第四十五話 再誕者
その肉塊の中は、血のプールになっていた。
美香の血で満たされた、巨大な肉塊の胎内。
その中へと、吉岡が沈んでいった。
「恭平、このままじゃ美香さんの命が危ない!」
鈴鹿の言葉に我に返る。
美香と繋がった管からは、トロトロと血が流れ続けていた。
「美香、美香! もう大丈夫だ。今助ける」
体中に刺さっている針を一本ずつ抜き、繋がっていた管を取り外す。
血が抜かれたせいなのか薬の影響か、美香は思うように喋ることも動くこともできなかった。
「美香さんは私が見てるから恭平はあっちを」
「そうだな……」
鈴鹿に言われプールを覗き込む。
血の水面に気泡がいくつも現れると、そこから吉岡の面影がある変異体が現れた。
見上げるほど大きくなった吉岡の胸には赤子の姿が確認できない。
肉に埋もれているのか、もしくは……。
「ああ、これが再誕……。僕は、母に誕生を祝福されている……。母が喜んでいる……」
吉岡は手を高く上げ、上を仰いで恍惚とした表情を浮かべた。
「おい……俺たちの子どもを返せ……!」
「子ども……? ああ、神の子か。不死なる女神、真なる母。僕の、母……」
「美香はお前の母親じゃねえ! 俺の妻だ!!」
俺の怒鳴り声で、うっとりとした笑顔を浮かべていた吉岡が無表情になりこちらを見た。
「君は……。母を独占しようとした獣か。僕を嚙み殺す気か? 怖いねぇ」
おどけた表情で首をすくめる。
化け物が人間のふりをしているようで薄気味が悪かった。
「子どもはどこだ……!」
「ふむ……。僕の奥で、核になっている……。まだ違和感があるな。同化しきれていないのか?」
まだいる。
まだ可能性がある。
そう思った瞬間、飛び掛かっていた。
このまま首を刈り取ってやる。
爪を最大まで伸ばし、腕を振るい──。
「ガッ……!?」
気がつけば壁にめり込んでいた。
視界がちかちかする。
吉岡が攻撃してきたのか。なにも見えなかった。
右腕がぐちゃぐちゃにひしゃげている。
右肩から先が焼けるように熱くなり、みるみるうちに獣の腕へと変化した。
「ふっ。気色の悪い獣が。僕は産まれ直したんだ。母に愛され必要とされる。母は僕を愛していたんだ。僕はお母さんの言うことを、ちゃんと聞いていた。クリスマスだって、誕生日だって、僕はずっと、言われた通り、家で待ってた」
「なにを言っている……?」
「なんだ、記憶の混濁か……? そうだ、獣、いいことを聞かせてあげよう。僕はね、母を見つけたんだ。死なない、女神だ。空から落ちてきた。僕は毎日テストを頑張って、お母さんに褒めてもらいたかった。だから勉強もいっぱいしたんだよ。百点を取るとお母さんは飴玉をくれるんだ」
「わけの分からないことを言うな! 子どもを返せ!!」
「僕は愛されている。女神を毎日見てた。箱を埋めていた。僕も埋めたんだ。九十点のテスト。お母さんを、怒らせる、悪い子に。僕は、いい子だったんだ」
吉岡がうつろな目でぶつぶつと言い始めた。
「お母さん、お母さん、やめて……! 叩かないで……! 僕のこと見て……。なんで、僕が、悪い子だからいけないの……?」
吉岡は頭を抱え、うずくまった。
「お、おか、お母さん、ぼく、いいこ、いいこにしてる、から、ずっといっしょニ、いて……アイし、て……オカ、あ、ア、アア、アァ……」
蒸気を発しながら、吉岡の全身が膨れ上がっていく。
背中の肉が蠢き、偽の母と同じようにいくつもの腕が生えていく。
「アア、おがアざあぁぁ……!!」
そう叫びながら巨大になった体を、増えた腕を使ってはいずって進む。
その進む先には美香がいた。
「鈴鹿、美香を連れて逃げろ! くそ! 行かせねえ!!」
美香と鈴鹿を守るように、吉岡だったものとの間に立つ。
何本もの腕が鞭のようにしなり、遠心力と重量を乗せた打撃で俺の体を滅多打ちにする。
叩かれるたびにその場所からいやな音が響く。なんて力だ。
振るわれた腕の一本を切り払うも、すぐに再生してしまう。
それでもやるしかない。
爪を構えた瞬間、頭部へと衝撃。
薄い壁を破壊し、床を転がる。
頭部が揺れている。視界が歪む。
「来るんじゃない!!」
鈴鹿が銃を撃った音が聞こえる。
怪物の動きは止まらない。
視界が戻ってくる。
邪魔者だと思ったのか腕が鈴鹿に狙いを定めている。
壁際に追いつめられた鈴鹿へ、腕が伸びていく。
その腕へ飛び掛かり三本を切り落とす。
しかし腕の数が多い。
一本の腕に左腕を掴まれると、続けて何本もの腕に全身を拘束された。
「ぐ、ぐうぅ!」
腕がミシミシと音をあげている。
やがて、ボグという音が全身に響き、腕に力が入らなくなった。
「がああぁぁ!! ぐっ……! ガッ……!!」
叫び声をあげれば顔を何度も殴られる。
鼻が折れたか、息がしにくい。
「いや! 恭平! 離せよ!!」
鈴鹿の放った弾丸が腕に命中したが、効いた様子はなかった。
どうにかして、この状況を抜けなければ……!
数本の腕が、俺の太ももと足首をがしりと掴んだ。
「くっ、ウウゥ……! アァッ!!」
何本もの腕で俺の足が引っ張られる。
ミチミチ、ブチブチ、というなにかが切れる音が聞こえる。
もう、体に力が入らない。
「いやぁ! やだ、恭平!!」
鈴鹿の叫び声が遠くで聞こえる。
浮遊感、それから衝撃。
拘束は解かれている。
放り投げられたか。
鈴鹿が叫んでいる。
美香が狙われている。
俺が、守らないといけない。
そう思い、立ち上がろうとするも、うまくいかない。
足も折れたか、と視線を向けると、そこにはなにもなかった。
どさり、と足が落ちてきた。
とても覚えのある靴を履いている。
深冬に選んでもらった、古着屋で見つけた、ジャングルブーツ。
ああ、足がなくなったのか。
血が止まらない。
意識を失いそうだ。
どうしたらいい、もうどうすればいいのかわからない。
俺も、怪物にならなければ、あいつには勝てない。
目の前には美香の血で満たされたプール。
吉岡いわく、再誕。
俺も、それをするしかない。
体を引きずり、力を振り絞り肉塊の中のプールへと飛び込む。
とても、あたたかい。
ぬるま湯の中で、揺蕩っているかのような感覚に包まれる。
遠くからくぐもった銃声が聞こえる。
鈴鹿が戦っている。
心地よさから眠りに落ちそうだ。
もう、ずっとここにいたい。
もう、つかれたんだ。
少し休んでも、誰も怒らないだろう。
頑張ってきたじゃないか。
俺は、よくやったよ……。
違うだろ、恭平。
お前は、愛する妻も、大切な子も、奪われたままでいいというのか。
慕ってくれる女の一人も守れないのか。
信じてくれた仲間になんと言うつもりだ。
戦え。
立て。
男だろう。
自分の足で立って戦え!
その手で家族を、仲間を守れ!
手がなくなったら蹴り殺せ!
足もなくなったら噛み殺せ!
その爪で!
その牙で!
お前が!
お前がやるしかないんだ!!
「ウオオォォン!!」
力がみなぎる。
プールから飛び出し、鈴鹿の首にかかっていた怪物の腕を切り落とす。
全身の力を込めて怪物を殴れば、数メートルは転がった。
「きょ、恭平……?」
「すまない、鈴鹿。遅くなった。怖かったろう」
「ううん、私は大丈夫だけど、恭平の、顔と、足が……」
「うん?」
ガラス窓に映る二足歩行の巨大な狼と目が合った。
お前が、俺か。
大切な人たちを守る代償が、化け物の姿になることか。
上等だろう。
「鈴鹿、お前らは俺が守る。美香とそこにいろ」
「わ、わかった!」
逆関節のように見える狼の足のおかげで、機動力がだいぶ上がっている。
床を蹴り、壁を蹴り、果ては天井までをも蹴って怪物の鞭のような腕をかいくぐる。
伸びた爪で切りつければ、その肉を深く抉り取れた。
「アアァ……! オガ、アアア!」
「お前と俺、どっちも化け物だな。だったら化け物同士醜い殺し合いをするぞ」
腕を切り飛ばす。
骨を折られる。
肉を引き裂く。
爪と牙が飛ぶ。
どちらも死なない。
それでもお互いを殺そうとするだけの、醜い化け物。
肉が飛び、腕が飛び、眼球がつぶれ、内臓が飛び出る。
いくら肉体を破壊しても、この地獄のような殺し合いは終わらない。
数分、数時間、もしかしたら数日が経過したのだろうか。
目の前の敵を殺すことしか考えられなかった俺の頭に、ひとつの違和感が生じた。
怪物の腕が再生しなくなっている。
さらにはその肉が溶けていく。
「ア、ア……。オ、ガ……サ……」
凄惨な殺し合いは、唐突に終わりを告げた。
怪物だった吉岡の身体は溶けて消え、丸い肉塊だけが残った。
それは血のプールを満たしていた肉塊と同じような質感だった。
「恭平、終わったの……?」
「たぶん……。終わったみたいだ」
「きょ……へ……」
「美香」
鈴鹿の腕の中で、美香が震える手をこちらへ差し出した。
両手でその手を掴む。
冷たくなっているが、それでも生きている。
「こ……ど、も……は……?」
「……消えてしまった。俺が、殺したんだ」
吉岡と同化し、そして俺と殺し合い、消えていった。
俺はそれを、すべてを受け止めるしかない。
美香は悪くない。
すべて俺がやったことだ。
「ねえ、恭平。あれじゃないの、あの丸いの」
「ん……?」
「あの丸いのの中に、恭平と美香さんの子が──」
駆け寄る。
手で触れてみる。
あたたかい。
いるのか?
この中に、俺たちの子が。
耳を当ててみる。
「鼓動だ……。心臓の音が、聞こえる」
「絶対そうだよ、きっと中にいるんだって!」
「しかし、これは、出していいのか……? 胎児って、出したら危ないんじゃ」
「さっき見たとき普通の赤ちゃんくらいだったでしょ! 肉溶けてきてんだし急いで出さないと危ないよ!」
「そうか……。そうだな」
爪を伸ばし、肉塊へ向ける。
この爪なら簡単に肉を裂くことができる。
それは中にいる子どもごと、簡単に。
「恭平、どうしたの? 早くしないと」
「……怖い。怖いんだ。俺の、この、怪物の腕じゃ、俺たちの子を、助けられないかもしれない」
「大丈夫だよ。恭平が、その腕が、私たちを傷つけたことなんて、今までにあった?」
鈴鹿へとすがるように視線を向ける。
「できるよ。恭平なら大丈夫。どんな姿になっても、恭平はずっと優しいじゃん。落ち着いて、ゆっくりやればできるから」
「……わかった、やってみる」
肉塊はどんどん縮んでいっている。
薄く、中の子へと張り付いているようで、腕や頭の形がわかる。
息ができなくなっているかもしれない。
焦らず急いで作業をしなければ。
爪を最小限だけ伸ばす。
薄皮一枚の下には子どもの柔らかい皮膚があるかもしれない。
慎重に、丁寧に、行う。
触感で肉の厚さを確かめろ。
心臓の鼓動は止まっていないか。
少しずつ、肉が開いていく。
最初に見えたのは黒い髪だ。
そこを起点に肉を裂いていく。
閉じた目が見えた。
小さな手が。
小さな体が。
五歳くらいだろうか。
とても小さい、女の子だった。
その胸がわずかに動いている。
ちゃんと息をしている。
生きている。
爪で傷つけないように、慎重に抱き上げる。
壊れないように、大切に、抱きしめる。
ああ、わかる。
本能が訴えかけてくる。
目から、涙がこぼれた。
「俺の、俺たちの子だよ、美香……」
美香を見れば、涙を流し、ゆっくりと頷いていた。




