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群青の記憶  作者: 上辻樹
第四章「フーデッド・ホラー」
36/39

お粗末ですわね


日の出よりも早く、アリシアは目を覚ました。

前日の雪は止んでいるようだが、外は暗く、地面は積雪に覆われている。


アリシアの住んでいた地域ではあまり雪は降らなかった。

何年かに一度、うっすらと草木を覆う程度で、昼になれば日の光で溶けてしまうくらいだった。

だから、歩き慣れていないアリシアにとって一面の雪景色は足をとられて不快でしかなかった。


外に出ると、まだ薄暗く、人の気配もない。

これなら静かに町まで行ける。

今日は学院で保護者の懇談会がある。


グレイがこの場に現れる可能性は高い。

だが、彼の身を隠す能力は非常に優れており、もしかすると、アリシアに気がつかれることのないまま、敷地内へ足を踏み入れているかもしれない。


ここ数日で敷地内には多数の罠を張っている。

人の肌では知覚できないほどに細く伸ばした糸のような粘性の液体を、人の通りそうなところに仕掛けている。


そこを通れば、アリシアはそれを感知し、その体格と身長と体重からだいたいの人物を想定できる。

実際のところ、グレイであるかどうかだけが問題であって、グレイの条件に合わないのなら無視してもいいくらいの情報だ。


そしてそれには未だ引っかかっていない。

もちろん、グレイからすれば身を隠す必要は今のところないはずであり、時間になれば堂々と正面から向かってくるだろう。

その時、偶然を装って挨拶の一言でも交わせば、その隙に確実に殺せる。


アリシアはしばらく身を潜めることにした。

幸い、この学院の敷地内は隠れられるところはたくさんある。

隷属された魔物のために少しでも自然の環境を残そうとしたのだろうが、それがアリシアにとって好都合であった。


身体の一部をスライムへ変えて分け身を作り、様々な場所へ潜ませる。

これらに意思はなく、単なる囮だ。


あの鬱陶しい女――セリスはたしか獲物の追跡ができたはずだ。

犬風情の鼻で追えるとは思えないが、万全を期すためにやれることはやっておく。


そうこうしているうちに空が白んできた。

朝日が雪に反射して、これもまた、アリシアを苛立たせる。

この環境は不要な情報があまりにも多い。

人間社会は面白いと思っていたが、すぐにでもあの森に帰りたくなっていた。


復讐を果たしたら帰るのも悪くない。

あの泉は魔力に満ちており、大変居心地が良かった。

防人の魔力を吸っていたため、あれだけで満ち足りていたのだ。

それをあの男が壊した。

食料が自分から足を運んでくれる環境などそうはないだろう。

その恨みだけで、アリシアがグレイを殺すに値する、正当な理由になり得た。


朝日が完全に上がったにも関わらず、アリシアは一つの違和感に気がつく。


(静寂……)


あまりにも静かすぎる。

まるで学生が一人もいないかのように、不気味なほどに静まりかえっていた。


そして、足音が一つだけ聞こえた。

それはまっすぐにアリシアの元へと向かってくる。


(誰だ? 魔力の痕跡は完璧に消した)


追って来られるはずがない。

そう思っていた矢先、背後に気配を感じて思わず振り返ると、黒い番犬――ガルムが飛びかかってきた。


「なっ――」


何が起こったのか分からず、とにかく距離をとるためにアリシアは物陰から道の真ん中へと飛び出した。


「グレイ様ならいらっしゃいませんよ」


顔を上げると、あの女がいた。

本当に鬱陶しい。


「どうやって、ここを?」


「雪って証拠が残りやすいのよ。あなたの仕掛けた稚拙な罠の数々は無駄に終わったわ。さて、本題なのだけれど、身体を返す気はある?」


全てを知っているかのような目をしたセリスに、アリシアは舌打ちをする。


「――返すも何も。これは私の体ですよ」


「マザースライムって思っていたより頭が悪いのね。やっぱりただの魔物、言語が通じないわ」


あからさまな挑発に、アリシアは即座に反応し、腕をスライム状に変えて鞭のようにしならせてセリスの身体を薙いだ。

セリスの軽い身体が宙を舞い、地面に転がった。


「今引けば命だけは助けてあげます。私の目的はあなたのような生意気な小娘ではない」


セリスは苦しそうな表情を浮かべながらも立ち上がり、薄ら笑いを浮かべた。


「――だから、さっき申しましたでしょう? グレイ様はここにはいらっしゃいません。ここにいるのは、あなたと私。罠に嵌まったのはあなたですのよ。ここまで説明しなければ分かっていただけないなんて、想定を下回る愚かさですわね」


「貴様!」


「口調が崩れていましてよ」


アリシアがもう一度伸ばした腕は、いつの間にか凍りついていた。

すっかり忘れていたが、彼女は氷魔法を使う。

ガルムが凍った腕を噛み砕き、辺りにきらきらとした破片が散らばった。


「さあ、始めましょうか」


セリスの魔力が、せき止められていた河川のように溢れ出す。

この程度、恐るるに足らず。

アリシアはセリスをすぐに殺してグレイを探すことに決めて、臨戦態勢をとった。



ーーーーー



────セリスの手が震えている。

敵意を剥き出しにしたアリシアを前にして、恐怖を感じている。

殴られた左腕の痛みはまだそれほど感じないが、いずれ不利に働くだろう。


そうまでしても向こうから仕掛けさせたのは、そうしないと動けなかったからだ。

セリスは正当な理由がないと全力で戦えない。

自分のためだけに力を振るうということをしてこなかったせいだ。

その枷を外すため、どうしても攻撃を受ける必要があった。


アリシアに対して、セリスが分かっていることは二つだ。

一つは物理的な攻撃はほとんど通用しないこと。

肉体をスライム状に変化させられるほどに一体化していたのは想定外だった。


そして、氷結魔法が通用すること。

スライムの体組織のほとんどは水分でできている。

だから、氷は通る。


しかし、今の一連の確認のせいで、マザースライムも氷結魔法を警戒するだろう。

先ほどのように簡単には凍らせてはもらえないはずだ。


それに、向こうにはまだ腐食がある。

次からは殺す気でくるだろう。

そう考えていた矢先、アリシアの足元の地面が黒くくすみ、僅かに生えている雑草を溶かしていく。


(これが腐食……)


ラピスの『消化』なら何度か見たが、ここまでのものではなかった。

足先が雪に触れると白い煙が立ち上るところを見るに、単なる水とも違うようだ。

恐らくは性質そのものが真逆の化学物質だと予測する。


様子を伺っていると、視界の端に何かが写り、咄嗟にしゃがむと、セリスの頭の上を触手が高速で通り過ぎて背後の地面に突き刺さった。


「いきなり!?」


背後の積雪が爆発するように弾ける。

アリシアの腕がいくつもの触手に枝分かれし、セリスを追うようにして次々に襲ってくる。


触れられる前に凍らせ、ガルムに砕かせた。


まずは距離の有利を潰すために、セリスは駆け寄った。

動く相手を確実に凍らせるには手で触れる必要がある。


ガルムを三つ首の姿(ケルベロス)にするかどうかは少し悩んだ。

腐食の強さを考えるに、身体の大きさで有利はとれない。

むしろ的が大きくなることで避けづらくなる。


しかし、ガルムはその力の解放の加減で魔力の吸収能力も上がる。

無力化を狙うことも考えたが、今のままでは噛みつくことにリスクがある。

まずは凍らせて動きを止めないことには見極めができない。


触れられる距離まで踏み入った途端、アリシアの胴体が膨らんで周囲に破片をまき散らす。

セリスの全身がずぶ濡れになるも、立ち止まらずに触れた全てを凍らせて剥がす。

そしてそのままアリシアの半身を凍らせ、一瞬だけガルムを出して噛み砕いた。


「こいつ……!」


「戦闘技能はお粗末ですわね」


その悔しそうな顔を見てセリスは確信する。

傷の再生は早いが、この敵は戦い慣れていない。

経験を積まれる前の今なら勝てる。

セリスは気を引き締め、改めて集中する。


アリシアの学習能力を甘く見積もったつもりはない。

あと何度か攻撃を受ければ何らかの方法で学習と修正をして、氷結魔法そのものを無効化してくるだろう。

セリスは攻撃する回数を絞り、確実に仕留めるつもりで動くことに決めた。

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