大変だったな
セリスはなるべく自然に振る舞おうとしていた。
どうしても視線をアリシアへ送ってしまうが、彼女は何も気にかけていない様子で授業を受けていた。
セリスの見ていたところでは、部屋で見たような妙な言動はしていないようだった。
しかし、セリスと会話を交わすことはなく、淡々と一日の行事をこなしているような印象を受けた。
それも変だと言えば変なのだが、アリシアにもそういう日くらいあるだろう。
授業が終わると、アリシアは図書館にこもって、日が暮れるまで本を読みあさっていた。
選ぶ本のカテゴリーにはまとまりがなく、目的があって読んでいるわけではなさそうだった。
自身とスライムの手を用いて二冊を同時に読み進め、最初こそゆっくり読んでいたものの、少しすると高速でページをめくっていく。
しかし雑に読み飛ばしているようには見えず、頭に入っていない情報を片っ端から入れているように、セリスは感じた。
一冊を読み終えても関連する書籍へ移動するのではなく、生物学の本を読んだあとは経済学の本を読むように、あえて関係のない本を選んでいるようで、それがやけに人間的でないように思えた。
しかしその行動だけを盗み見ていると、異常に見えるのだが、だから何か問題があるのかと考えると、今のところセリスには判断ができなかった。
夜になり、寝るための支度をして、横になる間も、アリシアはセリスと一言も話さなかった。
セリスが「おやすみ」と声をかけても、まるで本当に聞こえていないかのように、無視をする。
夜の暗さと静けさに包まれると、セリスは今日一日の事を頭の中で思い出してしまった。
何か変なことはわかるのに、それを本人に確認することすら不安になるほどの不透明感がとてつもなく気持ちが悪く、心のざわつきを抑えるのが限界だった。
(――誰かに話したい。でも……)
『明日まで様子を見ても構わないのではないか?』ともう一人の自分が言う。
機嫌が悪いのは今日だけのことかもしれない。
しかし、そうではないかもしれない。
以前のアリシアが永遠に失われるような想像をして、父のことを思い出し、また気持ちが悪くなる。
ふらふらと部屋を出て、洗面台へ向かい、夕飯を吐いた。
急激なストレスによる体調不良に身体がついていけず、やっとの思いで袖で口元を拭い、その場にへたり込んでしまった。
浅い呼吸を整えるため、深呼吸をしようとするも、また吐き気が襲ってくる。
(ああ、なんて弱いのよ、私は)
他の誰かであったなら、ここまで気にならなかっただろう。
他ならないアリシアだったから、父の時のように、一握の砂のように、手の平からこぼれ落ちるような感覚がするのだ。
背後に仄かな温もりを感じ、ゆっくりと振り返る。
消灯後、防犯のために廊下を歩き回っているサラマンダーが、背後にいることに気がつかなかった。
「マルタさん……」
小さく呟くことしかできなかったが、サラマンダーはセリスが弱っていることを読み取ったようで、体をぐるっと包み込んでくれた。
その温かみに触れていると、やがてマルタが走ってきた。
「おい、しっかりしろ。どうした?」
「……大丈夫です。ただ、少し気分が悪くて」
そう答えるも、最後の方は声が掠れて聞こえたかわからない。
「大丈夫そうなら部屋に戻らせるが、一人にしておけないな。管理室でいいか? 簡易ベッドしかないが。嫌なら同室のアリシアを呼んで迎えに来させるぞ」
「それだけはやめてください……!」
肺の中の空気を全部使ってやっと絞り出す。
その様子で何かあったと思ったのだろう、セリスを抱きかかえる。
「ひっ」
「大人しくしてろ」
初めて人に抱きかかえられたが、この年齢になるともはや安堵より恐怖が勝つ。
しかしそのおかげで、少しだけ気持ちが和らいだ。
管理室に入ったのは初めてだ。
ここは普段からマルタが仕事場として使っている場所で、机や棚の他に、仮眠用のベッドが備え付けられている。
ベッドへ優しく降ろされた頃には、セリスは会話ができるくらいには落ち着いていた。
少しだけ水をもらって喉を潤すと、気持ち悪さも次第に減っていった。
「で、どうしたんだ? 何か悪いものでも食べたか?」
「いえ、そうではなくて……。そうだったら良かったんですけど……」
「何をもごもごと。じゃあ痴話喧嘩か? 男女の揉め事は毎年よく聞く」
「そうでもなくて……」
マルタは首を傾げる。
他に思い当たることがないのか、降参と両手を上げてみせた。
「……アリシアが、変なのです」
「変? あいつもお前みたいに体調が悪いのか?」
「いいえ、体調の変化ではなくて、精神面の変化と言いますか……。私にもまだ何が何だかわかっていないのです」
セリスはアリシアの様子で覚えていることを全てマルタに説明した。
その間、彼女は腕を組んで黙って聞いていた。
リングとの関連はないと予想しているところまで話し終えると、やっと彼女は口を開く。
「――大変だったな。不安だったろう」
そう労ってもらって、セリスの目にまた涙が浮かぶ。
セリスは自分が思っていた以上に、自身が他人の気遣いに敏感なのだと知った。
「しかし、アレだな。あたしも力になってやりたいが、この手の精神汚染や魔力汚染の知識の面で言えばお前より少ない。グレイなら何か知っているだろうが、あのジジイを捕まえるのは至難の技だ。向こうから来るのを待つしかない」
「他に詳しい方はいらっしゃいませんか?」
「まあ、あとは、学院長か」
「専門家なのですか?」
「いや、学院長とグレイとあたしの父親は古い知り合いでな。昔からよく知っているが、テイマーとしての経験以上に、医療に長けている」
「学院長はお医者様だったのですか」
「いや、仕事としてじゃなくて、貧しい農村や孤児のために知識を蓄えたって言ってたな。色んな場所を旅しているうちに、必要だと思ったらしい。本当は本職に任せた方がいいんだろうが、場所によってはそうもいかないことが多かったと言っていた」
そうした奉仕精神の延長線上に今の仕事があるのだと彼女は言う。
セリスもそれには納得できた。
テイマーとして優れていても、教育者として優れているかは別の話だろう。
ローディウスはそのどちらも条件を満たす希有な存在に違いない。
「──じゃあ、明日聞いてみるか。昼、またここに来られるか?」
「ええ、私は構いませんが……」
「あたしのことなら心配すんな。仕事の邪魔になるなんて考えてんならお門違いだぞ。これも仕事の内だ」
「すみません。お言葉に甘えさせていただきます」
力なく目を閉じる。
問題が解決したわけではないのに、胸のつかえがすっと取れる感覚がした。
これが他人に頼り、相談するということなのだ。
なんでもっと早く、と後悔するよりもさらに早く、セリスは眠りへと落ちていた。
それを安心と呼ぶのだと気がつくこともなく、ただただ優しさに抱かれていた。




