓で間違いないのですね?」
ルノー様は、席次表に目を落とした。
「はい。王妃陛下のお隣でございます。アデライド嬢、席次の確認を」
「はい。侯爵夫人のお席は、第一卓で相違ございません」
アデライドは、静かに一礼した。声は小さいが揺るがなかった。
侯爵夫人は、鼻を鳴らしたが、怒りの矛先は、すっと下がった。
「……よろしい。お詫びの文は、きちんと添えること」
「子爵夫人にも、正しい案内札を、お届けいたします」
アデライドが言うと、子爵夫人は、ほっとしたように、深く頭を下げた。
胃の痛みが、少し治まったらしい。
帰り際、侯爵夫人は、ふと、私のほうを向いた。
「そういえば、夜会の最後に何か発表があると伺いましたけれど。
あなた方は、何かご存じかしら?」
私は、喉まで出かかった。
侍従長様と、ロザリー伯爵夫人の——。
「それは、その——」
「夫人」
アデライドの声が、すっと割って入った。
「夜会の楽しみは、当日まで取っておくのが、礼儀でございます。
私どもの口から申し上げるのは、礼を欠きますので」
侯爵夫人は、満足げに笑った。
嘘では、ない。
礼法とは、実に便利なものである。
◇
その日の午後、アデライドは、美しい字で、お詫びの文を二通、書いた。
筆を走らせる横顔は、式部官よりもよほど落ち着いていた。
私は、他にも同じ略称の宛名がないか、全部の発送票を洗った。
さらに三組を見つけてしまった。
一組ずつ、もう一度、案内札と席次表を照らした。
正しい組み合わせを手帳に書き、ルノー様に差し出した。
「……ありがとう。見習いの目で、気づいてもらえて、助かりました」
ルノー様は、疲れた顔のまま、微笑んだ。
「祈りは、半分、通じたようです」
「あなたの礼法がなかったら、侯爵夫人に、首を取られていたわ」
私は小声で言った。
「あなたの数字がなかったら、原因すら、わからなかったもの」
アデライドも小声で返した。
祈りの残り半分は、夜会の前日に、破れた。
出欠の返信が、最後の束で届き、欠席は九名。
その中に、第三卓の主賓だった、高位の侯爵が含まれていた。
「困りました。第三卓の上座が、空いてしまう。
繰り上げれば、順位が崩れて、また別の夫人が、お怒りに」
ルノー様の顔が、また曇った。
私は、九つの空席を、席次表の上に、赤い点で打った。
アデライドが、横から、静かに言った。
「卓をまたぐ移動は、避けましょう。
同じ卓の中で、序列を崩さずに席を詰めれば、
他の卓の方々にも、ご迷惑をかけずに済みます」
「それなら、各卓の空席を数えて、末席から詰めていけばいいわね。
第三卓は、次席の方を上座へ。その下も、順位どおりに一つずつ」
私は卓ごとの人数を数え直した。
アデライドは、席を移すたびに、爵位と序列を確かえた。
上座に打った赤い点は、一つずつ消えていった。
空席は各卓の下座にまとまり、卓をまたぐ移動は一度もなかった。
ルノー様は、しばらく表を眺めてから、大きく息を吐いた。
「……席次表が、美しい」
◇
夜会の夜。
扉係の見習いとして立つ私とアデライドの前を、百四十一人の招待客が、案内札を手に通っていく。
クレルモン侯爵夫人は、第一卓。
クレルモン子爵夫人は、第九卓で、ほっとした顔をしていた。
胃は、無事らしい。
第一卓の席札が、正しく侯爵夫人の前に置かれているのを見た。
私は、あらためて紙一枚の重さを噛みしめた。
侯爵夫人は、通りがかりに、アデライドへ
「見事な字でしたわ」
と声をかけた。ついでに、私にも
「数字の見習いさんも、ね」
と、目で笑った。
晩餐の終わりに、侍従長オーギュスト様が、静かに進み出た。
隣には、喪が明けた、柔らかな色のドレスのロザリー伯爵夫人。
「本日は、皆様に、ご報告がございます」
侍従長の声は、いつもより、少しだけ震えていた。
婚約の発表だった。
拍手が、広間に広がった。
第一卓の侯爵夫人が、目を丸くして、拍手をしていた。
侍従長の目が、扉の脇の私たちを、一瞬だけ捉えて、ほんのわずかに頷いた。
アデライドが、そっと、私の袖を引いた。
「……素敵ね」
「あなた、あの発表、本当は、ずっと気になっていたでしょう」
「……少しだけ」
アデライドは、頬を、ほんのり赤くした。
私は、小声で答えた。
「三つ目は、守れたわ。ぎりぎり」
「ぎりぎりでは、守れたとは言わないの」
「だって、見習いですもの」




