一人じゃない
降る雪が強くなってきた。
セリスは故郷を思い出し、感情が昂ぶる。
「辛そうね」
雪景色の向こうでアリシアはセリスを睨みつけていた。
すぐに手を出してこないのは、氷結を警戒しているからだろう。
そして、数度の攻撃が確実に効いていることの証でもある。
セリスはさらに攻撃を続けるため、アリシアの間合いに入る。
攻撃力も防御力も速さも何一つセリスが上回っていることはない。
ただ、経験と判断能力だけが勝っている。
そしてそれを、セリスは何よりも信じられる。
触手は四本に増え、それぞれがセリスを目掛けて襲ってくる。
しかし、結局は人間の知覚能力で操るものだ。
至近距離では視界に動く敵を留め続けるのは難しく、自分の触手が邪魔になって敵の姿が隠れる。
さらにはこの天候――降雪がセリスに味方していた。
アリシアが乱暴に暴れたら暴れただけ、視界が悪くなる。
さらには、その『腐食』により雪が溶けて薄煙となり、幕がかかったように白いもやが常に漂う。
セリスが触手の一本を凍らせ、ガルムで噛み砕くと、アリシアは舌打ちをして触手を全て引っ込めた。
「あら、どうしたのかしら? 私に楽をさせてくれているのかと思ったのだけれど」
「ふざけるな。見えなくても当たればいい!」
アリシアは肉体を全てスライムへと変えて、大きく膨らんだ。
セリスはここまでは予想していた。
技術がないのだから追い込まれたら物量で押してくるだろう、と。
過去のマザースライムの記録を見ても、巨大化して町を飲み込むのが、ほとんどだった。
マザースライムには敵を包み込んで溶かす攻撃を好む傾向がある。
それは何度死んでも変わらず、生物としての特徴や癖のようなものだろう。
この状態にまで持っていくことが、セリスの目標だった。
「ガルム!」
セリスは影から召喚したガルムに魔力を注ぎ込み、巨大なケルベロスの姿を顕現させた。
生命力を燃やす黒い炎がセリスの周囲を取り巻く。
「説明は不要でしょう!?」
セリスが炎を走らせてアリシアを狙うと、大きく形を変形させてそれを避けた。
そしてセリスをガルムごと包み込もうと大きく広がる。
これをやらせるわけにはいかない。
ガルムに炎を任せ、セリスはスライム状の身体を凍らせるために走る。
大きく広がるために、身体は薄くなっていた。
(これなら全部いける!)
手を押し当てての氷結魔法の発動は、瞬時に全てを凍らせるはずだった。
しかし、氷結は手の周囲に留まり、そこだけがガラスのように割れる。
どう対策されたのか、すぐに理解した。
手を押し当てられた部分だけ体質を変化させて、周囲の液体と凍る温度に差をつけた。
だから、一部分だけが凍ったのだ。
「急ごしらえにしてはやるじゃない」
人間には不可能な芸当だ。
ガルムの炎を身に受けながらも、アリシアは包み込む動きを止めない。
ガルムの炎は相手の生命力を奪う。
魔力で構成されているスライムの身体には予想通り効き目が薄い。
――そう、まだ予想の範囲内のことしか起こっていない。
セリスはガルムを回収し、凍らせながらアリシアの包囲を突破した。
その時、すれ違いざまに凍らせていないアリシアの一部をガルムに噛みつかせた。
これは事前に検証が不可能な賭けだった。
もしかするとガルムが溶かされて吸収されかねないことだったが、凍結対策に性質を変化させていたせいか、それは起こらなかった。
そして噛みつくことで魔力を吸収するガルムの能力が、腐食のスピードを上回っている。
すでに何度か身体を凍結破壊したことで目減りしていた魔力が一気に削られたのを感じた。
アリシアの中のマザースライムは魔力汚染ではないことが確信に変わる。
自分の人格を守るために、アリシアの魔力と混ざっていないのだろう。
つまり、アリシアとは完全に分離しており、ただの乗っ取りだと分かった。
セリスは無意識に口角が上がっていた。
自分が相性で勝っていることと、アリシアの無事が確認できたこと。
人生で初めて何か大きなことを為そうとしているのを感じて、それが溢れ出た。
今なら涙が滲んでも、雪のせいにできる。
(でも、それはまだ早い)
セリスは焦ることなく、身体を小さく戻そうとしている哀れなスライムへ歩み寄る。
「もう勝ち目ないわよ。降参してアリシアを返しなさい」
「まだだ、まだ私は復讐を遂げていない!」
「わからないの? あなたはあの日、とっくに死んでいるの。諦めるとか、諦めないとか、そんな話は終わっているのよ」
「私はまだ生きている!」
「他人の人生を奪うことを生きるとは言わないわ。復讐は自分の人生を歩むためにやるべき。ここはあなたのいる場所じゃない」
完全に顕現したガルムの巨大な牙は、容易にアリシアへ突き刺さる。
大きさだけでなく、魔力の吸収速度も比ではない。
乾いた大地が水を吸うように、マザースライムの魔力は瞬時にガルムに喰われた。
ーーーーー
――――どれくらい時間が経ったのだろう。
アリシアは暗い水底で、じっと丸まっていた。
マザースライムに襲われ、肉体の主導権を奪われたことはなんとなく理解していた。
意識は相変わらずはっきりとせず、常に凄まじい眠気に襲われている。
しかしそれがまがい物の眠気であると理解すると同時に、何時間でも何日でも耐えられると自分の中で結論を出していた。
その根拠は、一つだ。
いつか必ずセリスが助けてくれる。
彼女に全幅の信頼を寄せているからこそ、辛抱強くただ待つという選択をとれた。
博識で情熱のある彼女に救えないのなら、もう自分は助からないのだろうとすら思っていた。
死を受け入れ、されどそれを選ばず。
そして、やがて、その決断が実を結んだのか、水かさが徐々に減ってきたのを感じた。
少しずつ、暗闇だった水中に光が差し込んでくるのと同じく、意識もはっきりとしてきた。
自分の周囲をラピスがくるんでいたことにも気がつき、心の中でお礼を言う。
水が腰ほどの高さになると、どこまでも続く水平線の中に人影が見えた。
それはアリシアの姿をしたマザースライムだった。
「なぜ、まだ生きている」
彼女は驚いた様子でアリシアを見た。
「セリスさんのおかげですよ」
「あの小娘の……」
「その様子だと負けたみたいですね」
「まだ負けていない。私の意識は生きている」
「セリスさんが聞いたら怒りそうですね。負けるのと死ぬのは違うって」
「それでも、私が生きている限り、負けを認めることはない」
「そうですか。まあ、私もセリスさんにあまり生き物を殺してほしくないですし……」
「なんだ? お前が私を殺すというのか?」
「だってもう、無理じゃないですか。ここまで逃げてきたんでしょう?」
「貴様――!」
マザースライムが憤怒の表情を浮かべると共に、彼女を素早くラピスが包み込む。
喋っている間に背後に回らせていたのだ。
「――私、一人じゃないんですよ」
ラピスの中に閉じ込められたマザースライムは、必死に足掻いている。
しかしやがて、アリシアがそうだったように、ゆっくりと眠るように意識を失った。
「ラピス、ありがとう。そのまま、お願い」
ラピスは言葉を返しはしなかったが、アリシアの意を汲み、そのまま無数の気泡を出しながらマザースライムを完全に消化した。
「さて、そろそろ起きないと。ラピス、連れて行ってくれる?」
ラピスはアリシアの手に絡みつく。
アリシアはそれを見て微笑み、先の見えない水平線へ向かって歩き出した。




