第五話 王妃の宝石騒動編
十九歳の春、私とアデライドの見習い期間は、あと一月で終わろうとしていた。
王宮の侍女見習いは、二十歳までに進路を決める。
王宮に残る者もいれば、貴族家へ仕える者、各部署の事務官付きになる者もいる。
礼法も実務も学んだうえで、それぞれの適性を見て配属先が決まるのだ。
アデライドは、来月から王妃陛下付きの侍女になると、すでに決まっている。
私は、まだ決まっていない。
貧しい子爵家の娘には、仕送りをしながら働ける勤め先が、どうしても要る。
私は帳面の数字を数えることで、焦りを紛らわせていた。
最後の研修先は、王妃陛下付きの女官部の宝物室だった。
指導役は、侍女長のベアトリス様である。
この日は、王妃陛下主催の茶会の日だった。
午後二時には貴婦人方が集まる。
その朝、宝物係の若い侍女セシルが、青ざめた顔で飛び込んできた。
「ベアトリス様。王妃陛下の『翠の蝶』の胸飾りが、箱にございません」
宝物室が凍りついた。
王家伝来の胸飾りで、今日の茶会のために陛下がお選びになった一品である。
ベアトリス様は、一度だけ目を閉じた。
「騒ぎにしてはなりません。二時までに探します。
マルグリット、アデライド。あなたたちは今日、宝物室の棚卸しの当番です。
台帳と貸出記録を調べ、必要な確認は担当の女官を通して行いなさい。
見たこと、聞いたこと、確かめたことを、私にだけ報告するのです」
◇
私は台帳を広げた。
胸飾りの記録は十二点。箱の中には十一点。
最後の記録は三日前の着用で、返納の署名はセシルのもの。
その後の出し入れは書かれていない。
「セシルさん。三日前から、箱を誰か開けましたか」
「昨日、衣装部から胸飾りを見たいと頼まれて……。
でも、すぐに戻すとおっしゃったので。
貸出票は後でいただくことになっていました」
セシルは唇を噛んだ。
「私が、先に貸出票をいただくべきでした。
きっと、私が疑われます。見習いを終えたばかりの新参ですから」
アデライドが台帳を覗き込み、静かに言った。
「台帳に書かれていないだけで、実際には動いたのね。
宝物室から物が出るときは、貸出票が発行されるはず。
その貸出票は、どこへ行くの?」
「衣装部や女官長のお部屋を通って、最後に台帳に戻ります。
……伝達経路の研修で習いました」
「それよ。その道をたどりましょう。
貸出票がどこかで止まっているのかもしれない」
私たちは、ほとんど同時ににっこり笑った。
「マルグリット。その顔、やめて」
「あなたも、しているわよ」
◇
ベアトリス様の指示を受け、担当の女官とともに貸出記録を確かめた。
女官長のお部屋には、昨日の貸出票は届いていなかった。
次は衣装部である。
回廊へ出ると、茶会の控室へ向かう年配の貴婦人が、案内係を待っていた。
上品な灰色の髪。胸元にはヴァレンティーヌ侯爵家の紋章がある。
「あら。何をそんなに急いでいるの?」
私は足を止め、頭を下げた。
「申し訳ございません。お客様にご不快な思いをさせぬよう、急いでおります。
詳しいことは申し上げられません」
嘘をつかず、けれど言わず。
アデライドも一歩前に出て、礼をした。
「ご案内の者が間もなく参ります。
どうぞ、こちらでお待ちくださいませ」
侯爵夫人は、ふっと目を細めた。
「そう。お仕事の邪魔をしてしまったわね。お行きなさい」
私たちは深く一礼し、衣装部へ急いだ。
◇
衣装部では、針子たちが王妃陛下のお召し物の仕上げに取りかかっていた。
その胸元に、翠の蝶がきらりと留められていた。
「……ありました」
担当の女官が確認すると、衣装部の女官コレットが顔を上げ、真っ青になった。
「申し訳ございません。昨日の夕方、胸元の位置を決めるためにお借りしました。
貸出票は後で書くつもりで、そのままに……」
セシルも、同行していた女官の後ろで青ざめている。
私は手帳を開いた。
「胸飾りは確認できました。
貸出票が作成されていなかったことも、記録しておきます」
コレットは、うなだれた。
「私が、後回しにしてしまったのです」
「セシルさんも、貸出票を受け取らずにお渡ししています。
ですが、どちらか一人の問題ではありません。
口頭だけで貸し出せてしまったことも、見直す必要があると思います」
アデライドが静かに続けた。
「まずは、ベアトリス様へご報告しましょう。
胸飾りの取り扱いも、貸出記録の訂正も、ご指示をいただいてからです」
コレットは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。すぐに参ります」
その声を聞きながら、私はアデライドを見た。
かつて毛布の端を握りしめていた彼女は、もういなかった。
◇
ベアトリス様に、私たちは報告した。
「見たことは、衣装部のお召し物に胸飾りが留められていたこと。
確かめたことは、貸出票が作成されていなかったことです。
口頭での貸出が行われ、記録が残っていませんでした。報告は以上です」
ベアトリス様は、担当の女官にも確認を取り、胸飾りを正式な手順で管理し直すよう命じた。
貸出記録の不備についても、後で関係者から事情を聞くという。
「……よく、騒ぎにしませんでしたね」
ベアトリス様は長く黙ったあと、ゆっくりおっしゃった。
「見聞きしたことを、正しい耳に、正しい言葉で届ける。
それができるようになりましたね」
茶会は時間どおりに始まった。
王妃陛下の胸元で、翠の蝶が静かに光っていた。
◇
その夕方、ベアトリス様は私だけをお部屋に呼んだ。
「ヴァレンティーヌ侯爵夫人が、あなたを侯爵家の侍女としてお望みです」
私は息を呑んだ。
「侯爵夫人は以前から、信頼できる若い侍女を探しておられました。
今日、回廊であなたにお会いになったそうですね」
「……はい」
「仕事の内容を軽々しく話さず、けれど失礼にもならない返答だったと、
お褒めでした」
ベアトリス様は、机の上の書類に目を落とした。
「もちろん、それだけで決まったわけではありません。
五年間の勤務評価もお伝えしました。
読み書き、計算、礼法、記録の正確さ。
どれも、侯爵家で十分に役立つでしょう」
「……私は、貧しい子爵家の」
「家柄ではなく、あなたをお望みなのです」
私は胸がいっぱいになった。
これで仕送りもできる。ちゃんと働ける。
けれど、喜びのなかで、ふとアデライドの顔が浮かんだ。
◇
出立の前夜、私たちは寝室で荷造りをしていた。
といっても、私の荷物は小さな鞄ひとつである。
「マルグリット。これを」
アデライドが小さな包みを差し出した。
新しい手帳だった。
「二冊持っているの。一冊は予備だと言ったでしょう。
……本当は、あなたにまた渡す日のために、持っていたの」
私は笑ってしまった。
笑いながら、目の奥が熱くなった。
私の古い手帳は、五年分の「見たこと」「聞いたこと」「確かめたこと」で、
すっかり黒くなっている。
洗濯場の大釜。厨房の焼き菓子。侍従長の盤。一枚の席札。
どの頁にも、隣にアデライドがいた。
「貴族のお嬢様は、予備を持ち歩く。覚えておいて、よかったわ」
「あなたに会う前は、私、言いたいことを全部飲み込んでいたの。
今は、必要なときに言える。あなたのおかげよ」
「私こそ。あなたがいなかったら、私は何度、お仕置きを受けていたか」
私たちは顔を見合わせて、少しだけ泣いて、少しだけ笑った。
「お別れじゃないわ。私は王宮の侍女。あなたは侯爵家の侍女。
また会える。……私は、いつか王宮の侍女長になるわ」
「私も、侯爵家の侍女長に。あなたには負けないわよ」
「そのときは、お茶を三杯分は付き合ってね」
「三杯でも足りないわ、きっと。
……友達でも、見せられないものは、あなたにもあるでしょう」
「ええ。見せられないものはあるわ。
でも、見たことだけなら、いつでも教える」
アデライドは私の目を見て、微笑んだ。
「あなた、これからも、見たことを全部言うつもり?」
「確かめてから言うわ。……言うべきことは、ね」
「三つ目の心得は?」
「守るわ。たまには」
「たまに?」
私は新しい手帳を胸に抱いた。
「だって、侍女ですもの」
最後までお読みくださりありがとうございました。
マル&アデ、二人のその後は、
『見た! 聞いた! 言うわ! の侍女長ですが、主がボンクラ王子と結婚だなんて許せません!!』
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こちらで、お楽しみくださいませ。




