第二話 厨房の焼き菓子編
厨房での研修は、三週間である。
二週目の終わりに、料理長のバルナベが、私たちの班に一冊の在庫帳を渡した。
にやりと笑った顔は、あとで思えば、悪巧みの顔だった。
班ごとに役割があり、私たちは帳面係で、班の残り二人は洗い場の当番に回っていた。
毎朝、棚の在庫を数えて、帳面と照らし合わせるのが仕事だ。
王宮の行儀見習いは、礼法や家政だけではない。
予算や使用人の管理、各部署の実務まで学ぶ。
嫁ぐ前に家政を学ぶ令嬢もいれば、私のように、出仕を目指す者もいる。
教えは一つだけ。
「人を使う者は、人の仕事を知らねばならない」
さて、私は数字が好きである。
子爵家とは名ばかりの我が家では、一粒の麦まで数えて暮らしていた。
それに、納得できないことは、調べずにいられない性分である。
過去二月分の帳面を読み返すうちに、妙なことに気づいた。
木曜の朝だけ、毎週、棚の在庫が帳面より少ない。
しかも、小麦粉が十二袋、砂糖が六袋、バターが二樽と、数までほぼ同じなのである。
数え間違いなら、曜日も数も、ばらつくはずだ。
誰かが毎週、水曜の夜に、決まった量を持ち出している。
そうとしか思えなかった。
私は、にっこり笑った。
「マルグリット。その顔、やめて」
隣で、アデライドが言った。
同じ班の彼女は、礼儀正しく、観察力があり、そして、とても口数が少ない。
「まだ何も言っていないわ」
「言う前の顔なのよ、それは」
◇
その夜、寝室で、私は手帳を広げた。
「確かめたこと」の頁には数字。
「聞いたこと」の頁には、昼間、洗い場の料理人が漏らした一言を書いた。
水曜の夜番は、副料理長のジャコブが、一人で受け持つ。
アデライドは、毛布の端を握りしめて、しばらく黙っていた。
「……先週の水曜の夜、窓から食料庫のほうに、灯りと人影が見えたの。
袋のようなものを、持っていたかもしれないわ」
「どうして今まで言わなかったの」
「確かでないことを口にして、人を疑うことになるのが、怖くて。
……王宮へ来たのも、父に勧められたから。
私、自分の意見を言うのは、苦手なの」
彼女は、もごもごと言った。
私は、手帳の「見たこと」の頁を、彼女に差し出した。
「見たことだけ、書けばいいのよ。
疑うのは私がやる。確かめるのも私。
あなたは、見たものを、そのまま、ここに書いて」
アデライドは、しばらくためらってから、小さな字で、丁寧に書いた。
水曜の夜、灯り、人影、袋のようなもの。顔は、見えず。
私たちは、顔を見合わせて、少しだけ笑った。
同室になって、よかった、と思った。
◇
翌朝、私は、帳面係の権限で、料理長に鍵の貸出簿を見せてもらった。
水曜の夜、食料庫の鍵を借りているのは、毎週、ジャコブ。
木曜の朝の返却も、ジャコブ。ついでに、本人にも尋ねてみた。
副料理長は、小柄だが腕の太い、いかにも頑固そうな料理人である。
「水曜の夜番は、副料理長ですか」
「ああ、わしだ。棚を数えて、戸締まりをする。
見習いには任せられん仕事だ」
落ち着いた声だった。
ジャコブは、見習いにも必ず「お疲れ」と声をかけてくれる人だ。
だから余計に、疑うのが後ろめたい。
アデライドが、隣で、そっと私の袖を引いた。
「……お声が、少しも揺れませんでした」
「疑わしいのか、潔白なのか、判断が難しいわね」
私たちは、厨房の隅で、手帳を見比べた。
数字は、毎週、木曜の朝に足りない。
夜番は、副料理長。灯りと人影も、見た。
けれど、袋が棚から出ていくところは、誰も見ていない。
夜番なら、灯りを持って歩くのは当然である。
「言うわ」
と喉まで出かかったが、私は飲み込んだ。
見たことと確かめたことだけで、人を断じるのは、まだ早い。
「疑わしいことと、犯人だと決めつけることは、違うわ」
「ええ。決めつけたら、お名前を汚してしまうもの」
アデライドの目が、すっと細くなった。猫の顔だ、と思った。
「じゃあ、見たこと、聞いたこと。
確かめたことを、そのまま料理長に、報告しましょう」
◇
料理長の部屋で、私は手帳を開いた。
「ご報告申し上げます。
毎週木曜の朝に、棚の在庫が帳面より少なくなっております。
数は、小麦粉十二、砂糖六、バター二樽。これは、確かめたことです」
「水曜の夜に、食料庫のほうに、灯りと人影を、見ました」
アデライドが、続けた。
声は小さいが、ためらいは、なかった。
「顔までは、確認できておりません。
聞いた話では、水曜の夜番は、副料理長お一人。
貸出簿にも、そう記されておりました。
ただ、これらだけで、どなたかを疑うことは、いたしません。
袋が持ち出されるところを、誰も見ておりませんので」
「どなたが、とは申しません。
ですが、帳面と棚が合わない理由は、突き止めたく存じます」
料理長のバルナベは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐くと、立ち上がって、手を叩いた。
「合格だ。横領事件は、仕込みでした。お疲れさま!」
戸が開いて、ジャコブが、焼き菓子の皿を持って入ってきた。
「……仕込み?」
「帳面の数字は、わしが毎週、わざと書き換えておいた。
偶然では片づけられんよう、曜日も数も、そろえてな。
棚の在庫は、一袋も減っとらん。
夜番は、副料理長の本物の仕事だ。灯りも人影も、そのせいだ。
疑って、確かめて、決めつけずに報告するまでが、課題だった」
私は、あんぐりと口を開けた。
すっかり悪者を見る目で数えていた自分が、少し恥ずかしい。
「私、昨夜、眠れなかったんですよ!
本気で、副料理長が悪者だと、思ったんですから!」
「うむ。人を使う者は、人の仕事を知らねばならん。
疑う仕事も、疑われる仕事もな。他の班にも、別の課題を出している。
洗い場の班は、皿が一枚多いと、大騒ぎだ」
「夜番は毎週、きちんと数えたんだがな。
帳面が合わんのは、料理長の字のせいだ。
……見習いの目が鋭すぎて、冷や汗をかいたぞ」
ジャコブは、そう言って、小さく頭を下げた。
「……料理長。ひとこと、よろしいでしょうか」
アデライドが、まっすぐに言った。
「人を疑うのは、気持ちのよいものではございませんでした。
次の班には、種明かしのときに、
疑ったことを詫びる時間も、設けてあげてくださいませ」
「うむ。……考えておこう」
料理長は、がしがしと頭を搔いた。
見習いに意見されても悪い気はしないらしい。
◇
私たちは、焼き菓子を、厨房の隅で頬張った。
「ねえ、マルグリット。
仕込みだと、最初から知っていたら、あんなに真剣に数えた?」
「もちろん、数えたわ。数字は、嘘をつかないもの」
「仕込みなのに?」
「だって、見習いですもの」




